やりたいこと

大学に入って5年目の、自分でやりたいと思ったピアノは楽しかった。それなりに忙しすぎてわたわたせずにはいられなかったが、実力不足は目に見えるものの一番今まででピアノを好きになれた。


思い出した。私が絶縁した彼女は、もう一つ話があった。
まだ仲の良い3回生か、歌と伴奏をする授業で、個人的にその子と2人、先生の受け持つ合唱団の伴奏を奈良まで毎週しに行く事になった。
多分、1・2度は来ただろうか。忘れたが、それ以降その子は忙しいからと来なくなったので、2台ピアノは出来なくなったし振り分けるはずだった伴奏は全部こっちに来た。

社会人になってから案外声楽の人はするのだと認知したが、20曲渡されて明日レッスンとかザラにあった。朝10時から遅い日は夜の18時頃まで、合唱とコンサートの伴奏をレッスンも含めして頂いた。アホほど初見したから、それがなかったら多分今私は、こんなに初見出来てなかっただろう。自分の試験もあったし、1ヶ月死ぬ気でやった曲が授業内選抜に選ばれてしまったし、加えて25分の大曲と20曲の歌曲と、キレちらかしながら毎日遅くまで弾くけれど、実家では逆にキレちらかされた。
うるさい申し訳なさより、応援してくれないのが堪えた。

練習する時間が足りなさすぎて、大学生活で一番しんどかったし、暗くなって奈良から帰る電車はいつも一人で、毎週泣いて帰った。

結局ロクに弾けずに25分の大曲はコンサートの助手をしてすぐに帰り、それから先生とは連絡を取っていない。その時だって、私には門限があった気がするのは、私の気持ちの成長していなかった原因だろうかと思っている。


彼女とは、それからの絶縁だったからおそらく自分の中でまぁいいか、と思ってしまったんだろう。いきなり来なくなった時の不安は、それほどにでかかった。先生や合唱団の方々がとても温かかったのが、救いだった。お元気だろうか。迷惑をかけすぎて連絡するのも気が引ける。

あそこで私が弾けてれば、変わっていたかもしれない。




話は戻るが、自分でやろうとしていく度に、なるべく家から離れる様になった。兄弟も父もいるし、何より家族一緒で必ず行動するほど暇じゃないし、用事する余裕もなくなってきた。

一度口が滑って「うるさいな」と言ってしまい、母に泣かれた。その時は焦ったが、感情はぐちゃぐちゃだった。おそらく彼女もだろう。

相変わらず門限はあった。連絡も逐一するのが面倒で、しなさすぎてキレられた。する気もしなかった。


家に縛られている気がした。私が母に依存しているのではないかとは思っていたが、ここで、それだけではない気がした。

共依存しているのではないか。


彼女には仮に出さなくても母に何かしなければ、と私も思いすぎているし、彼女もそれに慣れてきたのではないか?

母は自分の出来ることは自分で、自分の方法で納得するまでやりたい人だった。それに関しては良かった。でも、出来なかった時の感情バランスが不安定で、泣くことが増えた。

マイナスの話をよく聞く事もあった。何か上手く手伝えないと、「こうしてほしい」以外の「私は出来ないからこうで」という、感情面の話が長々と続いて、私にはしんどかった。同じ話に変わりはなかったし必要性がなかったとは本人に言えないが、ただその感情を受け止めたって本人から消える事はなく、延々とループしたからだ。


段々、しんどくなった。


どうすれば良いか考えたって正解かはその時で変わる。やりすぎると無駄だ。私が自分の事を割いてまでやる必要がない。

と、しかしながらここまで考える様になったのは社会人になってからであった。

母に合わせるような、従う様な感覚は続いていた。


しかし、基本私が前向きにしたいと言った事には母が思う範囲であれば反対はされなかったし、範囲を越えていてもどうせ私はするか勝手にした。
オーディションも積極的に受けた。

応援してくれないと前に書いたが、私は言葉でそれが欲しかっただけであって、母はなるべく私が出るコンサートに来てくれていたので、何もしてくれない訳じゃない。寧ろ娘が人前に出たり誇らしいのであれば、必ず来ていたと私の目線からは思っていたし、他者に取ったら「熱心に応援してる親」だと思う。

よく、母の知り合いから母を褒める言葉を聞いた。職場でも、コンサートに来る姿も、褒められていた。感謝しろと言われた。

その時点の私の頭に出た言葉は「皆にはそう見えるのか」だった。純粋に、コンサートに来てくれるのは嬉しかった。

こっちからすれば、昔感じた母は自分の理想を突きつけて、他者様にその出来映えを見せて、自分の思う形じゃないと否定する人でしかなかった。
大学に行かせてくれている感謝は勿論していたが、身体を壊しても叶えたかったんだろうか。
「この大学に行こうね」と昔から言われていた自分にとって音楽大学に行くのは当たり前だと思っていた。それ以外の選択肢を考える発想すら、最早自分にはなかったのだ。そうではなく、胡座をかいていたのだろうか。

それでも、自分が決めて進学した1年は楽しかった。


この頃、母が私のピアノに関して「自分の敷いたレールに上手くのってくれた」と言った事がある。自覚あるのか、と思ったが、のってくれたんじゃなくて洗脳レベルで乗せたんじゃないかな、と非常に疲れた時には思ってしまった。

しかし、色々重なったとはいえ私の大学の費用も考えて夢を叶える為に身体を壊すまで頑張ってしまったと考えると、いたたまれない。


そうして忙しくも充実した1年を終え、いよいよ就職に向けて動き出す事になったのであった。





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