花寺のどかの決別に何を思うか

花寺のどかとダルイゼンとの出会いは「運命」である。散々オープニングやSNSで見聞きした光景だろう。のどかの選択に衝撃を受けた人も少なからずいたに違いない。しかしのどかがダルイゼンを拒絶し戦うのは避けがたい「運命」だったと考える。
このnoteではヒープリ42話を振り返りつつ、私個人の見解を述べていく。

「なぜ悩んでいるのか」。このラビリンの問いは非常に重要である。
のどかが嫌だと思ったからなのか、はたまたパートナーの使命のためなのか。ラビリンは自らの使命よりものどかの気持ちを大切にしようとしていた。これは2人の今まで築き上げた関係だからこそできることである。そしてそんな献身的なパートナーがいたからこそ、のどかは素直な答えを出せた。
「自分が苦しみたくない」この答えは中学生としてののどかの等身大の正直な気持ちだと思う。そして手を振り払った瞬間は自分のことしか考えられなかったと苦しむ彼女は、優しい子だ。42話でダルイゼンを浄化する前にも、返事こそなかったが、キュアグレースが本来問答無用で倒して良いはずのダルイゼンに「あなたが元気になったら どうするの!? あなたは わたしたちを 地球を 二度と苦しめないの!?」などと問いかけている点にものどかの優しさが滲み出ている。
親や友達に心配をかけるから、という話が出てこなかったのが何というか、本当に精神戦ぽいといえばその通りかもしれない。ただ、42話の中では答えこそ本人の口から語られることはなかったが、「自分さえよければそれでいいの」の答えはここにあると思う。ビョーゲンズに関しては「己の生存」こそがその存在を証明するものになる。ビョーゲンズはビョーゲンズのみでは生み出せない。エレメントさんや人間の力を借りなければ生み出せない。しかし人間はそうではない。とある人間が亡くなったとしても、周りの人々の中でその人間の存在は生き続ける。そもそもが異なるのである。

のどかの口癖、そしてダルイゼンもしばしば口にする「生きてるって感じ」。この2人の言葉は似て非なるものだ。
のどかの「生きてるって感じ」が自らの生の喜びを噛み締めているのに対し、ダルイゼンの「生きてるって感じ」は、生を楽しむものを傍観する立場から見ている。そして楽しむものを苦しませることによって自らが楽しむ。ダルイゼンの行為をあえて例えるならば、虫の退治をするときに虫が苦しみ飛べずにジタバタしている様子を眺めて楽しんでいる感覚に近いと思われる。

ところで、ダルイゼンが花の形のエネルギーを撒き散らす攻撃をしたときに、ふとナイチンゲールのこの言葉が頭をよぎった。
“An angel is the person who fights for the person who anguishes, not the person who scatters a beautiful flower.”

ダルイゼンは42話より前では病原でもあるより、ビョーゲンであると感じていた。人間が病原にかかるかどうかを選べないように、病原はかかる人間を選べない。だからメガビョーゲンやギガビョーゲンは周りにエネルギーを撒き散らす攻撃を行う。ある意味、病原としては「そうあるべき」攻撃をしているのである。一方ダルイゼンはキュアグレースへの執着が強かった。しかし42話でメガパーツを取り込んだことによって、ダルイゼンはビョーゲンより病原に近くなってしまったと考えた。42話で初めはエネルギーを撒き散らす攻撃を行なっていたものの、キュアグレースに助けを求めた後はキュアグレースのみを捉えているような描写が見られた点からもそう考えられる。ダルイゼンが求めていたのは、皮肉にも彼自身が初めに行った攻撃のように、花を撒き散らすような、普段の行いに関わらず誰にでも救済を施すものだったのかもしれない。

42話時点での花寺のどかは「お医者さん」ではなく、病への立ち向かい方を知った「患者さん」だと私は思っている。闘病はどれだけ辛いか、本人も身をもって痛いほど理解している。だから自分のために病原と戦い、ダルイゼンを弱体化させた。自分が生み出したくて生み出したものではないから責任を感じる必要は無い。自分を犠牲にしてまで自分を苦しめるものを救う義理も責任もない。言葉にすると冷たい印象を受ける方も一定数いるかもしれないが、自分を自分として生きるというのどかの生き方には必要な考え方なのだ。

ダルイゼンはビョーゲン。のどかはプリキュアである前に1人間である。ダルイゼンは救うにはあまりにも自分勝手すぎた。しかし【ビョーゲン=病原】と置き換えると、それでなくても人間と病原は本来分かり合えない、分かりあってはいけない存在なのである(広義で捉えると病原は自らの生存のために力をコントロールしている、弱毒化ウイルスがあるじゃないか、など反論されそうだが)。ダルイゼンが上記の通り「ビョーゲンから病原になった」以上、このようになるのは、やはり運命だったとしか言いようがない。

今までのプリキュアは最終決戦前のボスを見て恐れを初めに抱いていることが多かったと思う。しかしキュアグレースは違う。毅然とした態度で立ち向かう。みんなを守るために。今度は「患者さん」としてではなく、「お医者さん」として立ち向かっていく(fight for the person who anguishes)のだろう。
再びナイチンゲールの言葉から引用するが、
“How very can be done under the spirit of fear. “
そう、恐れてばかりいてはネオキングビョーゲンを倒すことは叶わないだろう。
「ヒーリングっど♡プリキュア」の放送も残りも僅か。これからどのような物語が彼女たちを待っているのか、私自身も楽しみにしている。


このような考察文を長々と書くのは初めてだったので、至らない点はいくつもあるかと思われます。もし何かこの文に問題点があった場合、優しくご指摘いただけると幸いです。戯言にお付き合いいただきありがとうございました。

※この文章は42話終了時、43話放映前に書かれたものです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?