生きるため身に着けた術
「どう思う?」
自分が心の中で思っていることを、本音を聞かれるのは大の苦手だ。
思っていることだって、相手に沿った答えでないと正解ではないから。
だから、これで合っているのか、堂々巡りになる。同じ答えが浮かんで、出す前に違う、となる。
正解が、出ない。相手の思う正解がこれで良いのか分からない。自分がした事も、自分がどうすべきも分かっている。認めたくないんだろうか?この答えを言う自信がない。これが完全な相手の思う答えでないと分かっているし、今考えてみたこれを聞かれているのではない事も理解は出来る。だから、違う。
その日も、私はやってきてと言われた練習をしなかった。やろうとはしていたつもりだったのは言い訳だ。答えはそれしかない。
ただ今聞かれているのは、やってなくて、どう思う?ってことだ。
「何でも良いから、まず言ってみて」
どうもこうも申し訳ないだけだ。誰に?
それに何でもって、これが相手にとっての正解でないことは分かる。これは私の意見で、相手の意向じゃない。回答として間違っている。まだまとまっていない。どういったらよいのか分からない。
やってなくて、どうも思わない事はない。悪いとか、思っていても「じゃあするやろ」と返されれば何も答えられない。事実だけが残っている。
これは、「答え」ではない。
質問されているのに、だんだん頭が真っ白になって言葉が浮かばない。胸が苦しい。ああ、顔が怒っている。怒らせている。焦る。
出そうと思っても、出ない。考えれば考える程、出ない。
必死に思うのに、何も出なくて、黙ってしまう。黙ったって怒られるだけだ。
やってこなかった自分を悔やむけど、どうしてここまでやってこないのか分からない。またこんな事になったのが申し訳なさすぎる。
冷や汗だけがじんわり浮かんで、頭がパンクしたみたいになる。考えてもやってない事に変わりはないし、対策も分かっている。でも、それだと言ったことの反復にしかならない。学んだことにはならないと言われた。
それをやったか?やってない。
じゃあ、求められている答えは何だ。ただ黙っているだけではない。頭の中では必死に考えている。藻搔いている。
早く答えを出したいのに、出せなくなってくる。
「黙ってたら分からん」「早く」「時間が無駄になる」
早く言わないと。早く、何か。怒らせて、嫌な思いをさせてしまっている。私のせいだ。どうしよう。どうしよう。
でも、この答えは違う。これを言っても前回と一緒。言ってみようか。でもこの答えは確実に怒らせてしまう。そもそもどの回答をしたってやってない自分が悪い。回答のしようもない。
どう答えたって、同じにしかならない。
「待ってるんやけど」
ああ、またこれ。またこれをする自分が嫌になってくる。ただ泣くしか出来ない。やってない事に対しての反省をしたって、結局やらなければ何を言ったって意味がない。
「いま何を考えてるの?」
やってこなかった自分を責めてる。先生に言われたことが出来ない自分を責めてる、ここまで出来ない自分を嫌ってる。軽蔑してる。価値がないと思っている。先生の言う普通になれない自分がここにいるのを罪だとすら思っている。酷い生徒だと思っている。ここまでして貰って。
でも、答えはそれじゃなかった事を覚えている。それは自分の感情だ。
でも、それを言ったって先生には「だから?」と返される始末である。先生には関係ない。やってこなかった理由を言われても、何でこんなにサボるのか自分でも分からない。自分の内面の話を涙ながらにしたって結局正解に辿り着いた試しがないし、逆に「質問と逸れてる」となってしまう。
ぐるぐるして何も考えられない。考えたくないのかもしれない。これは放棄だ、何て怠惰。何でしなかったのか、先延ばしにしたから。その時は覚えていたのに忘れてしまったから。それしかない。やる気がない訳では、自分的にはない。その時には本気でやろうとしていた自分もいると言ったって結果的にはしていないのだから、何も言えない。謝ったってやってないのは自分なんだから意味がない。
だから、今の自分には何も言えないし、出来ない。喉が極限まで苦しく絞られた様な状態で精一杯声を振り絞って謝る事か、ひたすらに黙る事しか出来ない。
今の自分には、どうあがいたって先生を不快にさせる事しか出来ない。
しんどい。苦しい。泣いても怒られる。どうしたら良いか分からない。答えが出せない。やろうと思っても出来ない。これだけ言って貰ってるのに。何で出来ないかもわからない。しようとは思うのに。ダメな生徒だ。他の子は出来てるのに。ただ、先生に言われたことをやるのにどうして出来ないのか。今、先生にも負担をかけている自分がとてつもなく死んでしまえば良いと思う。
自分が何を思っているのか、わからない。自分が、分からない。
何をしても怒らせてしまう。何を言っても、不快にさせてしまう。
先生は正しい。自分は間違っている。不真面目で、出来損ない。
生きている価値なんてあるんだろうか?
