「生きてて偉い」の違和感 [R6.5.10]

ネットミームに「生きてて偉い」がある。これは配信者やVtuberが無意味に褒められたい時に要求する言葉だ。

それが世の中に出回りまくっている。愚かにもだ。

この言葉は3つの問題点がある。

・まず偉いってなんだよ
と言う点だ。偉いと言うのは上下関係が発生しているから成立する言葉であり会社や教師とのやり取りじゃねぇんだぞとなってしまう。恐らくこの言葉が波及したのはVtuberでのチャット上で流行ってしまったからではないかと考える。日々の生活に鬱屈した日本人が非現実的なVの配信へと向かい、そこで箸が転がれば笑い風が吹けば喜ぶ緩いコミュニケーションを行い続けた結果、自分の言われたい言葉を相手が投げかけてしまうようになってしまったのではないだろうか。悪口と言うのは常々自分の言われたくない言葉を相手に投げかけるようになっている。同様のケースで、救いを求めてる人ほど他人の悩みを積極的に聞こうとしたりする。配信者は視聴者ありきの存在なので上下関係はどうしても存在する、それを意識させずコントロールするのがその場の主の役割だ。

だけれどシャバで偉いと言う言葉は簡単に使用して良い言葉で無い気がするんだ。何故なら上下関係を意識させる事でイラつかせてしまう事、そして相手が受け入れてしまえば簡単に関係値を固着させられるからだ。この言葉の端に違和感を感じるのはそういった操作する人間関係の意図を無意識に感じてしまうからでは無いか。この人は簡単に褒めてくれる、餌を与えてくれると思い込むのは腹を出して媚びる犬と相違ない。そうすれば牙は抜かれてしまい首輪を付けられて終わりだ。誰かのペットになりたくなければ気高くたれ。

・死んでて悪いか
という点。まず死と生は真反対の言葉では無い。0歳の時に偶然この世に生まれ、80幾ばくかで死んでいくのが割と一般的な現代人の人生だ。しかし生まれた時からずっとずっと肉体はゆっくり油が垂れるように死んでいくのである。生を肯定し死を否定するなど本来は出来ない矛盾を孕もうとするなど愚の骨頂極まりない行為であると断じても良い。そもそも死とは代謝であり使えなくなった既存を破棄することでその隙間に新しい生をねじ込む事で個人は発展しているのでそれを無視した言動は不愉快だ。

生き続ける事が良いと言うのはただの社会的通念である。何故中絶が許されて生後数分の未熟児を虐待すると犯罪に当たるのか。それは産まれたと同時に国家は戸籍を与え、同時に税金を発生させているからである。本人に支払い義務が無くても親が払わなくてはいけない、そんな生きてて偉いこと生きて税金を納め国家に貢献出来て素晴らしいなどと言われて誰が嬉しいか。社会に毒された言葉を気軽に投げかけ、両手を手放して喜ぶんじゃない。

社会はこう言っているが私は死ぬ事も十分な選択肢だと思う。生きてて偉いと言われた個人の中に自己否定として受け取る人間も居るだろう、死にたい人間だ。そんな人が「生きてて偉い」など言われてみろ、自分が死ぬ気で生きてきて、それでも絶望してしまって、その挙句遠回しに生きていれば偉い、死のうとする貴方に価値は無いなどと社会全体がその風潮になり押しつぶされてしまう。実際私が色々と聞いた話では死にたいと言う感情が真っ先に否定されてしまい困った事になる。そんな人間に私が提示した解決方法の話はまた今度の機会に。

・生きているだけは偉くない
人は生きているだけでは偉くない。そんな事は皆分かっている、それでも必死に肯定しようとして出て来た言葉を私は真向から否定しているのは理由がある。つまりは生きていると言う言葉の中身を分解する必要があるが眠たくなってきたから結論だけ言います。





死が確定しながらも必死にもがき苦しんで生を充実させようとする姿が、ただただ美しい。

これだけです。おやすみなさい。今日も私は死にます。



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