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食卓を囲む冒険なのだな [R6.5.17]

ダンジョン飯を読んだ。現状12巻まで。



かなり物語が動き出した!凄い!迷宮の主となったマルシルが暴走しだして他の仲間が止めに入り欲望の塊を積み上げてやっと合流した所まで。今までやっていたいかに飯を食うから離れて別軸の目的が動き出した気がすると思いきや、その目的を達成する手段がずっと食事なのは本当にすごい。

基本的に対立があってその先に和解があるのだがその線上に絶対食事がある。食事を挟む事でオークを信頼させてきたし食事でその他の冒険者も懐柔してきた。

食事と言うのは本来家族で囲むモノである。特別な繋がりがある関係性で同じ空間に存在し同じ行動で同じ物を食べる。個人主義や独身の思想が認められる中で共有する事の美しさが蔑ろにされていると実感できる作品なんだなと感じた。

同じ釜の飯を食った仲間と言う言葉がある、他にも鍋を囲んでつつくと言う言葉があるように食事を共有する事で仲間意識が生まれる。もっと偏った事話して良いか?ありがとう。食事を共有する事が唾液を共有する事なのだ。粘液を交換する行為は古来から愛の象徴として使用されており疑似家族の関係を簡単に形成できる。親が子に口移しするように、信頼たる人間でしか行えないコミュニケーションでありその後は強固な関係性を築けるだろう。

別にライオスがそういうタイプの変態であると言いたい訳じゃなくて食事する事の大事さを知っている人間なのだ。彼は会話でのやり取りが非常に苦手でそもそもモンスターを食べようとする変人なのけれども、それでもお人良しで仲間思いで、その先で食事をすると言うコミュニケーションを選択したのは何も変ではない。若いウチに両親から離別し妹と二人で仲良くやってきた過去もあるので仲間意識に飢えてしまうのも分かる。冒険者として生きて食事を共にするうちに人とそう言う接し方もあるんだと気付いたに違いない。根本にある家族が欲しいと言う願いは悲しきかな家族と離れ離れになって混沌に巻き込まれていくうちに少しずつ叶って言った。

翼獅子も根本の欲求は食事がしたい事になる、けれど彼の食卓は誰とも共有出来ない。それはライオスと共鳴する鍵になりそうだけれども決別の時は近い気がする。もしもライオスが翼獅子に共感してしまったらそれは自己犠牲の道に進んでしまうんじゃないかと言う不安もある。それでも彼のスプーンは動いてくれるのだろうか、家族となってくれるんだろうか。


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