異種族愛の欺瞞、クリスマスに独り『純愛』を考える。

みなさんメリークリスマス! 今日はクリスマスですね!
そんな特別な日に合わせて、サークルメンバーのニドホグさんが文章を寄せてくれました。


はじめに

 クリスマス、リアルもネットも同様に浮足立つこの日は、しかしこの文章を読んでいる多くの人にとって忌まわしい日であることだろう。街行くカップルも、ピカピカ輝くイルミネーションも、日陰者には随分眩しい。しかし、そんな我々にもプライドがあるからこそ、クリスマスを独りで過ごしているのではないのだろうか? 空から降って来たような優しく純粋なで可憐な美少女との真実の愛を追求したかった我々は、妥協をしなかった結果としての現在があるのではないか?
 私は今日、このクリスマスという日にこそ純愛を考えるべきだと思う。純粋でない愛を演出するイルミネーションなど、蓋を開けてみれば色付きの電飾でしかないのだから……。

 「CARNIVALと比べて沙耶の唄は種族の壁を越えているから、パッと純愛であると言いやすい」そんな言葉が弊サークルのメンバーから零れたのは、CARNIVAL座談会の最中だったか? これは、一般論として比較的多くの人間に受け入れられている価値観だと思われる。
 やはり種族の壁というものは大きく、それを乗り越えるパワーがあるというだけで、如何にもそれが純愛的に映るのだ。例えば、先ほど名前を挙げた『沙耶の唄』も、種族の壁を越えた愛を描く作品である。

 さて、最初に種族の壁とは何かを考えるが、『沙耶の唄』の場合は『食性』『外見』『倫理』『能力』の四つがそれにあたるだろう。沙耶は人を喰い、醜悪で、生命を弄び、世界さえ変えうる力を持っている。これらはどれも生半可な覚悟では乗り越え難く、恋愛どころか良好な関係を築くことさえ難しい。しかし、これらを乗り越えて最終的に二人だけの愛のカタチを手に入れた匂坂郁紀と沙耶の愛は、ひたむきで強固な純愛らしい純愛である……と、私は思えない。
 そもそも匂坂郁紀の感覚は、事故によって人よりも沙耶に近い認識へと書き換わっている。二人は本当に種族の壁を越えたのか? 一見して分かりやすい障害に騙されて、本当にあったはずの障害が軽視されてはいないか? 根本的に、差異が大きすぎる存在同士の愛は純愛足りえないのではないか?
 私は『種族を超えた愛』が純愛とは思わない。今回は、種族を超えることで発生する欺瞞をつまびらかにしたいと考えている。

1章.大きな障害を乗り越える

 初めに断っておくが、私は種族を超えた愛や、異類婚姻譚と呼ばれるような概念が昔から好きだ。しかし、だからこそ見えてくる欺瞞に対し真正面から向き合う必要があると考えている。

 そもそも種族を超えた愛を描く作品は、往々にして一般人であるオタク自身を、主人公……つまり種族間の差異を受け入れられる特別な人間に感情移入させる必要がある。これは、社会からどうあっても疎外されてしまう存在との愛を描く以上、明確な欺瞞である。本来であれば、ヒロインとなる異種族は一般オタクにさえ受け入れられてはならない。

 では、ヒロインを一般オタクにも受けれられないような存在にしてはどうだろうか? その大きな壁を乗り越えた主人公とヒロインの恋愛は、いかにも真実の愛らしい。だが、ここにもやはり矛盾が生じる。何故なら障害を乗り越えるには真実の愛が必要で、しかし真実の愛を証明するには障害を乗り越えたという結果が必要だからだ。さあ、主人公は真実の愛をどこで手に入れた? 障害を乗り越える前、即ち障害と直面する前に手に入れた出来立ての愛で、あっさりと乗り越えられてしまうものは障害と呼べるだろうか?
 さて、ここで以上二点の問題を簡単にまとめると、以下のようになる。

・オタクが共感可能な『異種間の愛』に、本当に障害は存在するのか?
・オタクが共感不可能な『異種間恋愛作品』における主人公は、どうやって障害を乗り越えられるだけの愛を手に入れるのか?