理解してくれようとした貴重な時間といえば綺麗な言い方だが、指導だったはずの時間の押し問答は、長い日は30分続いた。
回答を振り絞って、胸が苦しくて、痛くて、涙がボロボロ出てしまうけれど思ったことを言ってみる。最初はそれが正解の時もあって、一つの単純なものなのに時間がいっぱいかかってしまう事が多かった。
でも、何度も何度も続くとそれは「またか」になってしまう。私も毎回同じことを繰り返してしまうので、毎回自分が悪いのに自分が苦しくなる。出来ない自分を責めても変わらないけど、その時の自分にはそれしか出来ないし、他の子と比べられたり他の子に聞かれたりした日には今まで以上に苦しかった。
その結果出した結論が「諦める」だった。
これだけして貰って、これだけ出来なくて、どこに価値があるんだろう。感情があるから邪魔をしてしまうし、時間もかけしまう。私の考えを言っても正解はなかったし間違いだらけだ。不快にさせてしまうだけ。私が出来ない限り、先生の正解に辿りつける事はない。私は間違いでしかない。なら、もういい。自分の感情を諦めてしまえば、せめて泣くことはない。
悩んで考えに考えに考えて、ねじ曲がりきってしまった思考は、その結果、他人に気持ちを伝えるのを今後一切諦める決心をした。
昔、先生に「ココロに錆びた鉄の重い扉があるみたい」と言われた事がある。
その日、私は脳内で、その錆びた鉄の重い扉を完全に閉じる事にした。
じわ、と、胸の辺りが重くなって、最後の涙が目頭に浮かんだ気がした。
その日から、何だか心が楽になった気分だったが、以前よりも心に響くものがなくなった。
先生の言葉に重みを感じる事も、誰かの言葉に傷つくこともなくなった。自分だけが楽だった。
自己嫌悪がひどくなる一方で、自分に暴言を吐きながら練習した。「何で出来てない」「へたくそが」「まだできてないの」と、自分を痛めつけることでやる気を出して練習する事にしたし、実際その方が練習に熱が入った。
終わった後はも抜けの殻だった。生きる気力もわかなかった。暗いと家で怒られた。レッスンは変わらなった。本当に、こんなのによく付き合ってくださったと思う。
でも、しんどいと何度も言われた。普通のレッスンがしたいと言われた。
私は先生の思う生徒になれなかった。なろうとすら出来なかった。
レッスンをやめようなんて思わなかった。ピアノは自分の居場所であり、価値だった。
母が演奏に色々言うのに耐えられなかった。CDみたいにと言われる事が何よりも嫌いだった。どっかよそでCDでも聞きながらお望み通り紅茶でもコーヒーでも勝手に飲んでいて欲しかった。
弾いて欲しいと言うくせに、自分が作った曲は認めてくれなかった。出来れば聴いて欲しかった。自分の聞きたい曲しか認めてくれなかった。何ならピアノをしている事を羨ましがられた。本当にしたいなら今もすれば良いのにと思ってしまった。
無理やりしまったものの代償として、変なくせがついた。
自分の心から思っていることを言おうとすると、涙が出てきてしまう。
それが相手にとっての正解か?最適か?考えてしまう。意識として思っていなくても、どこかでは考えている。
自分の本当に思っている事を言ったり、他人に言われるのが怖い。少しでも怖い。
情けない自分や出来ない自分が他人に見られるのは怖い。プライドだけはいっちょ前にあるからだ。注意されるのがこわい。嫌われるかもしれない。相手を不快にさせてしまった事、自分はやってしまったといち早く注意された事だけをとらえてしまう。身体が強張ってしまう。こわい。これでも前よりは聞ける様になったつもりではある。失敗がこわい。次がなくなってしまうかもしれないから。迷惑をかけてしまうから。許されないから。人に良く見せられなくなってしまうから。目が笑っていない人はこわい。何を考えているか分からないから。声では明るいのに、そんなこと微塵も思っていない顔をしているから。
