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平行した生涯と未来

退職を決めてからは、いつするかを考えていた分無理やり気持ちを切り替えて今まで通り働く事にしたが、ひとまずこの一気に来たストレスに打ち勝つほどのメンタルはもはやなかった。一周回って、「どうせ辞めるなら必要とされる存在になってから辞めてやろう」と謎に固く決心する事にした。


そろそろ3年目。昇格の候補に上がった。


その日から、人付き合いが相変わらず空回りはしていたが安定する様になってきた。働く間は完全に自我を捨てたのである。その分、大好きな入居者とのセッションを今まで以上に丁寧にする様になった。どうせ辞めるのだ。気の強い上司たちににビビったってしょうがない。話しかけていこう。入居者との会話を何といわれようとも丁寧に時間を取ろう。借りは作れるだけ作ろう。

退職を決意すると、逆に人間関係が良くなる。嫌われたって後引きしないと分かっているからだ。実質退職を決めてからの1年は一番楽しく働けたし、上司とも話せたし、かわせた。



しかしその前にもいろんな事が平行していた。


いらない発言の後日、新郎から施設長と話してどうだったと聞かれた。私はやんわりと、同じ事を言われましたと伝えて終わったのだ。そう、と言われると、その話はそこで終わった。

そのあたりは確か、数か月前からガンが発覚していた祖父が入退院を繰り返していた。超メンタルの時でも、祖母の時にお見舞いにあまり行けなかった私は、今度母が祖母の時の様に病院に通い詰めて身体に支障をきたさない様に、自分が動ける事は母の変わりに動いたし、必ず毎日祖父のお見舞いに仕事帰り向かっていた。祖母の時に私自身が動かなかった事を後悔していたからだった。

メンタルがどん底でも、祖父の所に行くのは唯一の気が抜ける時間だった。祖父は頑固なので、母と喧嘩した時は私一人で行った。母が倒れた時に車を運転できなかった自分が悔やまれて、短期教室で車の免許を取ったのが、祖父の時に大いに役に立った。

祖父は兄よりも私を大事にしてくれて、幼い時から「俺の孫だから大丈夫」と言っていた。そういえば否定された事がなかった。頑固で、ワガママで亭主関白だったが、筋の通っている祖父が大好きだった。私が筆を持つきっかけは祖父のおかげだし、写真に墨絵に陶芸に何かと多趣味な人だったので、年上の人に可愛がられるのは祖父のおかげかもしれない。


ガンが広がって、祖父の症状は悪くなっていったが本人はいたって普通を装っていた。私が一番おちこんでいる時も、そのままだった。職場で使っていた歌の本を見せて、知っている曲に〇を書いて貰った。後に役に立つこととなった。書いていた作品を見せて貰った。

日に日に、祖父は元気に見えたが、人が亡くなる職場にいる自分にとっては限界だと分かっていた。家を改造する、釣りに行くと勇んで話をした時は、持っていたスキルで計画を聞いていた。最後の外出許可が出ると、祖父は家に帰り私と母が泊まった。夜は3時に起きて「さぶい、布団を2階からもって降りてこい」と熱い部屋で言われた。私が持って降りた。

祖父が帰宅する昼、私は2人でいつも祖父が散歩してるらしい公園にいった。顔が広いのが、どこに行っても声をかけられていた。

ゼエゼエと息を荒げる彼は、公園の今はくたびれたベンチに座ると、「よく聞いとけよ。お前のお父さんはアカン。あれははいはいすぐ言うからな。物が壊れるとすぐ買おうとするし、考えようとせん。お前はあんなんになるなよ」と言って、「これから人に用事聞かれても手帳を開くなよ」と言われた。これが、祖父から貰った最後の言葉と、時間だった。