 一つ目の問題について具体的な作品名を挙げるのなら『モンスター娘のいる日常』と『小林さんちのメイドラゴン』が適切かと思われる。これらの作品に出てくる異種族は、どちらも一見すると作中社会に自然とは馴染めない存在であり、主人公を橋渡しとして少しずつ人間社会に馴染んでいく。この流れは一見すると、種族の壁を最初に超えたことで、主人公の優しさを博愛的純愛と定義できているように思える。
 だが、個人が橋を渡せば乗り越えられる程度の社会不適合性など、別に異種族でなくとも抱えている。先ほど挙げた二作品はどちらも純愛を謳った作品でないため、これは言いがかりにも近いのだが、やはりオタクが共感可能な『異種間の愛』は『純粋な愛』の名を関するに相応しくないと思われる。

 二つ目の問題。こちらに分類される作品は、大衆に純愛と受け入れられる作品が多いように思われる。今回例として挙げるのは『沙耶の唄』と『最終兵器彼女』の二作品だ。これらの作品は大多数が純愛作品と認識しているが、どのようにしてこの作品の主人公は二つ目の問題を解決したのだろうか?
 まず、『沙耶の唄』から考えていこう。冒頭でも書いた通り、この作品の主人公である匂坂郁紀は事故によって感覚が狂い、沙耶のような化け物と近い感覚で世界を認識している。そのため匂坂郁紀には人肉がご馳走に感じられ、沙耶が美少女に見え、沙耶が侵した世界を美しいと認識できる。これは、本当に異種族間の恋愛だろうか? ひいては匂坂郁紀が種族の壁を越えたと言えるのだろうか?
 無論、『沙耶の唄』を純愛作品と言わしめている要素は異種間恋愛だけではない。だが、世に溢れる異種間恋愛作品は、異種間の愛を騙りながらも、種族の壁そのものが問題になっていない作品が多すぎると私は感じている。

 次に『最終兵器彼女』だ。これは、個人的に二つ目の問題に対するかなり正解に近いアプローチだと思っている。
 主人公のシュウジとヒロインのちせは、物語が始まる前から付き合っている。その後、ちせが最終兵器化してしまうことで、障害を乗り越えるだけの愛を事前に担保しつつシュウジは種族の壁に挑めるのだ。しかし逆に言えば、これはフラットな状態で種族の壁を超えるモチベーションが得られないことの証明に他ならない。

 以上を踏まえて、一般的に認められている『種族の壁を超える』ことの純愛性は、全くもって見当はずれであることが分かる。

2章.壁を乗り越えることで生まれる不純

 さて、ちゃぶ台を返す。そもそも私は、愛の深さを障害を乗り越えられるか否かという物差しで測ることそれ自体に、違和感を覚えてならない。何故なら、障害を乗り越えた結果純愛と証明された愛は、障害などなくとも元より純愛だったはずだからだ。それに、分かりやすい形での純愛の証明など、本来必要ないはずなのである。事実として、大した障害も無くただイチャイチャし続けるジャンルもまた、純愛の名を冠して一定の需要を有しているからだ。
 では、その本来不要なはずの障害は、誰が為の障害か? 無論、オタクのための障害である。私が思うに、『純愛』という言葉と『種族の壁』が長く接続され続けているのは、オタクが純愛を追体験するためだ。

 さて、少し話は逸れるが、純愛には『代替不可能性』こそが重要だと私は考えている。この『代替不可能性』とは、純愛を行う両者にとって、互いが代替不可能な存在であるということを意味している言葉だ(例として、恋愛対象をコロコロ変えて誰にでも愛を囁く人間が、いかにも純愛らしくないと言えば理解していただけるだろうか?)。
 ただイチャイチャするだけの所謂『純愛モノ』は、ただ互いを思いやり、愛し合うことで、互いの代替不可能性を感覚的に我々オタクへ提示している。そして、本来純愛を表現するのならば、これだけで十分なはずだ。
 だが、この構造には一つ欠点がある。主人公とヒロインが互いに互いを愛し合っているせいで、主人公に感情移入できないオタクはヒロインと疑似的に恋愛できないのである。純愛モノ、ひいては二次元美少女コンテンツを楽しむ私のようなオタクの多くが、美少女との疑似恋愛を求めている以上、この欠点は重大である。ただ主人公に感情移入できないというだけで、純愛が一転、BSSに変化するからだ。

