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魅知と桜と都営バス、と後日談

<空想路線 本郷桜並木と元都営バス(釜石市)>
 東日本大震災の翌年、2012年4月3日号の都政新報に掲載されたエッセイを、都政新報社の許可を得て転載しています。「空想路線」とある通り、イラストの場所に実際にはバスは来ません。
 その後、エッセイを通じてバスの運行会社(岩手県交通)が粋な計らいをして下さいましたので、後日談も追記しました。長いですが最後までお読みいただけると幸いに存じます。なお業務の妨げとなる恐れがあるため、この件に関しまして岩手県交通様へお問い合わせをすることはお控え願います。

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魅知と桜と都営バス

 昨年(※2011年)秋、バス愛好家団体「日本バス友の会」東北支部の主催による震災復興ツアーに参加してきた。震災で大きな被害を受けた宮城県のバス会社の売り上げに微力ながら貢献しつつ、震災当日の状況についてのお話を伺い、地域の復興の担い手としてのバスについて考えを深めるという内容であった。
 仙台駅を出発した貸し切りバスは、市内にある営業所の車庫に到着。そこには、我々が見慣れたアイボリーと緑色の「ナックルライン」と呼ばれる旧カラーのツーステップバスがあった。2011年度に除籍の予定だった都営バス62台を被災地のバス会社に無償譲渡することが決まったという話題は記憶に新しいが、実際の車両を間近で見ると実感が湧く。
 同社では原則として、譲渡された車両を自社の配色に塗り替えるとのことなので、私が見たのは東京から到着したばかりの車両とみられる。あれから数カ月、今頃転校生は新しい制服にも慣れ、宮城県内を元気に走っていることだろう。
 石巻市内のバス会社では、従業員の方々の貴重な話を聞くことができた。同社では人的被害はなく、地震直後にバスを高台に移動したため、バスへの被害も少なかった。当日、女川町で乗務していた運転手はバスごと高台に避難したが、逃げまどう船が一瞬にして津波にさらわれた現実を目にし、衝撃を受けたという。
 水と食料が不足し、1週間風呂にも入れず、それでも「道路があるのだから車を走らせなければ」という使命感から同僚とともに会社に泊まり込み、バスの運行を守った。そうするより他にない状況だったのかもしれないが、何とも頼もしく、すてきな話だと思った。
 都営バスつながりで、2月には個人的に岩手県釜石市のバス会社を訪問した。同社にはナックルラインに黄色が加わった現行カラーの都営バスが譲渡されたと聞いており、しかも都営時代の配色を保ったまま運用に就いているとのこと。
 しかし、入るべき路線の停留所には、待てども来ない。それもそのはず。後で分かったことだが、このバスは車高が低いため雪道に弱く、冬季は休ませていたのだった。営業所のご厚意で車庫に冬眠する元都営バスを見せてもらった。何だか「桜の季節に乗りに来てよ」と彼に言われているような気がして、今回のイラストの案が浮かんだ。
 場所は、釜石市の桜の名所、本郷桜並木。約80年前、三陸大津波の復興への思いと現天皇陛下(※執筆時点では現天皇陛下となっているが、2019年5月1日より上皇陛下)のご生誕に合わせて植樹されたソメイヨシノである。この800メートルにわたる桜並木を駆け抜けるバス路線は実在しないのだが、東北の桜と元都営バスをどうしても描きたくて、想像を加えて描いてみた。
 間もなく、東北にも遅い春がやってくる。折しも、復興を目指し東北6県全域を博覧会会場と見立てた東北観光博が、来年3月末までの会期で始まっている。東北地方、みちのくを「魅知の国」と表現することがあるが、知れば知るほど魅力的な東北地方への旅。旅先でふと乗車したそのバスは、ひょっとすると元都営バスかも知れない。
 最後に余談。このイラスト、「春」の字に見えてきませんか?四角い車体が「日」の部分。ふわりと桜がかぶさって……季節の漢字の出来上がり。
新聞にはモノクロで掲載されましたが、原画はカラーです。原画はこちら。

(後日談)空想路線を実写化!岩手県交通の粋な計らい

 2月に岩手県交通株式会社釜石営業所を訪ねた。不定期で執筆している都政新報のイラストエッセイで、東京都交通局から東日本大震災の被災地へ無償譲渡された都営バス車両について取り上げようと考えていたからである。文章については宮城県(宮城交通およびミヤコーバス)と岩手県(岩手県交通)のバス事業者に関する内容を、そしてイラストは岩手県交通に渡った都営バスを描くという構成。当初は営業所に極力迷惑がかからないよう、停留所に停車中の車両を撮影し、その写真をもとにイラスト化する予定であった。しかし当該車両の構造上冬季の運行は困難との情報を得て、当日アポなしで営業所を訪れることになった。突然の訪問であったにもかかわらず職員の皆さんは大変親切に応対してくださり、おかげ様で4月3日付の紙面「魅知と桜と都営バス」に掲載するイラストを完成させることができた。
 4月下旬、再び釜石に足を運んだ。取材のお礼を兼ね、掲載紙を営業所まで届けに行くためである。2月の時とは異なり、さすがにアポを取った。日程の調整をしてくださった岩手県交通本社総務課のNさんには心から感謝している。釜石営業所では曽根保所長に掲載紙と、イラストを印刷した絵はがきを直接お渡しすることができた。

