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2021年夏愛知北陸周遊旅行(1日目/新横浜→犬山→名古屋→大垣)

はじめに

この旅の記録は、筆者が主に公共交通機関を駆使して自分の趣味である鉄道要素のある場所に訪問したり、列車を乗りつぶしたり、地元のグルメを探訪したり、各地の産業遺産や文化的遺産、戦争遺産といったものを中心に巡っていくというコンセプトのもとに自分の好きなように出向いた旅行を記録したものである。もしあなたが鉄道要素のある場所、産業遺産文化遺産が好きで訪問してみたいと思ったならば、少しでもこのエントリが参考になっていれば幸いである。

今回の旅の目的・計画

2021年の夏が来た。しかし、未だに流行り病は留まるところを知らない。マスクを取って大手を振って旅行というわけにもいかない。しかし、行きたいことに変わりはない。ならば、行こうではないか。できれば今まで行ったことのないところで産業遺産・近代化遺産にフォーカスを当てて旅程を組んだら、博物館明治村・敦賀がヒットした。あとは、北陸新幹線の延伸でJR西日本の区間ではなくなることが予定されている北陸本線の金沢から敦賀までの区間をもう一度、最後に味わっておきたいという趣旨で、金沢も目的地に入れることとした。
そういうわけで、1日目は新横浜を発って大垣を最終目的地にしつつ犬山の博物館明治村をメインに少し名古屋市中心部の観光を入れる。2日目に敦賀市の観光を中心に午後は金沢市内までひたすら普通列車で移動する。
3日目は金沢市内をじっくり観光して北陸新幹線を完乗しようというコンセプトで旅程を立てた。
ところが、出発の1週間ほど前あたりで、石川県で緊急事態宣言とやらが出て、金沢市内の観光施設は軒並み臨時で休業することが確定してしまった。直前で宿泊地を変えるわけにもいかず、3日目に達成したい目標はもうこの時点で8割型詰んでしまった。行く前から旅程崩壊してしまったわけである。詳細は3日目の記事に譲るが、代わりに高岡市と富山市の周辺の観光に切り替えた。

1日目の行程

まずは名古屋駅に行かないことには始まらない

眠い目をこすって起床。新幹線で新横浜駅から名古屋までひとまず乗車する。旅行初日、ワクワクするが満足できる行程にするためにどうしても早起き不可避なのは体に堪えるようになった。

朝から活気溢れる新横浜駅

真っ先に新幹線に飛び乗って名古屋駅を目指す。2019年にゼミの合宿で京都に向かった時に朝早い博多行きののぞみに乗ったことがあったが、あのときは普通に指定席がほぼ満席状態で新横浜駅を出発していたのを今でも覚えている。それなのに2021年は本当に空いていた。自分の取った座席の列に人がいなかった。圧倒的に利用者が減っているのだなと改めて流行病の影響を思い知らされた。

ここから始まる

新幹線の車窓を眺めるだけでも楽しいものである。少なくない人々にとっては、移動は退屈なものらしいが、実にもったいない。トランプなりそういうのに興じる(今の御時世では座席を向かい合わせにすることすら適わないが)のもいいだろうが、車窓をぜひ見て欲しい。だいたいどのへんを通過しているのか。景色を見るだけでもわかることがあるのだ。富士山側の席を取って、なんだか目の前にデカい茶色っぽい銀行のビルが見えたり、製缶工場が見えたらもうすぐ静岡を通過する合図だ。これは静岡市清水区の景色、漁港で水揚げされた水産物を缶詰に加工するために、製缶工場が街に多くあるというわけだ。そういうことに興味を持ってみるだけでも、旅の楽しみ度は大きく変わってくる。でもこういうの興味持つのって発達障害だって言われるんだよね。

そうこうしているうちに名古屋に着いた。朝飯はまだである。ならばずっと試してみたかったきしめんをすするTVしようじゃないかということで、新幹線ホームにある住よしに入店。腹ごしらえをした。

