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新たな環境で金色のあひるを見つけた話【東京のりもの散歩~いちょうマークの車窓から30】

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 都バスの上01(旧学01)系統は東大構内から上野広小路を経由して上野駅に近い上野公園山下へ向かい、東大構内まで戻る系統である。現在の経路になったのは2019年4月からで、それまではJRの線路をはさんだ逆側の浅草口に停車する路線だった。浅草口の旧停留所は一方通行の道路沿いにあり、大通りへ出るまでは駐車車両の脇から飛び出す自転車と歩行者に注意しながらゆっくりとバスを走らせる必要があった。
 現在の上野公園山下停留所は幅員の広い中央通り沿いにある。道路が広い分自転車と歩行者の飛び出しは少ないが、自動車の通行量は多く、発車時には狭隘路とはまた別の慎重な判断が求められる。同じ路線でも経路が変われば走行環境も変わるのである。
 環境が変わると言えば、上野公園山下に停車するようになって以来気になっていた存在があった。お客様をお乗せする間、視線の先に「金色の何か」が見えるのである。バスを降りて確認するわけにもいかず、気になり続けたまま数年の年月が過ぎていた。
 「金色の何か」とは一体何なのか。ある時、意を決して(大げさだが)休日にこの地を訪れてみた。「金色の何か」の正体はあひるのモニュメントで、「川柳の原点  風柳多留発祥の地」の記念碑であった。江戸時代、「前句付け」という遊戯的な俳諧が流行した。これは点者(選者)が五七五七七の七七の部分(前句)のお題を出し、応募者は入花料(応募代金)を添えて五七五(付け句)を送り、優秀作は本に掲載されて賞品が出るという仕組みであった。人気点者であった柄井川柳の選んだ句を雑俳作者の呉陵軒可有(ごりょうけんかゆう)が付け句のみの本として編集したものが『誹風柳多留』で、1765(明和2)年に初めて刊行された。この本の反響により川柳という分野が独立した文学として確立し、『誹風柳多留』は2人の死後も長期に渡り続刊されたという。
 誹風柳多留刊行250年を祝して建立された金色のあひるの記念碑。あひるが乗った祝杯用の柳樽は柳多留の洒落でもあり、「羽のあるいいわけほどはあひるとぶ」と記されている。編者の呉陵軒可有の句だが、飛べないあひるも飛ぶのではと思えるような句である。
 話が脱線したが、環境が変わると新しい発見があるという話をしたかったのだった。春から環境の変わった人にも変わらない人にも、素敵な日々が訪れますよう。

都政新報 2022年4月5日付 都政新報社の許可を得て掲載
【参考資料】
・誹風柳多留 7篇 校注:西原 亮 現代教養文庫 社会思想社(1987)