創作BL 白雪のさようなら

(シリーズものですがオムニバス形式ですので単体でも読めます。シリーズへのリンクは最後に。)


あの日は白雪が降っていた。

彼の部屋はひどく静かだった。箱火鉢の中で炭が燃える音、それから彼が布団の中で身じろぐきぬ擦れの音だけが、かすかに囁いている。

「雪は音を吸う、と言うけど」

彼はかすれた声で喋り出した。

「こうも静かだと、本当につまらないものだな」

彼はガラス戸の向こうの銀世界を凝と見つめていた。その目はどこか遠く、もはや時間は残されていないのだと私に予感させた。

「そうだね」

私の返答もさぞ空虚に聞こえたことだろう。

もはや彼の耳には全てが静寂にくるまれて聞こえるのであった。



我が生涯の最高の友人であり、また、非常に優れた詩人である男ーー咲川雅哉(さきかわまさや)が死の病に犯されたのは突然のことだった。

いや、この最も酷い病の前にも、いくつか病を抱えたことはあったのだ。しかし、どれも致命傷ではなかった。

そこにトドメを刺すように来たのが、彼を確実に死の谷へ連れて行く最悪の病であった。

彼は最初こそ空元気に笑っていたが、徐々に体の痛みが激しくなり、立ち上がることができなくなった。やがて少しでも体を動かすと激痛が走るようになり、完全な寝たきりになった。

外に出られなくなり、彼の笑顔を見ることは少なくなった。


雅哉は元々快活な性格だった。外出しては体を動かし汗を流して、即興で自然の美しさ、空の匂い、風の色、草の音を歌う天才的な詩人であった。

緑の風を浴びながら無邪気に笑う彼が美しくて、何度その姿に憧れたか分からない。

「雅哉の詩は本当に良いね。よく即興でそこまでの言葉選びができるものだ」

そう褒めた時、雅哉はあはは、と声を出して心底嬉しそうに笑った。

「濯(すすぎ)だって、最高の小説書くだろ!お互い様だよ」

そう言うとまた雅哉は木々のざわめきに耳を澄ませて、詩を語るのである。

雅哉は「自然」そのものだった。


案外、私は君のそんな自由さに、恋でもしていたのかもしれないな。

「男同士で恋などと」とは、どうか、思ってくれるな。

本当に恋をしているようだったのだ。君と出会ってからの私の心情は。

私は、君と、君の詩に出会うために生まれてきたのだと、何度思ったか分からない。

憧れの情念を恋だと歌えば、君はどう返しただろう。


文壇も当然彼に注目した。彼の飾らない、ありのままの世界の美しさをまっすぐな歌声で高らかに語るその詩は高く評価された。

当時既に私は小説家および歌人として名を知られており、しかし彼とはそれ以前からの友であった。古くからの学友だったのである。彼の詩を文壇に強く薦めたのも私の一挙であった。

彼の詩を眠らせてはいけない。必ずや太陽の元に出さねばならない。私は彼の詩を読んでそう思い、そして、やや強引にでも彼を白日の名誉の世界に呼び寄せたのである。

名高い詩人の称号を得ても、彼は特に何も変わらなかった。いつも通り、活動的で明朗な性格のままであった。慢心や名誉など、全ては彼の前では意味を為さなかった。

その変わらなさがまた美しかった。称号にも何にも縛られない自由さに憧れた。


そんな君が、こんな病に犯されて、自由を奪われてしまうなんて。

この世界は残酷だった。彼の寝床で初めて彼自身の口から直接病名を聞いて、絶句したあの絶望を忘れられない。

どうか嘘であって欲しかった。

彼の笑顔を、私以外のものーーそれこそ「宿命」とでも呼ぼうかーーに奪われつつあることを知り、私は平常心を失った。

一番苦しかったのは君だったというのに。私は己の感情を御することに必死で、あの時の君の顔をあまり覚えていない。

もう、彼の一挙手一投足全てが、残り少ない資源によって稼働する僅かな駆動であった。

私は彼の残りの全てを見逃したくなかった。彼は結婚しておらず、家族とともに暮らしていたが、その人数では彼の看病は難しかろう、生活費は私が出すし、私も看病を手伝う、どうか頼む、手伝わせてくれと、半ば押し切る形で彼の看病に従事し始めた。彼の部屋で執筆活動をしたこともある。口伝により彼の作品を書き留め、文壇へ発表したこともあった。