人には、よく良い人とか凄いとか賢いとか、優しいとか言われる。
でも、それは良く見せたい私の姿であって、意地を張って背伸びしている私であって、本当は他人に関してとても臆病なのが、私である。
他人と関わるというのは見通しが持てない。こちらのやる事によっては不快にさせてしまうかもしれない。つまり、失敗が出来ない。
ごめんと言ったって駄目な時がある。だから、絶交なんてものは自分が悪かったとしても、深く傷になってしまう。
大学に入って初めて、ようやくそこらの溝が埋まってきだしたのは、友人にとってはどうかわからないが自分はありがたい環境だったと思う。
本来は性格的に、人を信じきってしまうのでそれに裏切らない人たちに巡り会えたのはとても助かる。
そこらは、小学校で既に裏切られて人間不信になったのでだんだん信用を取り戻したというのが適切ではあるのだが。
色々ベラベラしゃべってしまったが、何でこんな話をしようかと考えたのはきっかけがあったからだ。
今も時々私の悪いくせで、自分の確信をつかれると、特に「思い」に関しては黙ってしまう。泣きそうになったり、胸が苦しくなってしまうからだ。
もう一つ、頭で情報をサッサと分担出来ない為に、悩んだり疲れがピークになってしまうと、隣でされている会話、今自分に言われている言葉、物音、ベルの音が一気に入ってしまった時に頭が真っ白になって黙ってしまう。これも脳内が混乱して軽いパニック状態である。素に戻っている。
こうなると「あ、あの時に戻った」と反省するのだが、これに疲れが溜まってしまうと時期にもよるが、ひどくなってずっとハイテンションで喋り続けていたり、一切喋らずに情報を遮断して作業のみに没頭したり、ちぐはぐな言葉になっていたり、限界になると泣き出したりするらしい。
一時これはヤバイと思われたが、最近は「ああ、あかんな」と見限って赤子の様に休め休めと言ってくれる新郎で助かっている。一通り物事が終わって落ちつくと正気に戻るのである。これ子育てとかになったら大丈夫か?と思いながら、流石に申し訳なくて、疲れたら物理的に離れてな、とは声をかけている。
対人に弱いが故のことだろうか。と思っていたが、新郎はその黙りこくった自分を知っているし、それでも本音が出るまで待った表向き強靭待人メンタルの持ち主だ。
「今まで自分の気持ちを受け止められた経験を殆どしてこなかったからじゃない?」
と言われた時には、正直分からなかった。
そういえば疲れた、と言ったのを「そうか」と素直に受け止めてくれたのもこの人だし、ずっと肯定しつづけられたし、言葉が出かかった時なんか言うまでマジで引いてくれなかった。言葉は悪いけどクソしつこかった。
でも、そのおかげでまだ胸はしんどくなるけれど、少しずつ、今まで言えなかった、自分が自分の為だけに本当にしたい事や、思った事を言葉にする機会が出来た。
今では、逆にそれが新郎の負担になっていないか心配ではあるが、本人曰く「別に」である。本当か?
一つ言うと、友人にその役割を求めるのは間違っていると思うし、友人や親友は何より話しているだけで癒されるものである。私にとっては。それは重要なことだと思うし、相手に楽しかったと思って貰えればこれ以上に嬉しい事はない。それ以上に負担をかける事はしたくないし。
と言いながらも、今話す友達に嫌な嘘をつく人も、思ってない事を言う人も、人をけなす人もいない。逆に間違っていれば教えてくれたり、叱ってくれる事もあったり、私にとっては何よりの大事な人たちであるし、一緒にいてただただ楽しい。信じたい友人ばかりだと思っているし、思えば沢山頼っているのかもしれない。だ、大丈夫かな・・・?
