創作BL 煙草の君

煙草に火をつける。用済みのマッチを灰皿に投げ込むと、やがて火が消え、細く煙が上がった。煙草の紫煙を深く吸って、ため息交じりに大きく吐き出す。目の前が真っ白にぼやける。舌の上でぴりぴりと刺激が起きた。こいつは恋人が買ってきた銘柄で、俺の好みじゃねえが、余っちまってるもんで仕方なく吸っている。

「ちょっと先生、原稿用紙に灰、落とさないでくださいね」

俺の背中めがけて諭すように飛んできたのは、恋人の声だ。振り返ると、なまっちろい、綺麗な顔をした男が俺の後ろにぽつんと正座している。いつの間に俺の部屋に来てたのやら。

「おうおう。お前じゃあねえんだから、そんなへまはしねえさ」
「むう。あの時僕が灰を落とした紙は、結局内容が良くなくて没にしたんですから、いいんですよ。それより先生、まだ一文字も書けてないんですか?締め切りもうすぐなんでしょう?」
「うるせえなあ。なかなか思いつかねえんだよ。お前みたいにぽんぽん産める作家じゃねえんだから、俺はのんびり考えることにすんだ」
「そう言っていつもぎりぎりになるんですから」

小言を言いながら、恋人はゆったりと態勢を崩してあぐらをかいた。着物の裾から薄く毛の生えた脛が顔を出す。恋人は切れ長の目で、俺の吸う煙草の煙を眺めているようだった。

「おい、お前も吸えよ。お前がたくさん買っちまったせいで余りに余ってんだ、この煙草よ。俺の好みの味じゃねえっつうのに」
「いえ、今は遠慮しておきます。僕は基本、原稿に向かってる時にしか吸わないですからね」
「そういやお前、書いてたっつう小説、ありゃどうなった。最後で行き詰まってるとか言ってなかったか?」
「ああ……あれですか。あれは……」

恋人はおでこをぽりぽりと掻いて、鼻から小さく息を吐いた。

「まだ結末が思いつかないんですよ。どう書いてもしっくり来なくて……。締め切り近いんですけどね。困ったものです」
「なんだお前!俺に文句つけといて、お前も書けてねえんじゃねえか!しかし珍しいな、お前がそんなに難産するたあ。そんなに難しい話にしたのかよ」
「人間の一生を書いた話なもんで、主人公の物語をどう終わらせるのが良いのか、迷って仕方がないんですよ。幕引きの描写ってのは、難しいものです」
「ああ、そりゃあ、確かに難しいもんだ」

気付くと、指に挟んだ煙草が半分くらいの長さになっている。危ねえ危ねえ、と灰皿に灰を落としていると、恋人が静かな声で言った。

「先生。先生はどんな具合に死にたいですか」

突然の問いかけに、俺は顎の髭を撫でつつ、煙越しに恋人の顔を見た。

恋人は整った眉毛に薄い唇をして、すっと通った鼻筋と、落ち着いた印象を与える一重の目を持っている。派手さは無いが、えらい端正な顔立ちだ。せっかくの男前なのに、いつも髪が寝起きのように滅茶苦茶なもんで、色々と台無しになっている。いつ見ても勿体ねえなあと思う。

だが、そういう飾り気のねえところが、俺は随分と好きだった。


年上かつ先輩の俺の前に、突然ひょっこりと現れた後輩作家、それがこいつだった。その巧みな心理描写であっという間に人気作家に成り上がって、あっさり俺の立場を抜いて、最初はいけ好かねえガキが出てきたと思った。出版社の飲みでたまたま同席して、酒片手に話しかけられて、ここは一つ叩きのめしてやろうと応えたら、子供みてえに顔赤らませながら俺の作品のあれが良かった、これが好き、あの作品は何回読んだ、この作品には強い影響を受けただの、俺が喋る間も与えずに矢継ぎ早にべらべら喋りやがって、ようやく言葉が止まったと思ったら手に持ってた酒をぐいっと一気に煽って、さらに顔真っ赤にして、

「先生、すいません、僕、先生の作品を読んだからここまでやってこれて、あの、先生に感謝してます、先生の小説が無きゃ、僕は小説を書くこともなかったし、あの、先生にお会いできる機会が早く欲しくて、必死に作品書いてきました、だから、お会いできて、ほんとうに嬉しくて、はは、すいません」

