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はじめに――「鬱漫画」の定義をめぐる問題

 近年、「鬱漫画」なるジャンルが世間に新たに登場し、マンガジャンキーら(あるいはマンガマニアら)の心をかき乱している。

 よくよく考えてみると、この語の初出や定義はいまだ判然としない。
 そこで、ここではわからないなりに、いくつか「鬱漫画」についてわかっていることや考えていることをメモとして残してみたい。

 第一に、「鬱漫画」は、近年の新しい言葉であり、かつどうやらweb上で認知されている言葉である。(紙の辞典類には今のところ存在しない。)
 インターネット上の辞書には、少ないながらこの概念について記載されたものがある。weblio辞書によると、「鬱漫画とは漫画におけるダウナー系のジャンル。特殊なジャンルのため作品によっては線引きしにくい場合がある」とあり、さらなる詳細については、以下の通りに語られている。

かつての漫画は、「楽しいもの」「明るいもの」「子供のもの」といった既成概念が1960年代後半まで存在しており、つげ義春が1966年に発表した『沼』『チーコ』など作家性の強い作品群は、当初は「暗い」という理由であまり評価されなかった。1970年代以降になると劇画などの登場を始め、漫画が多様化していくにつれ、一部のマニアックな読者からは高い評価を得るようになっていったが、余りに作家性が強い奇異な作風の作家は、少なくとも1980年前後に現れたニューウェーブまで、『月刊漫画ガロ』『COM』などの限られたマニア誌でしか受け入れられなかった。
その一方で、手塚治虫の『アトムの最後』『奇子』、藤子不二雄の『ミノタウロスの皿』『笑ゥせぇるすまん』『魔太郎がくる!!』、ジョージ秋山の『銭ゲバ』『アシュラ』、永井豪の『デビルマン』などが先駆けて漫画に悲劇的かつ露悪的な要素を持ち込むことに成功している。
ガロ系作家の蛭子能収、丸尾末広、花輪和一、山田花子、ねこぢる、福満しげゆきなど、「精神世界」「耽美系」「猟奇系」「因果で陰鬱なプロット」「意味のない掛け合い」「オチのない展開」「青年期の疎外感」などの側面を漫画に持ち込んだ影響も大きい。鬼畜系漫画家として知られる山野一の『四丁目の夕日』は、社会生活で遭遇するさまざまな悲惨さや悪意などに「とことん抑圧」される報われない人物を滑稽さの混じった入念な表現で描いている。
また、ギャグ漫画を描いてきた『行け!稲中卓球部』の古谷実による『ヒミズ』、『でろでろ』などのホラーギャグ漫画家の押切蓮介による『かげろうの日々』『ミスミソウ』、浅野いにおの『おやすみプンプン』、阿部共実による『空が灰色だから』『ちーちゃんはちょっと足りない』など、主人公が報われない展開を描いた非常に後味の悪い結末を迎える異色の作品も存在する。

weblio辞書が参照したwikipedia「鬱漫画」(https://www.weblio.jp/wkpja/content/%E9%AC%B1%E6%BC%AB%E7%94%BB_%E9%AC%B1%E6%BC%AB%E7%94%BB%E3%81%AE%E6%A6%82%E8%A6%812015年2月27日時点)
(weblioは2024.01.04最終閲覧)

 こちらはどうやら2015年時点のwikipediaからの引用であるが、現在wikipediaには「鬱漫画」という頁は存在しない。その代わりに表示されるのは「鬱展開」という語彙である。こちらは、以下のように説明されている。

「主に広義的意味では「陰鬱な物語展開、鬱になる展開」を指し、作品やジャンルの枠を越えて、登場人物が精神崩壊を起こしたり、仲間同士で傷つけあう、理不尽な最期を遂げる、結果、残虐な場面を強調したグロテスクな描写に陥るなどの暗く、救いのない重苦しい雰囲気が作品全体を占めるストーリー展開を指す。
最近の狭義的な意味では恋愛を題材にしたフィクション作品において、キャラクターが失恋や板挟みなどの状況から受けた精神的外傷によって、鬱状態に陥ったり、発狂して異常な行動を示すようなストーリー展開を指す。
インターネットや雑誌などで広まった俗語のため、明確な定義が定まっていない面もある。」

wikipedia 「鬱展開」(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AC%B1%E5%B1%95%E9%96%8B)2024.01.04.最終閲覧

