デザインについての走り書き(投げ銭制だよ)

きょう、HuluでTOP DESIGN というインテリアデザイナー版American Idolみたいな番組をみた。

その中で、最初に脱落してしまった2人の女性デザイナーに対してコーディネーターがこう言っていた。

「デザインは主観的なものだから。勝負になれば誰かが負ける。」

後半はまあいいとして、あとジムで走りながら見てたから日本語訳しか見ていないのだけれど、僕はデザインは決して主観的なものではないと思う。

もっと言うと、デザインとアートとの大きな違いはそこにあるんじゃないかと思っている。

デザインは常に客観的な快を目指すべきだと思う。美醜のうち、デザインと呼べるものは前者に限られると思う。

そして、アートは常に一対一の主観的なコミュニケーションに留まり、かつそれは美醜を問わない表現であると思う。

留まる、というのは何らネガティブな話をしているわけではなくて、つまりアートとは何か、目の前にあるこの作品がアートと呼べるのか、といった状況に対して、我々は常に主観的な結論しか導くことができないということである。

一方で、デザインは客観的な、かつ快をもたらすようなものでなければならないと考える。それはつまり評価可能と言い換えることもできるかもしれない。デザインは計画の表出であり、その計画は解決につながらねばならない。

(狭義の)よりよい生活のために、よりよいデザインが目指されるべきである。

アートは極端に言えば作家とミューズとの関係においても成立する。あるいは作家のみの一方的なディスコミュニケーションにおいても成立すると言える。それはすなわち作家性の表出であって、極めて個人的な表現にその衝動はある。

しかしながら、デザインは社会性を帯びねばならない。それは常にmake things better でなければならないし、ともすれば教育的でなければならない。

マクドナルドの椅子こそデザインである。かの座りにくく、若者の屯を防ごうとする客観的社会教育性こそデザインの最たるものである。

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