とぼさぼさ頭を盛大に掻いて、端正な顔をくしゃくしゃにして笑って、そして、まっすぐ綺麗に床めがけてぶっ倒れた。俺は慌てて介抱して、流れで家まで送っていくことになり、そこでこの売れっ子作家が死ぬほど汚ねえボロの家に住んでるのを知った。そういや俺の家には空き部屋があったな、なんて考えて、気付いたら、それから一月も経たずに俺の家で同居生活が始まっていた。一緒に暮らすようになって初めてこいつがほとんど酒を飲めないことに気付いて、お前なんであの時倒れるまで酒飲んだんだ、と聞いたら、

「あの時は、先生とお話しできるんだと思ったら緊張してしまって、その、水と間違えて酒を飲んでしまったんです。飲んでるもののの味が分からないくらい、緊張してたんですよね。えっと、その、ご迷惑をおかけしました」

なんて恥ずかしそうに笑ったこいつの顔を、不覚にも可愛いと思ってしまったのが運の尽き、あれよあれよという間に晴れて恋人同士だ。

作家同士なもんで、お互い、不規則な生活をし、不摂生な食事をとり、締め切りに追われてぴりつく人間だったが、恋人の吸う煙草の香りがしてくると、不思議とどこか心が休まる気がした。たまに一緒に飯を食って、同じちゃぶ台を囲みつつ、恋人が作ってくれたお吸い物なんかを飲んでる時なんかは、なかなか最高の気分だった。

そうやって、俺たちは一緒に生きていた。


恋人の質問に立ち返る。俺は残り短い煙草の先の灯火を見つめながら答えた。

「そうさねえ。俺が迎えたい最期なんか、たった一つに決まってんだがよ」
「それは、どんな最期ですか」
「お前に看取ってもらって、静かに死にてえ」

恋人は衝撃を受けたような、悲しい顔をした。そして居住まいを正しながら、震える声でこう言った。

「ごめんなさい」

煙草はもう残りわずかだった。恋人を見ると、綺麗な顔で泣いていた。

「先生の願いを叶えられなくて、ごめんなさい」

指先に火が迫って、あちっ、と悲鳴をあげながら煙草を灰皿に落とす。

見ると、もうそこに恋人の姿は無かった。



恋人が遺した煙草を吸う度に、俺は恋人の夢を見た。


あいつはなんの前触れもなく、未完成の原稿だけを遺して、ある日突然、自ら命を絶った。

あいつの最後の原稿には、一人の男の人生が描かれていた。男は不遇な幼少期を過ごしたが、学業の成績が良かったことで運良く進学する道を得た。しかしその出自故に進学先で激しい虐めにあい、自殺を考えるまでに追い詰められる。そんなどん底の日々の中、男はある新人作家の小説を目にする。その作家は新進気鋭、文壇でも新しく注目され始めたばかりの若い作家である。男はその作家の小説に強烈に魅了され、苦しい状況の中、自らも筆を執り物語を書き始める。やがて男も頭角を現し、憧れだった作家とも出会い、親交を深めていき、……。

原稿は、男が掴み取った幸せの真っ只中、あともう少しで美しい結末が迎えられるに違いないという展開を迎えている、その絶頂、この言葉を最後に、未完のまま幕を閉じることとなる。

『幸福のまま、死ぬるべきか。』


恋人が死んでから、俺はうまく小説が書けなくなった。恋人が、おそらく自身の自殺を予期することもなくあらかじめ多めに買っていた煙草、その香りがこの家のどこにも無いことに耐えられず、俺は白紙の原稿用紙に向かい合う度に、恋人が遺した煙草を自ら吸った。すると恋人はいつも俺の後ろに現れて、かつての恋人の姿そのままに俺に語りかけてきた。

「先生」

恋人の、乾いていて、だけど優しい声。あいつが俺を呼ぶ声がする。

俺はまっさらな原稿用紙が滅茶苦茶になるのも気にせず、顔を覆って、獣のような声をあげて、涙を流し続けた。いくら泣いても、いくら泣いても、俺の寂しさは消えなかった。

灰皿から上る白い煙だけが、彼の人のぬくもりを連れてくる。もう一度会いたい、そんな悲痛な叫びは虚空に消えた。


俺はまた一人、恋人の香りに口付ける。

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