鰹節もりもりで出汁もきいてる。駅そばの如くサクサク啜れる。

ここから明治村に行くには、名鉄に乗り換えなければならない。急いでトイレを済ませてダッシュで向かった。
名鉄名古屋駅、上下線ともあらゆる路線から名古屋を目指す列車が一挙に押し寄せてくるにも関わらず、降車用ホームを除外すれば1線につき1つしかホームがない。つまり、主要駅にありがちな退避設備がない上下線とも一線スルー方式になっている。これは永らく名鉄名古屋駅のボトルネックになっているが、拡張しようにも用地がないわけである。そのため、名鉄では、降車用ホームを設けて乗降をスムーズにするだとか、かつて特急ひだと連結して岐阜県の高山まで運行されていた北アルプスという特急列車があったのだが、この気動車で運転される特急車両と特注の加速度がエグいやつを導入したりといった涙ぐましい努力をして、ラッシュ時には2分間隔で列車が停車して乗降扱いを終えて発車してができるような体制を構築している。
おまけに、様々な方向に出る列車が同一ホームから発車するわけであるから、津島行きに乗るのか犬山行きに乗るのか名鉄岐阜行きに乗るのかというので誤乗するケースというのも考えねばならず、常にどの列車がどの停車位置を使って、次に来る列車がどこの路線に向かい最終目的地がどこなのかを注意しなければならない。

今回は犬山線の急行列車に乗車

今回の第一の目的地、博物館明治村を目指してひた走る。

インターネットのせいで有名になってしまった岩倉駅のこのスポット

あまり詳述するべきではないということは十分承知だが、途中駅の岩倉駅は、とある投稿者のせいで結構有名になってしまった。aiueo700という方だが、よくここでビラ配りをしたり徘徊していたらしい。

4両編成の名鉄犬山線の急行列車は、名古屋駅を出て枇杷島のデルタ線を過ぎたあたりでもうだいぶ空いていた。もうここは郊外なのである。名古屋の中心部を少し出ただけで一気に郊外へ変貌する。それが東京や大阪と違う名古屋都市圏の風景だと思われる。

終着の犬山駅に到着。ここからはバスに乗り換えて一路博物館を目指す。乗車するバスは岐阜バス。犬山市は愛知県に所属しているが、交通的にはもうほぼ岐阜県のエリアといってもいいようだ。

明治村、でかすぎるッピ…

到着した時、いや、旅行を計画したときは正直ナメていた。いうて13:30くらいには昼飯も食べ終えた状態でパークの見学を終えているのだろうと。
そんなことにはならなかった、15:30くらいまで目一杯歩き回って建物の中まで探索して休む間もなかった。想定以上にデカかった。

三重県尋常師範学校・蔵持小学校

ひとまず入村し、入場ゲートから近い地区を探索する。ひとまず目についた中に入れる建物が上の写真の三重県尋常師範学校ということで、要は教員を養成する学校だった施設だ。

石畳と天井の木材、扉の質感からもその貫禄が伝わってくる。

例えばこの師範学校の建物では、当時の小学校教育の様子や昔の学校で使われていた黒板や児童の机といった設備も当時の調度品のままに置いている。そして、その建物にちなんだ展示(一部例外あり)もされている。当時の明治時代の学校教育ではどのような本が用いられていただとか、どのような学校制度だったとか、そのような話が各建物の至る所にテーマ別に解説があったりする。これを一個一個しっかり見るだけでも結構時間を食う。そんな建物が30-40とあればもう手に負えない。

