子どもを欲しくなかった私が、子どもを欲している話

子どもが欲しい。女の子が欲しい。娘には花の名前を付けたい。花のように美しく立派に育つように。散り際まで堂々と胸を張れるように。

少し前まではこんなこと考えもしなかった。私は一生子どもは産まないと心に決めていた。私は反出生主義者だった。こんな汚く辛い現実に、世界で一番尊く光る赤ん坊を産み落とすことはできない。それは私にとって一生の罪であり、赤ん坊にとっては地獄の始まりである。私は己の子どもに辛い思いをさせたくなかった。その一心で子を産まない選択を選び続けてきたのである。

今朝、今月の生理が始まった。今日は特に生理痛が酷く、子宮を雑巾のように強く絞られるような、ぎゅっと圧縮される鋭い痛みに息が止まった。生理痛は嫌いだ。生理は嫌いだ。子どもを産む予定なんかないと信じきっていた過去の私にとって、生理はただの無駄に疲労させられる強制デバフイベントであった。子宮を捨てたいとすら思っていた、いや、思っていたはずの私の頭に今朝よぎったのは、いつか、もしも、自分が子を授かり、この腹の中で子を育てることになったなら……。そんな景色である。

きっと産むまでに痛く苦しい思いを何度もするに違いない。そうに違いない、と恐れる心と同じくらい私を支配したのは、その辛さを受け入れてでも子を産み育てたいと思う気持ちであった。あんなに嫌いだった生理が、今では「必要なことなんだ」と認識できる。世界の見え方が変わりつつあった。

もし私に子どもができたら?……。

つわりを乗り越え、徐々に大きくなっていく腹を抱える生活を乗り越え、その中に宿している新たな命を毎日待ち遠しく思いながら(たまには、憎たらしく思うこともあるだろう)、出産という最大の難関を乗り越える。ほやほやの赤ん坊がようやく産まれてきた。そんな赤ん坊を胸に抱いたなら。

抱いたなら。

腕の中の小さなぬくもりを想像するだけで、涙が溢れる。

退院したあと。横になっている私のそばに、むにゃむにゃとうごめく赤ん坊が寝転がっている。私はその頬に触れる。肌はぷよぷよしている。赤ん坊が無垢な黒い瞳で私の顔を見つめる。赤ん坊の手に自分の指を近づけると、赤ん坊は私の人差し指をぎゅっと握りしめた。その小ささ、愛おしさに私は動揺するだろう。「こんな綺麗なもの、今まで一度も見たことがない。」

赤ん坊は泣き喚き、私をあたふたさせるだろう。お腹が空いてるのか?うんちをしたのか?眠たくてぐずっているのか?分からない。分からないけど何でもやるしかない。数十分の試行錯誤の結果、なんとか泣き止ませることには成功したけれど、私はもうくたくたである。しかしすぐそこにある、もちもちとした言葉の通じない肉の塊を見ると、自分は何か神聖なものを育てているのではないか、聖職者として神に仕えているのではないか。そんな錯覚を起こす。私は子への信仰心を自覚するであろう。

その全てが愛おしい。欲しくてたまらない。

私は、赤ちゃんが欲しい。

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