 では、強固な代替不可能性によって本来主人公しか愛さないヒロインの目を、自分に向けるにはどうすれば良いか? この答えの一つが『種族の壁』である。ヒロインと主人公の愛の始まりに『社会から疎外される異形のヒロインを主人公だけは受け入れた』という具体性を置く事で、ヒロインの異形を許容可能なオタクもまた、ヒロインに愛される資格を持つのである。
 また、これはある種の異常性癖チキンレースの側面も有しており、一般オタクが忌避する異形性をヒロインが有していればいるほど、つまりヒロインが社会から疎外されればされるほど、自らとヒロインの関係がより代替不可能なものになっていくのだ。この事実に優位性を覚えるオタクは、決して少なくないだろう。
 外ならぬ私も同じような理由から、貞子や、トイレの花子さん、八尺様などの女性型怪異を性的な目で見ていた。しかし、近年の八尺様美少女化ブームに伴い、怪異女子が一般のものとなってしまった。結果、私の中に沸き上がった感情から異種間恋愛の不純性が見えてきてしまったというのが、今回の裏話だ。

 さて、話を戻す。多少例外はあるだろうが、多くの異種間恋愛作品を嗜好するオタクの掲げる純愛が、いかに不純かは理解していただけたことだろう。しかし、実のところ異種間恋愛において、私には言いたいことがもう一つあるのだ。それは、ヒロインの持つ選択肢の少なさである。

 異種間恋愛作品に於いて、ヒロインがその異形性から疎外、迫害されていることは多くある。これによって、ヒロインは自らに優しくしてくれる存在が主人公しかいないと信じ込んでしまうのだ。そしてこれは、オタクも認識するところである。そんな自らの優位性を保った状態で発生する愛など、到底『純愛』などと呼べはしないだろう。
 結局のところ種族の壁は、純愛を担保するものなどではなく、オタクがヒロインを縛り付けるための枷でしかないのである。

3章.異種間の愛は、純愛ではない

 2章で私は、異種族という特性は酷くオタクに都合が良く、ヒロインを縛り付ける効果しか持たない不純なものであると批判した。だが、ここで忘れてはならないのが、二次元美少女作品に疑似恋愛を求めるオタクもまた、社会から疎外されているという事実である。何故なら我々オタク達は、現代で主流となった恋愛工学や、マッチングアプリによる非運命的恋愛の時流に乗れなかったからこそ、異形の少女に惹かれたのだから。
 我々は、自分に愛を向けてくれる存在などいないと信じ込んでいる。それでも愛を信じたいから、社会から同じく疎外された異形の少女を求めるのだ。枷に縛られているのは、我々オタクも同様だったわけである。
 だが、この不安の共有こそが、オタクと異形少女の愛を純愛たらしめるのではないだろうか? きっとクリスマスにデートをして幸せを噛みしめるような人間には『純愛』という言葉の重みも分からない。オタクと異形少女は、人間と異種族という枠組みを超えて、心の傷で同族なのだ。
 そう、オタクは壁なんて乗り越えなくて良い。この痛みを癒したいと願い続け、その臆病さから異種族の愛へと辿り着いた時点で、それは紛れもない純愛なのだから。

おわりに

 この文章を読んで、どうかクリスマスに鬱屈を溜め込むオタクが少しでも救われたなら良いと思っている。現実には純愛を阻むものが多い。過去、社会、自分……それでも頑なに何もしないという形で自らの純愛を守り続けてきたのなら、私はそれを誇るべきだと思う。
 クリスマスも、マッチングアプリも、Twitterで彼女の存在を匂わせる奴もカスだ。我々は断固として、電飾の光では無くディスプレイの輝きに魅せられている。卑屈でも良い、批判しても良い、性格が悪くても良い、ただ社会に理解されなくとも、誇り高い自分でいられますように。
 メリークリスマス。


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