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変わりたい

「普通になりたい」の続きになると思う。




自分が考えを消化したい為なので、もし見た方は「へえ」と流し目で最終安全装置を外すカヲル君の様な視線で見て欲しいと願う。


最近先輩とプニキと同じことを言うので、そういえばそれを友達も一緒のことを言ってくれたと思いだした。



「失敗しても大丈夫」


「やってみ」


「一度深く考えずにやってみたら」



最初は心強く、いや今でも正直神か?と思う位ありがたい言葉であるが、どんな素晴らしい言葉も私が毎回「ありがたいなあ」「凄いなあ」「やれるかな」「どうしたらいいかな」と感じたりその時々に考えるだけでは言葉の意味がなくなってしまうし、何より「またか」と言っている相手が感じてしまうのではないか。


何が言いたいのか、とどのつまり最終的には「相手に期待しなくなる」。


自分が最も恐れている、『見放される』のだ。




いやいや自分がハナから自分に期待してないくせによく言う。

なのに、相手には求めるのは矛盾だと、理解はしているからややこしい。


原因はどう考えても自分にある。



人の支援に入るという事は、年代がどうであれ自分自信を見直すきっかけにもなる。というか、嫌が応でも人に対して「こうあれば社会にでた時、生活する上で良いのではないか」と考えれば考える程、自分の「出来ていない」が露呈してしまう。

教師が知識もないのに教壇にたって経験を語ったり、嘘っぱちを生徒に教える訳にはいかないだろう。

今の自分にとって他人にコミュニケーションの大切さを人に教えるには、自分のコミュニケーや人との関わりを教えるために我がふりを直さなければならないのである。


このケースは精神科医の話す講義でも言われていたのを聞いた事がある。自分の持つ課題をまずは振り返らなくては支援も出来ない。


最早向いてないんじゃないかとは突っ込まれるのも重々理解している。ただここも矛盾で、私は人と関わるのは嫌いじゃない。人の温かさや、優しさに触れた心地よさは、自分なりに実感した事があって、それを知る喜びを伝えたいという思いもあって、人の為に何かしたいと小さい頃から思い続けてきた事も全く嘘ではない。

人のためになりたい。そこは変わらない。



なら、自分はどうしなければいけないのか。単純である。


リゼロの様に、己の過去と、向き合え。ってことだ。



今の超絶親切な先輩方と話す中でも、ようやく少しずつたどたどしいが言葉を出す努力は自分なりにではあるが、している。足りないのは足りなさすぎるかもしれないが、こっちは時々恥ずかしながら泣きそうになる位至って真面目で、正直しんどいし何よりじっとこっちを見据える、昔から苦手な視線で身体が強張るのを何とか落ち着けようとしているのも正直ある。「間違ってる」かを本能的にビクビク確認してしまうからだ。

グーグル先生と新郎が言うには、「昔の経験を思い出してしまう」からじゃない?という事らしい。親はまだちょっぴりともかく先生を悪く言うみたいでめっちゃ嫌なんだが、「本音を受け入れられなかった」過去がフラッシュバックして本能的に本音を言うのを怖がったり拒否しているという事らしい。私の新郎ってグーグルかメンタリストなの??????


でも、悪意は決してない事、理解しようとして下さっている事、待ってくれる事、教えてくれる事、理不尽がない事、嘘を言わないと信じられるし、何よりおそらくだが、自分が視線をずらす瞬間とかを見られている気がする(自分が逸らしたくなる時は不安に感じたり、難しく思ったりすると客観的に感じているし、同じタイミングで似た様な事を言われた経験が何度かあるから)ので、視線をあまりにも故意に外すのもどうかと思い、素だと低めの声のテンションも更に低くなるが、今は選びに視点を置きつつ出した言葉をとりあえず最後まで言い切る文面で伝えられる様にはなってきた。


・・・・・一体私は何歳だろうか。アダルトチルドレンにしては厳しすぎないだろうか。


と、こう文章に打つとすらすら言葉も出てくるのである。最近また出てきた「調べ癖」が、グーグル先生が「文章に書くのもいいんだよ」と教えてくれたと画面を見せる。だから日記書いたしここに打ってるのよわかっとるわい。と、ここはプライドが勝ってしまう。


しかし仕事に必要なのは、職員と共有化するための会話と文面両方での「言語化」であるので、文面は最近チェックに修正が減ってきたので後の課題は前者だけとなる。いわゆる「コミュ力こい!!!!!!!!!」である。


さて、メンタル問題は病院に行って漢方で現在底上げされる様に落ち着いているので、これが続かないことを願い、いや、続かせない様にどうにか自分自身の問題を薬がまだ長く服用していない時期に解消しようとは思っている。基本薬は日常的に飲むものではない、依存するのが嫌だと思っているたちである。悪いとは思わないが、依存する父を見て毛嫌いしている説はある。精神傾向はこの人に似ているんじゃないだろうか


先輩曰く、私が書いた文面に対して「分析も、すべき課題も、その通り」と太鼓判を頂いてしまった。あとは実行あるのみなのだ。それは、実はいわなくても、多分ずっと前から自分も分かっていたことなのかもしれない、というのは高慢だろうか、いや、ならやれよって話でもある。

人にこんなけ言って貰って、同じことをまた言って貰って、鼓舞して貰って、優しくして貰って、限界まで親切を引き出させて、結局はその人に依存してないだろうか。


逃げ恥風に言うなら「やさしさの搾取」かもしれない。


本音は自信がない。こうしたらどうだろう、ああしたらどうかな、は浮かぶのに、目の前のものに捕らわれて、そこからこれこれが見えてて、原因はこうかもしれなくて、こうも考えられて、どこがダメで、こうすべきだったのかもしれない。こうできたかもしれない。ああすべきだったのかもしれない。考えは沢山あるのにアウトプットして出せるものは少しで、自分は自分の感情にがんじがらめでしんどい。間違いじゃないのか。違ったらどうしよう。怒られるかもしれない。その考えが第一に出てきて動けない。

顔を見る。反応を伺う。それが合っているのか。間違っているのか。自分はどうすれば良かったか。次はどうしたら良いか。今言う言葉はこれで良いのか。今の話をどう吸収して返そうか。また同じことを言われてしまった。すぐ出来なかった。気づいて、吸収して、出せずに終わっていく。それは気づいていた、それも理解しているけど、言っていない、伝わっていないから私は出来ない事になる。また相手の労力を増やしてしまう。


なら、すればいい。が、出来ない理由は、

がんじがらめになっているから?自分がしようとしてないから?


したくないんじゃないのか?実は、変わりたくないんじゃないだろうか。


怖いから、変わりたくないんじゃないだろうか。


でも、今もままではどうしようもなくなってくる未来も見えている。これは友達の付き合いじゃない。これを克服できなければ一生自分は変わらない。


変わることは、自分と向き合うこと。


マイナスのことしか考えられない。傷つくことが怖いから。


泣きそうになるから。予防線を張る。

でも、負けず嫌いが「諦める?」と聞かれると嫌と言うので、ここはやるしかないのである。



泣いて救えるのは、自分だけだ。







これエヴァじゃないよね????????????????????








「一回思ったことそのままやっておいで。あかんかっても家に帰ってきたらおるから」


と、ぽんと放された様な言葉と、何があっても自分がやった事をよくも悪くも関係なく肯定してくれる帰る場所があるので、とりあえず、明日頑張ってこようと思う。



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