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 営業所訪問の後、ありがたいことに、曽根所長運転の社用車にて、イラストに登場する釜石市唐丹(とうに)町の本郷桜並木や津波被害の大きかった沿岸部などを案内していただいた。東北の春は遅い。ゴールデンウィーク間近にして桜並木はまだつぼみの段階であったが、そのこと自体は想定内で、あまり驚きはなかった。

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 それよりも、桜並木の延長上には見通しの良い広野、いや荒野が広がっており、この場所にはかつて集落があったが3月11日の津波ですべてさらわれてしまったのだ、という話を聞き、大きな衝撃を受けた。漁協の作業場は屋根が吹き飛ばされ、防波堤も十分な役を果たせず、海沿いの小学校は骨組みだけになっていた。

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 曽根所長自身も被災し、震災から3週間は営業所に泊り込んで陣頭指揮を執られたとのこと。想像を絶する労苦を強靭な精神力で乗り越えてこられたのだろう。私自身に置き換え、もしも同じ体験をしたなら果たして正常心を保ち続けることができるだろうかと自問すると、自信はない。自分のような青二才が言うのはおこがましいが、曽根所長のお話からは、交通インフラとしての矜持から震災初期より迅速に動き、また現在進行形で地域の復興に真摯に取り組む様子がじかに伝わってきた。
 記事で取り上げた元都営バス車両は、春の訪問時にも偶然車庫内に収納されていた。2月と異なるのは、仲間が増えていたこと。東京では見慣れたカラーの彼らに「頑張れよ!」と一声かけ、私は営業所を後にした。
 5月になり、私宛に一通の封書が届いた。差出人は岩手県交通株式会社釜石営業所。開封すると……都政新報のエッセイで取り上げた「本郷桜並木と元都営バス」を実際のアングルで撮影した写真が3枚入っていた。しかし、あのイラストは、実際の風景と車両写真を参考にしたとはいえ、あくまでも私の空想から生まれたものである。本郷桜並木を通り抜けるバス路線は実在しないし、そもそも、本郷桜並木が普通乗用車同士のすれ違いすら難しいような狭い道路であることは、現地を訪れた私自身がよく知っている。
 写真には、事務職員の方の代筆で、手紙が添えられていた。
「頂きました絵葉書を参考に致しまして、所長の曽根が写真を撮って参りましたので、送付いたします」

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 事情を理解し、じわじわと涙腺がゆるむのを抑えることができなかった。写真を見て涙を流すのは何十年ぶりだろうか。私の書いた記事を見た曽根所長が、桜の開花に合わせて自ら「元都営バス」のハンドルを握り、普段はバスの通らない桜並木まで移動させ、奇跡の映像を残してくださったのだ。しかも、釜石営業所から現地までは、路線バスで30分近くの距離がある。曽根所長は路線バス・高速バス運転士として長年のキャリアを持ち、現在でも人出が足りない時には高速バス車両を東京まで回送運転することがあるという。とはいえ、それだけの手間をかけてまで「空想路線」を実写化してくださるなど、もちろん夢にも思っていなかった。サプライズという言葉がぴったりくる。ただただ恐縮し、感謝するしかなかった。
 写真が届いた翌日、釜石営業所の曽根所長にお礼の電話をした。
「宇津井さんが記事にしてくださったから、ウチでも何かしようということになってね」
「ありがとうございます。本当に驚きました!」
「なーんも。喜んでくれたら嬉しい」
 何ともない、たいしたことではない。……あの震災で公私ともに翻弄され、想像を絶する数ヶ月を過ごしたであろうに。そして現在も復興に向けて歩み続けている人物が、電話の向こう側で「なーんも」という言葉を発している。3月11日を東京で過ごし、被害らしい被害を受けていない私の方が、逆に励まされた。人の温かさが心に染み入るとは、まさにこのことだと思った。
 長文になり、また途中で個人的な感情が入り読みにくくなっているかもしれないが、「魅知と桜と都営バス」の後日談を少しでも多くの方に伝えたい一心でこの文章を書いた。曽根所長をはじめ岩手県交通釜石営業所の皆さん、所長との面会スケジュールの調整をしてくださった本社総務課のNさんほか、関わりを持ってくださった社員の皆さん、そして拙文を読んでくださったすべての読者に、今は心から感謝の念を送りたい気持ちで一杯だ。