違和感

2年目になると、仕事に工夫が出来るようになってきた。余談だが、勤めた所はとにかく地域も含むイベントが多いため、土日関係なくイベントは出勤だった。土曜は休みを貰って昼から16:30まで伴奏があり、音楽活動はイベントのない日曜にしていた。純粋にキツかったが、分かっていて決めたのでやるしかなかった。

ピアノの練習は、帰って座る時間を作れれば逆に集中出来た。しかし時間が足らなさすぎて、あっぷあっぷしながら続けていた。まず、社会人の音楽活動では合わせする時間が圧倒的に他の演奏者と合わず、仕事終わり直で梅田やどこかやに出向いていた。夜は気絶した様に寝落ちた。風呂でも意識が飛ぶようになってきたり、風呂に入る気力すら失せて夜中に入り母に怒られる日も少なくなかった。

職員が入れ替わるというよりは何人も辞めていく時期もあった。その原因はハッキリしていた。施設は特に宥めるばかりで対応を急かなかった。それだよ。新人も続かなかった。

そうなるほど、残ったメンツはややこしい人で固まっていく。長年いる人で固まるほど新しい風は吹かないか寧ろ吹き飛ばされてしまう事をここで見てしまう。そして、上は長く勤める人を大事にするのだ。労働環境が変わらず悪化していくばかりであった。独裁者みたいな人もいて、悪いだけじゃないのに苦手すぎて避けてたら、後に不器用すぎて話しかけて欲しかったらしい上司もいた。
しかしそんなコロコロ機嫌変えてキツイ事を言われると、最早下っ端の私は縮こまるしかない。しかも機嫌悪かったり思った事でないと平気で無視される。挨拶すら返ってこないのにしないと言われる。なんだこの人。

多分この人は辞める前に喋れた人だった。4年勤めて世間話といえばふりかけの話しかしてない。でも利害が一致すれば強かった。

唯一ありがたかったのは「あなたは介護職員だと思ってる」と言われた事だった。当時は反抗心を持ったが、あれは仲間に入れてくれる感じだったんだろう。勝手にしたら怒られたが指示はくれた。

課長は相変わらずだった。なるべく避けながら慣れることにした。私服は好きだった。

いればいるほど、古くからの伝統にとりつかれている様な場所だった。新しい意見を便利であっても取り入れて貰えない。不満が溜まって息苦しかった。


一度、限界すぎて顔色が悪いと言われ、その環境をピアノの先生に伝えた事がある。
すると、「反省をしなさい。」みたいな事を言われた。頭にはてなしかなかったが、とりあえず胸くそ悪すぎたが課長に対する反抗の態度・口調を改めて丁寧に接する事にした。栄養ドリンクを接種してから行った。

今度は、違うと言われた事を良いと言われた。「ありがとうございます」と心にもない事が伝わらない様に、なるべくゆっくり伝えて書類を通して貰った。クソしんどかったがあれ以来、原因を考える様になって、一端落ち着いた。

何故、こんなイライラしてるんだろう。こう言ったんだろう。

向き合う度に、精神はすり減っていった。が、必ず原因はあって、無理やり押し込むより納得いってスッキリした。外面は良く出来る様になった。


その原因がなくなると課長も落ち着いていた。彼女もしんどかったのだ。

他の職員もそうだった。各人何かしら抱えていた。それがハッキリ分かると、腹が立つ前に冷静に対応できたし、ゆったりこちらが喋る事で正しい解答を待てたり、後からごめんと言われる事もあった。
その度にまずはストレスをぶつけられるので、自分の歩き方をゆっくりして気持ちを落ち着けたりした。

ストレスは職員に感化されて利用者にうつることもよくあった。私の仕事はリハビリの手伝いであり、癒しも兼ねていたので、しんどそうな職員も利用者も全員が対象者として接する事にした。精神学を学会で勉強する様になった。

要領がわかってくると内容も踏み込めた。利用者は重度が多かったので平気で毎日暴言・暴力は絶えなかった。でも、それにすら理由はあった。次第に落ち着ける係としてセッション中にかけこみ寺の様に利用者を職員が連れてくる事があった。
そんな時だけ頼りにされる事もあったが、決して断らなかった。貸しになるし、何かあっても助けてくれやすくなるからだ。

そして、その事情を探るべく話すのも慣れてきた。怒っている人を必ずではないが、話を逸らしたり昔話を伺って落ち着く様に一時でも誘導させて貰った。そりゃそうだ。この人たちにとっては知らない人と、知らない所に泊まれと言われるんだもの。そりゃ不安だよ。

中には立ったらこけてえらいことになるが立つ人も普通にいた。声量や行動において、精神病系の方は中々につきあい方を考えた。薬が増えて動かなくなっていく様子をよく見るたびに、抗うかの様に動くのと、音楽を聞いても反応がなくなっていくのが悲しくなった。怒ってた方が人間らしく感じてしまった。

人権を考えさせられた。介護したことなくて文句言う人は、一度勤めれば良いと思う。今人手がたりなさすぎて、資格を目指しながらでも働ける。酷いところならまず研修終われば業務もロクにゆっくり教えてくれずに毎日ピリピリバタバタ動くと思う。

利用者は何故自分がここにいるか分からないからトイレにいけだの風呂にいけだの言う介助者を嫌だと思う人もいる。レクリエーションを馬鹿にするなと参加しない人もいれば、耳が遠い人が多いので、仮に良くても大声で話されてしまうなんて多分ザラだ。

怪我したら大事になって骨折もしやすいし謝らなきゃいけないから人数もいない中出来るのは立たない様に見守りという名の監視がずっといる。ご飯も自力で食べれないなら口を開かせてでも噎せないように食べさせないといけない。傷はつけられても傷つけてもいけないし殺してはいけないのだ。

自分の糞尿がわからず塗りたくったり投げる人もいる。糞尿の臭いや唾液なんて可愛いものだ。尻の褥瘡が酷くて悪臭がするがもう動けなくて介助して時間ごとに体位を変えないといけない。可愛らしい人ほどおっかない時があるのは、保護者も然り。

歩ける人は、しっかりしている様で普通に脱走して死ぬパターンもある。

そしてもうひとつは、人は亡くなるという事だった。1年目から、担当していた人が最後に楽器を吹けたと思ったら亡くなった。

辛かったが、2年目にもなるとそれは当たり前の様に感じてきた。大体亡くなる時期というのがあった。敢えて、人の死に泣くまではなくても慣れない様に抗ったが、初めて他人の葬式に行っても何とも思わなかった。

辛かったと言えば、良くしてくれた入居者が帰宅するのでお互いまたね、と言った後に事故でなくなった事だったろうか。祖母を思い出した。

それだけじゃない。寝たきりで冷たい手は死んだ祖母に似ていた。生きているのか時々確認しながら、薄い反応を探して仕事した。視線が合うだけでも反応は沢山見つけられた。どんな形であれ、生きてこの人達と関われるのが嬉しかった。

そして、この人達がどんな人かを知る度に、丁寧に接したいと思う気持ちは強くなった。認知を侮ってはいけない。遥かに人生の先輩がそこには沢山いた。


音楽療法も、そこで関わる入居者も、私は大好きだった。もし施設長と課長とリーダーが変わって、あの部署がそのままなら普通に戻りたい。

が、それは叶わない。今では後の新郎と私が抜けてから、今年で1人だけしか部署に残らない。


そして、退職するきっかけになったのは、3年目になる前の事であった。



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