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流行病にかかった話

 年明け早々、流行病にかかった。

 これだけ全国で連日数が増えておいて、まさか自分が当事者になるとは思ってもみなかった。

 ”このご時世” とやらは、いつまでも続きそうだなとは感じていたのに、なんだかんだ自分は最後まで逃げ切れるんじゃないかな~と思っていた。

 そして流行に乗ってみて、あぁやっぱり自分にもこういう機会があるもんだなあと、謎の感心をしているところである。

 さて、振り返ると、流行病が僕に到来したのは、確実に先日行われた高校の同窓会のときである。

 180人(だったと思う)もの元同級生達が、ホテルの宴会場のような場所に集まっていた。髪の色が変わった人、メガネが裸眼になった人、直毛が天然パーマになった人。懐かしい話をして、今の話をして、いつかまた会う話をして、別れた。

 同窓会のあと、僕は友人Aの車にBと一緒に乗せてもらい、自宅まで帰った。

 Aは貴重なドライバーということで、別の同級生の送迎に駆り出されてそそくさと退席してしまったが、Bは僕の家に残り、一緒に飲むことにした。

 Bは高校2年と3年で同じクラスだった友人で、趣味が合うこともあり、よく一緒に行動していた。

 高校を卒業した後も、僕の下宿するアパートとBの実家が近いこと(Bは実家から大学に通学している)、Bは車の運転ができることから、2、3ヶ月に1度は僕の家にBが大量の酒を持ってきて、夜を更すということがあった。

 いつものように、Bは酒を用意してくれていた。しかし今回は、明らかに2人では消費しきれない量が冷蔵庫いっぱいに詰まっている。

 急に友人を売るが、Bは親の影響で中学三年生の頃から飲酒している。今更、僕という存在を考えても、アルコールのキャパシティを見誤るようなことは考えられなかった。彼はプロである。

 聞くと、どうやらBは今回、僕の家に2泊3日滞在するらしい。今夜は元々そのつもりであったとして、明日は成人式があるらしい。同窓会に着ていったスーツで、僕の家から直接会場に向かい、そのまま僕の家に帰宅して、夜は酒を飲む計画のようだ。そしてそれを今伝えてきた。

 まあ今は冬休みではあるし、特に予定もないので問題ないが。そうして彼は本当に2泊3日して、丁寧に洗い物もして立つ鳥あとを濁さず出ていき、濃厚接触者となり、案の定陽性となった。

 Bが出ていった日、午後から喉の調子が良くなかった。若干の違和感を抱えつつ夕方にはアルバイトに行き、風邪薬を買っておけばな~と眠りについた。

 翌朝目覚めた1秒後、あまりの倦怠感と喉の痛みに、「流行り病」という言葉が頭を突き抜けた。

 これはコロナでなければインフルエンザで、インフルエンザでなければコロナだろうなと、確信を持っていた。どちらも初期症状が具体的にどんなものだったか記憶していなかったが、本能が感じ取っていた。

 なんとか身体を引きずって歩き、OKラインギリギリの体温と、大量の鼻水をアレルギー性鼻炎にカテゴライズすることによって、PCR検査センターの門を通った。熱っぽく歪む視界で、唾液検査を助けるためらしい梅干しとレモンの写真を眺めた。結果は明後日までに出て、陰性ならショートメール、陽性なら電話が貰えるらしかった。

 帰りの道のりでコンビニに寄って、財布に入っているお金で買えるだけのスポーツドリンクとゼリーを買った。買い物の内容から状況を察してか、店員さんはゼリーの数分のプラスチックスプーンと、お手ふきを袋の底に入れてくれていた。

 身体が弱っているときには心も弱るもので、心が弱っているときには人の優しさが本当に沁みるものだなと思った。

 そうしてようやくアパートに着き、靴を脱ぐとコンビニで買い物した袋を投げ出して、そのままベッドに倒れ込んだ。体力は限界に近かった。

 とにかく喉の痛みが激しく、焼けるようで、首から上が少しでも動けば、動くごとにヤスリをかけられているかのような刺激が走った。

 体温も上がっている確信があった。体温計を脇に挟むための力に、「振り絞る」という表現が必要なほど疲労していたが、なんとか測ってみると、しっかりと高熱だった。

 ベッドに倒れ込んだその日は、全く動くことが出来ないまま、唸りながら眠っていた。一人暮らしを始めてから何度も、自分以外誰も居ない状況で体調を崩すことの心細さを痛感してきたが、今回はそんなことを感じる余裕もないほど、眠って治すことに専念していた。