札幌電話交換局

1丁目の番地には他にも教会だった建物や西郷従道の洋風の邸宅、森鴎外・夏目漱石の住宅といった重要文化財クラスの建物が自然にそこにあったかの如く普通に建っていてしかも靴を脱いで内部まで見学できる。
2丁目に映っても同じようにまだまだ貴重な建物群は続く、全部取り上げて解説しようものなら博物館明治村だけで4本くらい記事が溶けていくことが目に見えているので、程々にしておきたい。
上の写真の札幌電話交換局、その昔、電話をかけるにあたって今のように携帯電話もなければ固定電話もまだまだ普及していなかった時代、そもそも誰かに電話をかけるにあたって、一旦電話交換手という人と通話をして○○さんの電話に繋いで欲しいと告げて、電話交換手の取りなしで初めて通話したい相手と繋がれるという仕組みが採用されていたわけだ。その当時の電話交換手が使用していた施設を移築してきたものだ。
というわけで、この建物の展示のテーマは、電話器の発展の歴史である。濃い、濃すぎる。一個一個の建物で関連する近代化の歴史が全部詰まっている。末恐ろしい博物館だ。

ほのお・あくタイプ

この旅では2日目に金沢に向かうわけだが、その金沢にあった旧制第四高等学校にあった物理化学教室も、この博物館明治村に移築されている。

昔ながらの大学の講義室みたいな部屋。でもこれは旧制高校の教室。旧帝進学者の卵たちが学んだ教室だったわけだ。
昔の物理の教科書、光のスペクトルの話だろうか。フラウンホーファー線とか吸収線とか輝線のお話だったかな。高校物理の話はだいぶ忘れてしまった。
昔の醫院の建物を移築したもののようだ
薬品の瓶が並ぶ

博物館明治村、まだまだこれでも半分もコンテンツを消化できていない。アホみたいに施設が広い。これを徒歩で移動するのにはなかなかしんどい。園内に交通手段がないのか?あるんですねえこれが。それも明治時代の路面電車をそのまま動態保存しているものが。追加料金を払う必要があるが、これに乗れるだけでも十分体験価値としてはありである。

元京都市電、トロリーポール型の集電器は大正期までの電化路線であまねく見られたが、速度が出せないという欠点があり、路面電車でも徐々に駆逐されていく。

これを動態保存できていることそれ自体がもうすごいんだよな。500円で動態保存に貢献することができるのだ。

期間限定で札幌市電の古い車両が展示されていた。

パーク内を電車で移動してもまだまだ終わらない。西園寺公望の興津にあった別荘坐漁荘、幸田露伴別邸こと蝸牛庵といった文化財がまだまだ続く。ようやく3丁目に入った。すべての建物の内部に立ち入れるわけではない(ガイドさんの案内があれば入れる場合があるところもある)が、見どころが多すぎる。バケモノじみたコンテンツ力である。まだ25棟くらいしか巡れていない。やっとこさ半分くらいになるかどうかといったところだ。
そして、3丁目エリアには最近新札の肖像画に採用されることが内定した北里柴三郎の研究室もここに移築されている。

北里研究所外観
大正4年の建築らしい

中では感染症との闘いの歴史、ちょうどホットな話題だが、明治・大正時代の感染症の闘いといえば、結核との闘い。腸チフス・赤痢といった病気だろう。そうした感染症との闘いをコッホの時代から振り返ったり、その感染症と北里柴三郎との関わり、時代ごとの感染症の流行の統計といった史料が展示されている。一個一個の展示の内容も濃厚だ。

シアトル日系福音教会

博物館明治村、国内の歴史的建造物に飽き足らず、北米・南米・ハワイへ渡った日系人が居住や集会に利用していた建物についても寄贈を受けて移築している。上の写真はあの氷川丸も寄港していたシアトルにあった日系人の福音教会を兼ねた日系人の住宅だ。1階が教会の施設になっていて小さなオルガンと信徒である日系人たちが集まれる集会スペースが、階段を上がって2階には当時この建物に住んでいた日系人の生活空間が再現されている。