私の魂は常に彼の側にあった。

彼は一度たりともそれを拒まなかった。


病床に伏していた彼が、微かに声を上げた。積もった雪のわずかに崩れる音を聞き取ったのであった。

「今、雪が崩れた」

「そのようだね、音がした」

「ずいぶん固い雪だったのだなあ。柔らかい雪であったなら、音などしないだろうに」

「長く降っているし、氷柱のように固まっていたのかもしれないね。それが崩れたのだろう」

彼は急に楽しそうにけらけらと笑った。

「なんだ、音を吸うと聞いていたが、たまには面白い音も出るじゃないか!」

彼には雪の音が聞こえたことが心底幸せに思えたのだろう。体が痛むのを気にせず、彼はしばしの間くすくすと笑い続けた。

それは自然の美しさを歌っていた頃の彼の笑い声だった。彼は死の淵に立ってもなお、世界の面白さを探していたのだ。

「なあ、濯(すすぐ)、良い詩を思いついたぞ。書いてくれるか」

「もちろん。すぐに準備するよ」

私の名、冬木濯(ふゆきすすぐ)ーー彼はいつも私を濯と呼んだ。

雅哉の詩を急いで紙に書き留めた。私が書いたものを確認のため音読すると、彼は満足そうにした。

「濯、ありがとう。お前がいなきゃ、俺は詩をこの世に残すことすらできん」

「逆だよ、雅哉。私は君の詩をこの世に残す使命を受けて生まれてきたのだ。それをさせて貰えなかったら、私は生まれてきた甲斐が無いよ」

雅哉は一拍猶予を置いてから、変わらぬ微笑みのまま言った。

「それじゃあお前、俺が死んだら、生きる意味を失っちまうのか。……それは、可哀想なことをしてしまうな」

サッと血の気が引いた。

雅哉に言わせてはいけないことを言わせてしまったと思った。

私が弁明しようとするより先に、雅哉は言葉を繋げていく。

「なあ濯。俺が死んだら、絶対、俺のことなんか忘れて幸せになれ。お前、俺に囚われすぎだよ。俺のこと好きすぎるんだって。頼むから、お前の人生を生きてくれよ」

雅哉は一つ唾を飲み込むと、最後にまたかすれた声で一言付け加えた。

「それが俺の願う幸せなんだよ」

私はしばらく何も言えなかった。穏やかな雅哉の顔をじっと見つめていた。

「……雅哉」

ようやく出た声が涙まじりで、我ながら、情けなかった。私の顔を見た雅哉もまたうっすらと涙を浮かべていた。

「雅哉、君がもう長くないことは、もう、分かっている。だからこそ、これだけは伝えておきたい」

「なんだ」

私は流れる涙を我慢しなかった。

「私は君に出会うために生まれてきたのだ。それは、君が死んでからも、灰になってからも、土の下に眠ってからも、変わらない。だから、きっと私は君の眠るこの世界を愛し続けるよ。人々が君を忘れても、私だけは君を忘れない。私だけは、君を愛し続ける。それが、私の幸せだ」

「……おいおい。俺はもうすぐ死ぬんだぞ?それからの数十年、お前は俺を思って生き続けてくれるっていうのか?」

「ああ。約束する」

雅哉は顔を覆って泣き出した。私は念を押すように、涙を零しながら小さく呟いた。

「雅哉。私は君を愛しているよ」



数日後、雅哉は静かに息を引き取った。享年三十二歳だった。

それはあの日と同じように雪の降る日で、私は彼の死に目には間に合わなかったが、雅哉の家族は私にこう語ってくれた。

雅哉は、最後に雪の崩れる音を聞いて、

「ああ、もうじき春が来る。綺麗な春に違いない。桜も梅も、みな俺の死を糧にして、喜んで咲くだろう」

と笑ってから逝ったという。



雅哉が死んだ冬の日から幾月かが経過した。雪が溶けて澄んだ水が川に流れ、それを吸った桜が見事に咲き乱れた。

雅哉が咲かせた桜に違いなかった。

私は窓から桜を眺めながら、自然の中に還っていった友を思いーーそうだな。原稿の続きを書かねばならない。

手にしていた煙草を灰皿に押し付ける。紫煙がくゆりと立ち昇り、まるで線香のようだった。


君は今も、この世界で笑っているだろう。





あとがき。

こちら、昭和初期に若くして自殺した作家・龍田紫苑を中心にオムニバス形式で展開している創作BL「紫煙と共に、君は消ゆ」のうちの一作として書きました。

モデルが誰かは、間違いなく一発で分かってしまうと思いますが、二人の名前は「『冬』の雪が溶け、悲しみを『すすぎ』、それはやがて『川』になり、春が来て花が『咲』く」と繋がるように付けました。

濯は今後もどこかの作品で必ず登場するはずです。いえ、雅哉も必ず名が出るでしょう。


恋心のように淡い親友同士の深い愛を、私は愛おしく感じます。

ありがとうございます!生きる励みになります。