 これらの事例から語彙を定義するのはまだ性急だろう。そのため、ここでは簡単に上記の内容をまとめるにとどめる。

①まず鬱漫画とは、従来の非鬱漫画的展開(明るい、楽しい印象の残る漫画)のカウンターカルチャー(対抗文化)として登場し、それらはより細分化されたオタク文化としてある種”マニア”が愛好するものであった。
 その起こりとして、weblio辞典では1960年代半ば作品(つげ義春作品)が射程として挙げられているが、当時つげ義春作品はエログロ、アングラなどの言葉と結びついており、「鬱漫画」とは呼ばれていなかった。これらのことから、やはり「鬱漫画」という言葉それ自体は、近年新たに登場した(そして過去作はその射程に従って改めて分類し直された)と考えてよいのではないか。
②概念の意味としては、うつ病を連想させるような心理的に重く苦しい「鬱」的状態(混乱を避けるため以下病気としてのうつ病を「うつ」として表記する)に読者を連れていく漫画作品で、しばしば「トラウマ」「異常」「発狂」「理不尽」「救いのない」「グロテスク」「苦(しい)」という語と共に語られる傾向にある。
③また、しばしば鬱漫画は「鬱展開」と併せて語られる、あるいは部分的な鬱漫画という意味での、ある種の近似概念として用いられている傾向にあるようである。
 なお、wikipedia「鬱展開」の実際の使用例として、尾崎雅之(アニメ「TIGER&BUNNY」を手がける)へのインタビュー記事が参照されている。尾崎氏によると、近年世間では「いわゆる「鬱展開」といわれる、シリーズの途中で意外性を持った悲劇を盛り込むことが(筆者注:アニメで)トレンドになってい」るといい、それがコアなアニメファンへの引きとなると述べている(2012.01.16. まつもとあつしの「メディア維新を行く」第30回より)。
 以上をここでの簡易的な語の定義とし、次回以降に定義をより深く考察したい。

 第二に、そもそも鬱漫画文化の担い手たる読者層は果たして本当に現実に存在するのか?(つまり、筆者(鬱漫画オジサン)が勝手にそう思いたいだけではないか?)という問題である。
 これらの問題はある程度簡単に解決できる。大型検索エンジンの検索数を確認することで、今まさに「生きた」言葉であるかどうかが調べられるわけである。
 試しに、2024年1月4日時点の検索数を確認してみると、Googleでは月間9,680件、Yahoo!Japanでは月間2,420件検索されていることが確認できた(aramakijake.jp)。
 これが月間の検索数であることから、まだまだニッチではあるものの、やはり一定程度の「鬱漫画」支持層は確かにいるとみてよいだろう。

 第三に、語彙の表記の問題がある。鬱漫画は大抵、「鬱漫画」と表記される。「うつ漫画」でも「鬱マンガ」でもないわけである。これについては、二つの推論が可能である。
 一つは、精神的ストレスから起こる心の病であるうつ病の闘病記・自伝、ないしルポ的マンガとの書き分けの問題である。うつ病をテーマとした漫画の多くは、「うつ漫画」と記載されることが多い。特徴としては、しばしばギャグ要素やデフォルメされたかわいらしいイラストを採用することで暗く重いだけの展開にならないような配慮がなされる場合が多い。
 ただ自身の関心にひきつけてみれば、興味深いのは「鬱漫画」と「うつ漫画」が明確に区別されている点である。冷静に考えれば、心的物理的な苦しさがリアルに描かれるうつ漫画は、たとえかわいらしい絵柄であっても間違いなく最もリアルな「鬱々とさせる」マンガである。しかし、鬱漫画では現実世界のルポなどは基本その射程に含められることはほとんどなく、そのため基本的にはある程度のフィクションと結びつく、あるいは結びつきやすい概念であることが前提となっている。
 二つ目に、漢字の持つ特性の問題である。まず一つ目と連動する問題だが、近年病院やクリニックで、うつ病はより平易に「うつ」と記載され、「鬱」という字はほぼ使われない傾向にある。これは、常用漢字でないことや、近年のうつ(あるいは抑うつ)病患者の増加(とそれによる「うつ病」という語の日常化)と無関係ではないだろう。また、これは現時点では言い過ぎであるかもしれないが、現実世界で「うつ」という言葉が流通すればするほど、反対に「鬱」という語がある種のフィクションとして人々に認知されているのかもしれない。もしかしたら、それによって鬱漫画=フィクションという構図が成り立つのではないだろうか。

ここでは、簡単に鬱漫画について「はじめに」考えるべき問題について、いくつかまとめてみた。メモ代わりであるため、今後鬱漫画について考察を深めるうちに、多少変わる部分があるかもしれないが、その点については平にご容赦いただきたい。

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