家具や調度品はやっぱりアメリカっぽさを感じる

他にもブラジルへ渡った日系人が現地のコーヒープランテーションの近くに建っていた木造の住宅(ブラジル移民が使っていた農機具や、移民の歴史、つまり笠戸丸のお話もあった)。ハワイ移民の集会所(中の展示はハワイのサトウキビ農園のお話など)もここに移築されている。当時の日系人たちの決して楽ではない生活ぶりが少し伝わってくる。

尾西鉄道1号機関車、何故かここに展示されている。

炎天下の中でろくに日焼け止めもせずに只管歩いている。ドリンクを買っても暑さはなくならず、当然丸焦げ、だがまだまだ見どころがある。行かねば。

聖ザビエル天主堂

レンガ調の建物が多めの5丁目に到達。その中でもひときわ目立って立派にそびえ立つ教会がある。聖ザビエル天主堂だ。昔はあの京都河原町三条にあったらしい。長崎の大浦天主堂といったところでもそうだったと記憶しているが、外観は撮影できても現役の教会というのはどれだけ文化財的価値があるとしても、通常の観光客がその内部の写真を撮ることは基本的に許可されておらず、博物館職員や教会職員が外部への学術研究の協力やパンフレットの作成のためだけに撮影が解禁されるに過ぎない少しお堅い部分がどうしてもある。近代化遺産・文化財旧建築ウォッチャーとしては残念であるが、他者の信仰に土足で入るようなことはやはり控えるべきであるから、そうした対応も尊重する以外ないだろう。しかし、ここではそういった配慮は不要になる。すべてが重要文化財として、原則として体験型の施設になっている。文化財保存の観点から脆い部分を除けば基本的に立ち入って個人利用目的ならば自由に写真を撮って構わないのである。

ステンドグラスと教会にありがちな椅子、このような光景を写真に収めることは簡単ではない。

教会内部、とても荘厳で心が浄化されそうな雰囲気だ。

隅田川新大橋

今でこそ現代的な橋になっている隅田川にかかる新大橋、その昔はこのようなわりかしおしゃれな外観だったらしい。けれどもこのような飾りがあると車高が制限されるからそれが東京の交通の点からも問題があったのだろうし、都電も徐々に廃止されていく中でこの橋も役割を終えて掛け替えられ、ここにやってきた。
昔の鉄橋は、まだまだ我が国の製鉄技術が未熟だったがために、米国から鉄材を輸入していた。この橋も米国のカーネギー社から輸入されたものだ。けれども石は問題なく国内のものが使えたので、こちらの橋では常陸の石が使われたそうだ。

旧帝国ホテル

博物館明治村で最も有名な建物といえばやはりこの帝国ホテルだろう。ホテルのロビー部分がほぼそのままの形で残されている。中には喫茶室もあり、ゆったりできる高級感のあるスポットだ。

この空間があの大東京の中にあったんだよな

設計はあのフランク・ロイド・ライト、内装で使用している石は栃木県で採掘される大谷石をふんだんに使用している。石を加工して幾何学的な模様が展開される。写真左に映っているように柱全体が大きなブラケットになっている。透かしテラコッタから漏れ出る光がとても洒落ている。

ようやくここまできて折り返しといった感じだ。
ここからようやく鉄道要素が本格的に出てきた。

残念ながらSLは動いていなかったが、箱型の客車が見えたので。
かつての三重県庁

5丁目、4丁目の残りのエリアも消化して路面電車で一気に戻ってきた。
三重県庁舎の建物内では明治時代の時計・宮廷家具の展示なんかもあったか、何故か鉄道に関係する展示もここにあった。

閉塞器、ここにもあったか
腕木式信号機の部品が何故ここに?

