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都バスで故郷を懐かしむ。

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【おことわり】内容は掲載当時(2012年1月)のものであり、文中の交通機関の運用状況などが現在とは異なる場合があります。実際に現地に行かれる際には、事前に最新情報をお調べになることをお勧めします。

 故郷を懐かしむことのできる都営バスがある。ただしそのバスの運行は年に数日のみ。
 国展08系統。東京駅と東京ビッグサイトを結ぶ臨時系統である。始終点が同じ都営バス(別経路で各駅停車)は他にもあるが、国展08系統は運行日が限定されるという点、また、始発停留所を出ると終点まで停車しない直行バスであるという点で、特殊である。
 どのような時にこのバスを見ることができるのか。答えは、東京ビッグサイトで大規模なイベントが開催される日である。
 その中でも最も有名なのは、8月のお盆の時期と12月末に開催される世界最大級の同人誌即売会。最近では季節の話題として、ニュース番組などで取り上げられるので、ご存知の方も多いのではないだろうか。
 実はこのイベントの日以外にも国展08系統が運転されることはあるのだが、知名度や規模の大きさから「盆暮れといえば国展08系統」という印象が定着している。同人誌即売会と聞くと、アニメの登場人物の衣装に扮した若者を連想する。しかし所定の場所以外での扮装は禁止となっているため、バスの車内で彼らを見ることはない。個人的には残念である。
 国展08系統の朝は早い。たいていの場合、6時台から東京駅には多くの都営バスが待機している。早朝にもかかわらず、乗り場には長蛇の列ができ、次々とバスが発車していく光景は壮観である。
 イベントの開始は10時過ぎであるのに、早朝から会場を目指すのは、在庫限りの限定品を買うために並ぶ必要があるからだとか。都営バス以外にも近隣駅から会場へ向かう方法は用意されているのだが、多客期に複数の交通機関が存在することで需要の分散化が図られ、結果的に輸送の安全が保たれる。自分が言うのも変だが、国展08系統はその役割をしっかりと担っている頼もしいバスなのだ。
 さて、「故郷を懐かしむ」という主題に話を戻そう。なぜ、国展08系統に乗ると故郷を懐かしむことができるのか。これは、実際に乗車すればすぐに分かる。東京駅を出発したバスは、ビルに囲まれた鍛冶橋通りをさっそうと走る。
 運転席横まで人、人、人……そんな満員の車内で繰り広げられるお客様の会話に耳を傾けると、通常の都営バスとは様子が異なることに気づく。
「……やね」「……ちゃ」「……じゃけ」。そう、東京のバスにして、日本全国津々浦々のお国言葉が飛び交っているのである。大規模なイベントならではの現象だが、初めてこのバスを運転した時、私は本当に驚いてしまった。
 バスは新大橋通りに出て入船橋交差点を左折、佃大橋と朝潮大橋を渡り、晴海方向へ進む。
「あ、トリトン。なぁづかしいねえ」。運転席の真後ろから、普段耳慣れない発音が聞こえる。トリトンとは晴海にある商業施設の略称。“なぁづかしい”もとい“懐かしい”という言葉は、東京に長く住む人間が帰省した時などに発するだけではない……理論的には当然のことなのだが、何か磁場が狂った空間を歩くような不思議な感覚を覚えてしまう。
 バスは様々な地方の言葉を運びながら晴海大橋・有明中央橋を渡り、終点へ(そういえば鍛冶橋から始まり、「橋」のつく地名だらけだ。スーツ姿の人々が行き交うオフィス街から、未来都市のような東京ビッグサイトまでの変化に富んだ道のりに、多くの橋が待ち構えている。橋を、節目節目に訪れる喜びや乗り越えるべき課題と読み替えれば、まるで我々の人生のようである)。
 故郷以外の場所にわざわざ故郷の言葉を聞きに行くという行為について、かつて石川啄木はこのように詠んだ。
 「ふるさとの訛りなつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく」
 日々の生活に追われ、なかなか帰省ができない方々へ……懐かしい言葉を聞くために国展08系統に乗車してみてはいかがだろう。ただし冒頭にも書いたように、運転日が限定されている上、必ずしも自分の故郷の言葉が聞けるわけではないので、留意されたし。

都政新報 2012年1月13日付 都政新報社の許可を得て掲載