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漢字は付属品になる時

言語には、ニュアンスが微妙に違う語彙は多い。ネイティブとしても時々解釈しづらい。言葉に惹かれる人にとって、その細かく繊細な属性はキラキラしていると思う。漢字文化圏で生まれたことで、形の美、古文や四字熟語の発話のリズム感をよく理解できる。しかし、日本語を学ぶとき、オノマトペと有限の漢字で組み合わせる複合の表現にフレッシュさを感じていた。日本の書籍の組版では、かなと漢字をそれぞれ別の書体で表現するのは多いことを知った時、本当にびっくりした。きちんと考えると、かなと漢字の性質の違いを視覚化するのだろう。漢字にもっと慣れている台湾人として、音声と形とのズレにずんぶん苦労した。名前や地名をはじめ、漢字で覚えられるが、読み方を忘れてしまうケースは多い。

月極駐車場の月極は「ゲッキョク」か「ツキギメ」か、まさに形と音声とのズレだ。それにより、その言語のルーツと潜む意義に対する理解も変わる。漢字なら、その字の形から連想することは多いが、表音文字なら、まずその発音から連想するのだろう。笑い話にはよく発音による誤解が扱われる。そういえば、同時に表音と表語文字を使っている日本人にとって、連想する時どこから着手するのだろう。同じような意味、また同じ発音を持つとしても、お洒落、おしゃれ、オシャレからもたらされるイメージは違う。また、日本では昔から漢字を借り、和語の意味や音声をかなとして漢字につけてまとめるやり方が多い。ある意味、場合により、音声を主体にし、漢字は表記の代用品や付属品になるかもしれない。そう考えると、表語文字の風土で成長し、考えてきた私には、異なる言語と付き合うとき、視点を切り替えることが大事だ。

日本語で、流行語や造語が発生する頻度は中国語圏より高いと思う。日常レベルで哲学が浸透すること、マーケティングが発達することなど原因があるが、意義の基盤で表語連想と表音連想の切り替えが多いのも一理あるかもしれない。認知科学では、言語は思考など心の動きと直接につながっているので、言語を重視する。子供は有限の言葉しか学ばないのに、多様な話を対応でき、自分でも聞いたことがない新しい表現をする。また、言葉は発言者の身振りにまで影響されるので、英語を話すなら自己意識をもっと前にして、日本語を喋るなら控え目にする。異文化と付き合う時、マナーや空気だけではなく、連想と思考のロジックを視野にも入れれば、色々な面白いことを発見するのだろう。

(2021.7.12)

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