鉄道だけ取り上げても、このような部品についてまで鉄道博物館ではないにも関わらず、明治大正期の鉄道技術として紹介する気合の入りっぷりには脱帽である。それに京都電気鉄道の動態保存から明治期のSLの動態保存まで手掛けている。さらに、鉄道博物館に匹敵するような車両も保管されている。
鉄道局新橋工場の建物内にそれはある。

6号御料車
5号御料車

鉄道博物館で保存されている御料車は、交通博物館時代から変わらず、ガラス越しにいざとなれば窒素噴霧で消火できるような空間で厳重に保管されている。しかしこちらの御料車は、もちろん車内に立ち入ることまではできないものの、ここまで接近して写真を撮ることができる。これだけの価値のある車両がごく普通に展示されている。鉄道好きにも十分刺さるコンテンツがこの博物館にはあると思う。

ここまで只管博物館明治村の展示物を紹介してきたが、これでもまだ1割ちょっとくらいしか紹介できていないと思う。それだけこの博物館はコンテンツが濃密でとにかくデカい。明治時代をコンセプトにしたディズニーリゾートのような濃密さで、なおかつ絶叫マシンがないし行列もできているわけもない。本当に刺さる人には刺さるコンテンツだ。1日で全部を巡るのには無理があるから丁目ごとに区切って巡ることをおすすめすると公式サイトが言っている意味がようやくわかった気がする。大満足の体験だった。おかげで13:30くらいには切り上げようと思っていたが、15:00を過ぎていた。

名鉄小牧線


バスで犬山駅まで戻って、名古屋を目指す。行きは犬山線を乗ってきたので、ちょっと意趣を変えて小牧線経由で名古屋に行くこととした。

名鉄小牧線

名鉄小牧線は、全部が普通列車。優等列車の設定はないローカル線だったりする。それに、名古屋中心部の一歩手前の上飯田というところで名鉄線としては終わってしまう。何故そこで打ち止めになっているのかといえば、もともと名古屋市内中心部にアクセスするにあたって、上飯田から市電に乗り換えて大曽根方面に出ることができたからこそ、わざわざ名古屋市中心部に乗り入れることをしなかったからだ。しかし、その路面電車も無くなって、地下鉄名城線の駅に上飯田駅から行くには10分ほど歩かねばならなかった。それゆえに小牧線の名古屋方面のアクセス路線としての役割はもともと犬山線が優位だったとはいえ、どんどん衰退していった。そこで、名古屋市交通局は、上飯田駅から名城線の平安通駅までの一駅だけ地下鉄を伸ばすだけで小牧線沿線の乗客を名古屋に引き付けることが容易になると考え、たった一駅だけの地下鉄路線、上飯田線が開業した。そういうわけで、上飯田線と小牧線は一体の路線として運行されており、すべての列車が平安通まで直通する。

名鉄小牧線・地下鉄上飯田線路線図

小牧線の途中駅である小牧駅は、小牧市の中心駅であるが、かつてこの小牧駅から新交通システムが伸びていた。桃花台線だ。小牧から少し離れたところに開発されたニュータウンと小牧駅を結ぶ新交通システムだったが、小牧駅の桃花台線のホームは高架上な一方で、名鉄小牧線のホームは地下である。乗り換えが本当に大変だった上に接続もそこまで考えられていなかったらしく、利便性はもともと高くなかった。さらに、名鉄小牧線自体が、先述したように名古屋市中心部にアクセスをするには不便を抱えていた路線であって、上飯田線の開業はなんと2003年まで俟たねばならなかった。そのため、当時の桃花台線沿線のニュータウンの住民は、わざわざ小牧駅まで出て小牧線で上飯田まで行って、上飯田からバスに乗り換えて行くくらいなら、中央西線の駅、例えば隣の自治体の春日井市まで出て春日井駅から千種なり金山なり名古屋駅で降りて中心部へ向かったほうが都合が良かったわけである。それゆえに桃花台線を利用する意味がなくなっていた。2003年に上飯田線が開業して小牧からの名古屋へのアクセスが改善されたとはいえ桃花台線にとって抜本的な解決策とはならず、2005年の愛・地球博の開催時もすっかりリニモや愛知環状鉄道に話題を持っていかれて、ニュータウンの人口の減少も相まって、とうとう2006年に桃花台線は廃止されてしまった。最後には鉄道マニアが押し寄せたらしいが、あっけない最期だった。徐々に解体は始まっているが、今でも桃花台線の遺構は解体されずに残っているものがあるそうだ。
名鉄小牧線からも少しだけ車窓からその遺構を眺めることができるが、走行中故うまく写真が撮れなかった。