 次の日、目を覚ますと、明らかに状態がよくなっていた。こんなにわかりやすいことがあるかというくらい、症状のピークは去っていた。身体のダルさと熱っぽさはほとんど無くなっていた。

 しかし、喉の痛みはまだ健在(ウイルス的には)で、ゼリーを飲み込むのにもかなり苦労した。
 コロナの症状を調べてみると、「喉の痛み」というのは初期症状としてよく例が挙がっているらしく、実際昨日、僕もそうだった。そして、「発熱」や「倦怠感」、「味覚・嗅覚障害」などの症状例の中で一番始めに挙げられるほど、ポピュラーなものらしかった。

 ゼリーは、歯の生えてない赤ちゃんの離乳食や、錠剤の薬を包んで飲みやすくするために使われている。喉を痛めた病人にとっても心強い。恐らく、世界で一番喉にやさしい食べ物だ。
 それを飲み込むのに苦労している。同じ痛みを抱えたであろう人間に、アパ社長カレーを提供したクルーズ船が確かあったが、あれはとんでもない船だなと思った。

 その日の午後に、PCR検査センターから電話が来た。電話が来るということは、そういうことなのだが、「やっぱりな」という印象だった。

 「陽性でした」と伝えられ、まあ取れているだろうと思っていた授業の単位が、開示された成績を見ると結局取れていたときのような安心感を抱いた。電話口に「はい、はい」と応答する自分の声のしゃがれ具合に少し驚いた。

 そこからは右肩上がりに回復していき、陽性の連絡を受けた2日後には、若干声が枯れていること以外は、普通と何ら大差ない体調に戻っていた。

 実は、不安に思っていたことが2つほどある。

 1つは水と食料の問題で、水に関しては、早い段階で父親がインターネットで注文して、僕のアパートに届くようにしてくれていた。
 食料に関しては、コロナにかかった人への支援で保健所が届けてくれる「自宅療養セット」というものがあり、それに頼ってみると、残りの自宅療養期間でも有り余るほどの缶詰やパックご飯、野菜ジュースなどが、ダンボールいっぱいに入っていた。

 もう1つは、お金の問題だった。PCR検査と、その結果待ちの期間、自宅療養期間を合わせて、かなりの期間アルバイトを休むことになってしまっていた。去年の年末に、自動車学校の入校費を支払ったこともあり、収入が不安だったが、どうやらコロナ関係の欠勤は有給扱いらしく、既に万全の体調の僕はほくほく顔だった。そんなわけで、2つの不安は杞憂に終わった。

 以上が僕と流行病の出会いで、現在に至る。明日には自宅療養期間を終え、冬季休暇と療養期間と自主休講期間を含め長いこと顔を合わせていなかった大学に、今度は後期の単位と出会うため、再び通うことになる。

 コロナにかかって、色々思ったことはあるが、学んだことは実の所少ない。強いて言えば、「自分は大丈夫だろうと思っているものでも、なるときはなるものだ」ということだろうか。
 果たしてこれが、 ”齢二十にして” 早すぎる悟りなのか、遅すぎる知恵なのか、適度な心の成長なのか判断はつけられない。

 幸い、出席が足りないということはない状況で自宅療養を終えることが出来そうだ。しかしこれがもし、あと1回でも授業を休めば、大学構内のデカい池に浮かぶ鳥居に向かって、両手をすり合わせ頭を垂れることになるぞというタイミングで感染してしまっていたら、と思うと、ぞっとする。

 予期できることなんて、少ない。ましてや流行病など、大丈夫だろうと高を括っていても、よしこいと構えていても、タイミングを合わせてくれることはない。そういえば昨日と一昨日は、大学入学共通テスト当日だった。全国の受験生の中には、喉の痛みに目を覚ました人もいたんだろうか。
 
 ”不測の事態に備えて、とりあえず目の前のことをやる”。
 そういう教訓を得たことにしようと、とりあえず思う。

 早速明日は借りていたDVDを早く消化して、いつもなら4日後に手をつける、5日後が締切の課題を出そう。今はその明日の朝5時。

                      

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