私の父は実質、自分にも他人にも優しい人だが、特別何かしてもらった事もなければ印象も薄かった。勿論学費は感謝しているし、嫌いな訳ではないが、母親が不自由になってから特に自分本位の人だと思った。全く気付かないのだ。甘やかされて育っているからな、と祖父はいつも言っていたし、私も何となくわかる気がした。悪い人ではないが、とにかく空気の読めない気が利かない人なのである。その上、人には認めて欲しいのだった。私もそんな一面があるだろうか。あるのかもしれないが、流石に片腕片足で立つ母に荷物を預けてトイレに行った話を聞いた時は軽蔑してしまった。

手帳はごめん、まだ予定覚えられない。


いらない事件が私の中で落ち着き、吹っ切れた自分は相方にもその話をした。同情はしてくれたが、果たして言ってよかったのか今は疑問である。


祖父は、外出から帰った時には危険な状態だったらしい。叔母から聞いた。ほどなくして、危篤の連絡がきて人が死ぬ瞬間を目の当たりにした。

医者が来て死亡を告げられた時には、あれだけ温かかった祖父の手も冷たくなってゴムの様だった、それでも、最後まで呼吸をしようとしていた姿を今でもハッキリ覚えている。確かに彼は、生きようとしていたのだった。


涙は出たが、従妹や母親が泣いているのを見ると、自分は泣いてはいけない気がした。私の分まで泣いて貰おう。むりやり耐えた。今度は私が母を支えないといけないのだ。父はもう宛てにしていなかった。

父はお見舞いに自分から行こうともしなかった。むしろ面倒くさそうな姿を見て、母と愕然とした。この人、これが自分の父だったらどうするんだろう。母も同じ事を思った様だった。


役所関係は詳しく行けなかったが、荷物の整理や葬儀の準備は手伝ったし、祖父の貴重用品の場所も知っていた。元気な時、祖父から聞いていた。叔母とも連絡をとっていた。

祖父が使っていた作品や文房具を引き継いだ。一時訳の分からない自慢する人が絵を始めたから譲って欲しいと言ってきたが、あまり親しくもない人に譲るなどあり得なかった。嫌いだった。使ってほしくない。却下した。

祖父と親しかった人が、作品展に出した祖父の遺作に勝手に名前をつけていた。祖父がつける様な名前ではなかった。嬉しくなかった。

祖父は、母が入院した時もずっと家に通って、毎日自分と私のお昼ごはんを好きな物を買ってこい、残りは晩御飯のおかずでも買え、と2000円渡して買いに行かしてくれた。「お前が、頑張れよ」と言ってくれた。私が大学にいく費用も、引っ越しする費用も、彼の一声で両祖父共出してくれたのであった。


ずっと肯定してくれていた人が、いなくなった。


葬式では、みんなが泣いていた。泣きたかったが、自分がしっかりしなければと思った。泣くのを堪えたら歯が削れて顎がカコカコ鳴った。充分に泣けなかった。泣く時は静かに、一人で泣いた。


葬式が終わって祖父が骨になり、祖母と墓に入ると祖父の家は空き家になった。休みの日は掃除をしに行って、祖父と祖母の写真の前でぽつりぽつりと独り言の様に懺悔したり、思っている事を震えながらでも泣きながらでも吐き出して、若干スッキリして生きていた。兄夫婦が住んだのでそれも出来なくなっていったのだが。




どん底のメンタルは祖父の葬式後の料理でいささか慰められたのか、数日ぶりの出社は楽だった。心配もされたが、今自分は働く事に集中している方が楽だった。

それでも身体が重かった。母は自分の父母をついに両方なくしたのであった。空気を読まずに母の父母の過去話をする父親の神経を疑った。


この忌引きが終わって出社した時には、新郎とは何となく挨拶をする関係で止まっていた。昼前の運動部的ノリノリ先輩と新郎との3人の時間は日常の話題が増え、ある時、カラオケの話題になったのであった。



「ボイトレ行ってみたいんやけどなあ」


新郎が呟く。



そして、この一言が、私達をつないだきっかけになった事は、まだ誰も知る由がなかったのである。

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