見出し画像

自殺とは呪いであり、生きるのもまた一種の呪いなのかもしれない

この文章は個人的な思考を書き留めたものに過ぎない、と事前に忠告しておく。

日本一周したバイク乗りの若者が旅の終わりに自殺したという話をTwitterのトレンドで見た。
ダムに飛び込んだらしい。

この現代社会で人が1人死ぬというのは、とても大変な事だ。
当然の事だが、まず迷惑がかかる。

件の若者の場合、ダムの管理者に影響を与えたのは勿論のこと、捜索隊も出動していたようだ。
そもそも日本一周を支援してくれていた人たちにも、悲しみを与えただろう。怒っている人だっているかもしれない。
普通に日本一周挑戦している人たちへの風評被害もありそうだ。
「お前も終わったら死ぬ気なのか?」という目で見られてしまう人だっているだろう。
家族をはじめとした周囲の人間もショックを受けたはずだ。

私は、幸いなことに周りの人間が自殺した事はない。
唯一、昔のバイト先の先輩が自殺したと人伝てに聞いた事がある。
その先輩とは特に親しいわけでも何でもなかったし、そもそもあまり話した事も無かった。
それでも妙に心がざわついた記憶がある。
死んだ本人が思っている以上に、周囲のあらゆる人間に何かしらの影響を与えると思う。

最近はホームドア設置でめっきり減ったかもしれない、電車の飛び込みの場合。
電車の運転手や乗客、駅のホームにいた目撃者にトラウマを植え付けるだろう。突然目の前で人間がミンチになるんだから。
家族がいる場合は賠償請求がいくだろう。結構えぐい金額だったような気がする。
電車が止まると何万人もの人間に影響を与えるわけだし。

飛び降り自殺だって目撃者や発見者にトラウマを植え付けるはずだ。
そもそも人間が飛び降りたらまあグロい事になるだろう。ドラマで見るような綺麗な死体にはならないだろうし。
飛び降りた時に下を歩いている人が怪我する可能性だってある。
飛び降りた建物の関係者にも影響を与えるはずだ。
商業施設だったらしばらくお客さんが減るかもしれない。
だって人死んだ建物とか嫌じゃん。ホテルとかもそう。最悪廃業に追い込まれるところもありそう。

トラックの前に飛び出す場合。
何の罪もないトラックの運転手にトラウマを与え…下手したら過失致死の疑いをかけられるかもしれない。それはあまりにも酷じゃないか?

じゃあ自分の部屋でひっそり死ぬ?首吊りとか薬物、リスカとか。
でもその家が賃貸だったら?
当然家の管理者に迷惑がかかる。事故物件になるし、人が死んだ部屋に住みたいという物好きはなかなかいないだろう。
近所の人だって嫌なはずだ。これをきっかけに引っ越す人だっているだろう。
ちなみに賃貸物件で自殺した場合も、家族に損害賠償請求がいくそうな。そりゃそうか。

じゃあ人知れぬ山や川、樹海で死ぬ?
どんなところでも管理している人が存在する。
必ず誰かしらには迷惑がかかる。
これが現代社会である。

周囲の人間も「自分がちゃんと気付いてあげれれば」と後悔し、思い悩むかもしれない。
もしかしたら周りの人の人生に「自殺」という選択肢、きっかけを与えてしまうかもしれない。
現に冒頭のバイク乗りの人は、何年か前に同じく日本一周して自殺してしまった人の後追いなのではないかと言われている。

また、死に損ねた場合。
大怪我して障害が残るかもしれない。その場合は介護の費用や心身への負担を周囲が背負う事になる。
死に損ねた本人も、自殺未遂する前より一層ハードモードの人生を過ごす羽目になるかもしれない。

周囲の人間に対してめちゃくちゃに迷惑をかけ、死に損ねた場合のリスクもある。
というか死ぬ瞬間ってめちゃくちゃ痛くて苦しそう。

それが自殺という行為だ。ここまでくると一種の呪いだろう。

しょっちゅう自殺を仄めかす人というのは存在するが(本人に死ぬ気があるのかないのかは別として)、それだけの覚悟があるの?と個人的に思うし、本当に自己中心的だなとも思う。


ここまでは理性の話だ。

これだけ書いといて何だが、私は「自分で命を絶つなんてとんでもない!」と声高に叫ぶつもりはない。
冒頭の若者に対しても、批判する気はない。擁護もしないが。

人間という生物は、気持ち一つであっさり死んでしまうんだろうなと思っている。
死とは案外すぐ近くにあるものだ。

「ここから飛び降りたら確実に死ぬんだろうな」
「今、この車の前に飛び出すか飛び出さないかは私の気持ち次第なんだろうな」
子供の頃から漠然と考えていた。気持ち次第で人間は簡単に死のうとする事が出来てしまう。
それが何だかとても恐ろしかった。


何か明確に辛い出来事が無くても、生きているだけで辛いという性質の人は存在する。

心の底に闇を抱えている人間。
私も多分、この世の中を生き辛く感じているタイプの人間だ。
人間不信が拭えず、常に孤独を抱えている。
人と話していても、いつもどこかに疎外感があって。
自分なんていてもいなくても大して変わらないなという結論に至る。

相談出来る相手がいないわけではなく、言ったところで理解される事はないなという諦め。

本当はこんな事考えたくない。もっと気楽に…シンプルに生きたい。
だからこそ出来る限り考えないようにしている。

どうしてもこの思いが強くなった時は、ひたすら歩く。がむしゃらに歩く。15kmくらい。
たくさん歩いたとはいえ、しょせんは15kmである。

空を見上げる。
己の矮小さを再認識し、世界の広さを再確認し、人はみな本質的に孤独だということを改めて思い知る。
この抗いようのない現実に直面し、なぜか清々しい気分になるのだ。
そして生を実感する。自分の中の儀式の一つなのかもしれない。

話を戻すと、人はみな本質的に孤独であるし、誰にも理解されない部分が存在する。その事実に耐えられない人というのは結構いるんだろうな。
そういう人は辛くなった時、自分で死を選んでしまうのかもしれない。

でも前半で書いた通り、自殺というのは本人が思ってるより遥かに多くの人に影響を与えるわけで。
案外、安楽死システムってあってもいいのかもしれないな、なんて思ったり思わなかったり。

まあわざわざリスクを背負ってすぐ死のうとしなくても、人はいつか必ず死ぬもんだし。
いつか死ぬのは確定してるんだから、肩の力抜いて自分の好きなように生きればいいんじゃないの。
と無責任に〆る。

サポートして頂けたらとても嬉しいです。頂いたサポート金はイラスト本やツールなどの自己研鑽用、noteにおける創作の環境強化に使っていきたいです。