そしてもう一つ、新郎が言うには
「ピアノをする、じゃなくてせな、って思ってる様に見えた」
という事だった。これは目からうろこだった。
先生に
「誰のために弾いてるの?」と聞かれた時がある。
その時、自分には、自分という回答が出てこなかった。
そういうことだった。それしかなかったのだと、今は思う。
でも、ようやく自分の楽しみかたを見つけたから、今ピアノは切っても縁のきれない、大事なものだ。宝物。
ピアノは自分の言葉の変わりに感情を表してくれる。文化の極みだよ。
非言語コミュニケーションというと、友達とアンサンブルしていた時に曲を次々弾いたもんだから「いや、喋って!」と言われた事がある。
音楽療法に携わっていると時々思ってしまう。
「むしろ私が対象者なのでは?」
対象者の気持ちが分かる、までいけば完璧だが、それにはまだ知識が足りないのが課題である。
どうであれ、いまの私はピアノをしててよかったな、と思うまでになっているし、人とする音楽は楽しいので大好きである。アンサンブル合宿したい。
「人にどう思う?って聞かれて、こう言うと、こういわれるかもって先に考えちゃって、それは過去に結構当たってて、じゃあこれ言っても同じかなって自分で決めて言うのを諦めるから喋れんくなるんよな。多分さ、自分が傷つかない様にくせをつけたんよ。先にこうかもって答えを予測して決めつけて」
とその時は受け止められた経験について話を戻したつもりで言った自分ではあったが、
「いや、今までに何等かで傷ついてしまった経験が沢山あったから、事前に傷つかん様に予測してそれ以上にしんどくならん様にって身に着けた、生きる上での自分なりの術やったんじゃない?」
なんて言ってきたこのぷーさんにはびっくりした。
私が、傷ついてきたというのだ。自分がしてきた事もあるのに?
でも、もし本当に何等かの「出来ない」理由があったのなら話は繋がってしまう。元々先生の言う普通ではなかった事にはなるが。
とはいえ、自分のことだけでいうとあながち間違ってもいない。舐められる人種ではあったと思うし、本音を言って良かった記憶なんて1ミリもない。それなら相手の思う言葉を出して「そう」とつなげられた方がよっぽど良かったからだ。人は誰だって欲しい言葉があると思っている。そこに自分の感情が入ってしまえば、それは人にとって「不純物」になってしまう事もある。
だから、心から許せる友達以外は自分はあたかも本当に思った様な表情をする様になってしまった。一度言われた事はあるが、いわゆる「偽善」である。
人の思っている事を言う。人の良い所を探す。言われて嬉しい言葉が流れる。そこを言う。褒められると嬉しい、難しい年代の人によってはあたかも本当に聞こえるトーンで良い方を変える。これも私が自然と身に着けてしまった術である。でも、そこに嘘はない。自己肯定感の低さ故に自分が伝える他人の事に嘘なんて言えない。嘘は言ってないから、善だと捉えられてしまう。
そうなれば、薄っぺらい「善い人」の出来上がりである。
あまりにも、薄っぺらいものをまといすぎた自分がよくぞここまで生きてきたと思うが、今更どうとなる訳にもいかないのでとりあえずやれることをやって生きている。そこにも嘘はない。
びっくりするほど他人本位で、自分勝手である。
他人からの目がこわいだけである。人に尽くそうと躍起な時もある。
という訳で、人は見た目では判断がつかない。
私は関わっている人が元気だったらそれで良いし、しんどかったら心配するのも本当である。でも、その思考巡りめぐって自分の為になる事だけを思っているとなるとそうではない。
何か、結局自分は他人から見て良いのか悪いのか、どうなのか、分かんなくなったな。
頑張ってるって言ってはくれるけど、真面目って言ってくれるけど、嬉しいと感じる所だろうに、何を頑張ってるのか、何が真面目なのか分からない。具体的な例が欲しいんだろうか。考えすぎってよく言われる。
自分はどう生きればいいんだろう。友達には、仲良い人にはそのまま生きてくれていたら良いと思うくせに、自分はそれだけではけないと思う。
普通になりたい。
さつまいもでも食べるか。
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