2年目。

2年目は一番しんどかったが、良くも悪くも一番色々あった。

いつ会っても初対面の様な事はざらだったが、「歌の姉ちゃん」と孫扱いされる様に認知してくれる人もいてくれた。若い時に失敗しとけと言うのは本当らしい。対外のじいばあの心は寛大で、若いってやはり素晴らしかった。

課長から、いきなり入居者を集めて「さぁ〜歌ですよ〜〜!」と無茶振りされる事が時々あった。えっ聞いてないけど?


音楽療法とは、個人とグループがある。症状や能力によって振り分けるのだが、個人にするもう一つの理由として「集中が逸れてしまうから」というのもある。いや、静かに部屋でやりたいんだが。入居者のために。不穏になる人もいるのだが。

と、似たような事を課長に言ったが、介護が出来ないみまもりのために音楽活動してと言う。いやここのグループ歌詞がいるんだよ何も準備も出来ないのかよしかもこの人数1人でやるんか鬼か。何で介護でも2人は日中活動振り当てられるのに私は1人なんだよ。誰が持てない人の歌詞を持つんだ。目で追えない人の歌詞を言うんだ。耳が遠い人に教えるんだ。

言いたい事を抑えて、とりあえずまくしたてる様に歌詞を持ってくるので、準備させて下さいと走る。先輩がどうしたと言うので説明すると最早ネタの様になってきたので二人で笑うのだった。もう笑うしかない。

こんな事が増えてきた。おかげで計画書まで作って保護者に説明して記録書いて経過見て会議で状況説明して各部署のトップに決められた月に確認して貰ってセッションしている意味が全くなくなってしまう。その確認をあなたに一番してもらってるはずなんだが。

そして、定期的にやってくれと言われる。ついでに言うと、辞めるまで音楽療法を音楽活動やら日中活動と言われた。資格はないが人がやってる事に興味も持たずに理解せずにああしろこうしろとねじ曲げて見守り押し付けるのもいい加減にしろ。


療法は計画的なもので、活動は楽しむためのものなのだ。意図が違う。

因みに、ヒステリー最高潮の時にグループ活動の介助をしてくれた介護者に「ええなあ音楽で楽出来て!!!!」と言っているのを聞いた。ズンと胸が重くなった。
因みにその介護者は見事言い返して課長を泣かせてしまったらしい。いや強すぎるだろ。こっちにもフォローくれて、部署では涙目がばれずに済んだ。

一応だが、音楽療法って何なんだと言われると、実質は普通に弾けるだけでは難しい。
心や身体に何らかの障がいがある方に、より人生が豊かになる為に各人が抱える身体・精神的問題を意図的・計画的に回復する手助けをするのだ。医者ではないので治せはしない。お手伝い。

つまり、リハビリのお手伝いや介護予防する事もあるし、私のやっていた事は、寝たきりで人と関わる時間が極端に少ない人に安らぎの・活動的な時間を提供する事を主として、人とのつながりをもつきっかけを作る事とか、リハビリと協力して音楽に合わせて身体を動かす事とか、そういうのだった。

中でも楽器活動は即興で、相手が鳴らしやすい音楽を提供しつつ観察しながら一緒に演奏したり、身体を自発的に動かすように導く他、それの間だけ話す人もいた。踊る人もいたし、活気を失った方に興奮しない程度に安定した気力を取り戻して貰うのが仕事だと思っていた。そして、職員との関係性を音楽でつなげるのも手段だと考えていた。
拒否はあっても歌いながらトイレに行く人もいたからだ。

つまり、弾き歌いながら楽器やら体操を促して、常に対象者を観察しなければならないし、変化についていかなければいけない。異変があれば中止したり、楽譜を見る余裕も時になければ、まばたき一つすら見逃せないのである。

というか、本来2人でやってる人が殆どなのだ。手が足りなさすぎる。



さて、話を戻してこの頃何があったかというと、まず良い事から言おうと思う。

この頃相方も忙しくて昼前は運動部的ノリノリ先輩と新郎と私の3人でよく部署にいたのだが、先輩方が2人でエヴァの話をしており、入りたすぎてグッズ持って念じてたらついに持ってたボールペンに気づいて貰い、晴れて社会人でヲタバレした。
カヲル君への崇拝はバらす訳にはいかなかったのでそこは上手く避けた。

仲間が見つかった嬉しさと、そして何となく後ろから見ると丸い背中がふっくらして気になっていた後の新郎は、エヴァなあ、しばらく読んでないと言ったので、つい「全部あるんで持ってきましょか?」なんて言ってしまったのが直接的なやりとりの始まりであった。

新郎(今後もこの呼び方で)は、携帯の待受を姪にするほど見事な叔父バカであった。オムツ替えも風呂も任せてとドヤ声で言っていた時は、顔は見てないが少し笑ってしまった。運動部的ノリノリ先輩が「いやいやそこは相手探しましょうよ」と言ってて面白かった。子ども好きそうだなぁと思った。

キーボードの台車が壊れた時も、一人で工具を出して直そうと四苦八苦していた所にのっそり現れ、応急措置してくれた。その時見た指がとても綺麗で、ふいに見えた睫毛が長くて、綺麗な顔つきの人だなぁと初めて気付いた。

ガタガタ台車を押して帰ってくると、「台車、いけた?」と聞いてきたのも何となく覚えている。穏やかで、このピリピリした現場帰りにはありがたかった。

2年目は新郎と交流が始まった年だった。この頃からメンタルが限界すぎて吐き出すためのノートを作って気持ちが溢れそうな日に書き殴った。あれは良かったなと思う。後から振りかえって分析できる。

何となく、新郎は緊張もなく関わりやすい人だったので日常の4コマ漫画を貸した漫画に描いて入れることにした。思えば珍しかった。

貸し出した数日後、漫画は貸した状態で帰って来た。ご丁寧に、4コマ漫画の感想を言ってくれた。あろう事か細かく描いた台詞も全部気付いてくれた。普通に嬉しかったし、自分が始めたもので他人に拒否される恐怖を感じなかったのは初めてだった。

というのは、小学生の時に勤労感謝の日に母に「いつもありがとう」と夜通しカードを作って渡したら「こんなん役に立たんの作るより手伝ってくれた方がよっぽど嬉しいわ」と言われて、ショックを受けた事がある。

考えれば母は忙しかったし、私のエゴを押し付けたに過ぎない役立たずであった。自分が頑張ってした事でも他人が望まなければ迷惑でしかない事は、小学生の時に理解した。カードはそれ以来作らなくなって、人に物を自分の判断であげるのが怖くなっていたのだった。

祖母がその後母に何か話したらしく、母から「ごめんね、カードありがとう」と言われたが、渡したカードは破り捨てた。


というのは昔話で、とにかく新郎は毎回、渡した漫画を細かく見ては感想をくれた。何だかありがたかった。

話すのは、漫画の貸し借りをするときか、運動部的ノリノリ先輩と3人でいる時くらいだった。


そこから、新郎とのエピソードも進んでいくのであるのであった。





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