桃花台線の高架橋
名鉄にも小牧原駅があったが、桃花台線にも小牧原駅があった。おそらくその駅跡がそのまま残っているようだ
桃花台線が降りてきている

小牧線を乗り継いで地下鉄名城線で名古屋の中心部を目指す。鉄道研究会という部活の性質上、名駅周辺を探索したり、リニア鉄道館に行くことはあっても、名古屋市の中心市街、要は栄とかその辺を散策することまではなかったので、しっかり街なかを歩くのは今回が初めてになる。

名古屋市内散策

名城線を降りて、県庁前までやってきた。

愛知県庁舎

愛知県庁舎は、昭和13年に建築された。当時一般的なオフィスビルのスタイルだが、上には城郭風の天守が載っかっている。当時は日本が満洲事変を経て日華事変へと突入するような時代。総力戦の時代に向けて、国威発揚を兼ねて日本らしい近代建築を追求しようとする動きがあったようだ。このような建築様式を帝冠様式というらしい。同じような帝冠様式の建物は、東京九段にあった軍人会館、すなわち今の九段会館がそれに相当する。

名古屋市庁舎

一方の名古屋市本庁舎は、昭和8年に竣工したもので、昭和天皇御大典事業を記念して設計された。特徴的なのはやはり中央部の時計塔で、屋根が二重になっているのは、すぐ近くにある名古屋城のしゃちほこをモチーフにしたもので、名古屋らしさを演出している。(内部の探索を忘れた)

そのまま久屋通りを下って栄を目指す。

名古屋テレビ塔

名古屋らしいシンボルにようやくたどり着いた。昔ながらのテレビ塔という感じだが、だいぶ内装はリニューアルされていた。かつてのテレビ塔で使われていたであろう案内サインが1階のエレベーターの搭乗口付近に展示されている。

残りは栄の中心部から白川公園あたりを目指してゆっくり散歩した。

三越デパートのライオン
栄付近の名古屋中心部の街並みのなんでもない1枚

白川公園まで歩いてきたのには理由がある。名古屋市の科学館の外に市電が保存されている。保存車ウォッチャーとして人目見てから帰ろうと考えたまでである。科学館にはロケットのレプリカから南極観測車の実物も置いてある。今度行ってみるかな

休館日だったらしく外から撮影

以上一通り見学を終えて地下鉄で名古屋駅に戻ってきた。
実は明治村の見学でとても昼飯を食っている場合ではなかったが故朝飯のきしめん以来何も胃に入れていない。
名駅周辺に戻って台湾まぜそばを啜って、最終目的地、大垣を目指すことにした。

残った具材は追い飯と一緒に食べる、炭水化物モリモリの罪深い味
JR東海管内の211系もあとどれくらい見られるだろうか

通勤ラッシュ時間帯の特別快速大垣行きに乗車、とても混んでいたが尾張一宮で奇跡的に着席できた。そして、ようやく大垣に到着。

長い一日だった

今日の宿泊地は大垣のアパホテル、大浴場も付いていて駅から徒歩0分の神立地、トレインビューといった色々な要素が付いてる良宿だ。

トレインビューの部屋を当てた

というわけで、宿に入る前に駅前の激安スーパーラ・ムーで今日の晩酌用のおつまみと明日の旅で飲む飲料を少し安く手に入れて1日目の行程を終えた。とても長い1日だがあっという間だったな。2日目に続く。


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