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山寺は私の原点だった

 1992年3月、私は東京都港区の日赤会館にいた。教育関連の財団法人が主催する「手づくりの絵はがきコンクール」の表彰式に参加するためである。当時のほとんどの家庭に普及していた簡易印刷機による絵はがきを中心とした7千点以上の応募作品の中から、私の「山寺駅」は郵政大臣賞に選ばれた。郵政大臣賞の受賞者は全体で5名、高校生部門では1名という狭き門だった。郵政大臣という呼称に懐かしさを覚えるほどに時間は流れ、今や過去の栄光と笑われるような色あせた出来事になってしまったが、私にとっては間違いなく、この受賞が人生の大きな転機のひとつとなっている。
 国鉄が民営化されて数年後の91年。父方の祖父の7回忌のため秋田を訪れた。その帰り道、私は父とともに仙山線の山寺駅に立ち寄ったのだが、同じ東北とはいえ、気まぐれに寄り道するほど秋田から近くはない。この時は一世一代のお願いという熱量で事前に父に頼み込み、何とか山寺行きが実現したのだった。

山寺駅 1992年に郵政大臣賞を受賞した実際の作品

 私が山寺駅行きを切望したきっかけは、小学生時代に藤子・F・不二雄氏の『山寺グラフィティ』という作品に出会ったことだった。藤子氏と言えば『ドラえもん』で知られる国民的漫画家だが、心の琴線に触れるようなSFの名作も数多く世に送り出している。私が小学校高学年の頃には毎週のように藤子氏の新刊が発売され、学校から帰宅後、藤子氏のSF短編集を読みふける時間が楽しみで仕方なかった。当時は藤子不二雄という合作ペンネームを使用しており、相方の藤子不二雄Ⓐ氏との区別がつかなかったが、のちにコンビの解消が発表され、『山寺グラフィティ』の作者だと知った。
 『山寺グラフィティ』の冒頭、イラストレーターの卵である主人公が帰郷する場面で、山寺駅が登場する。宝珠山立石寺、通称山寺の玄関口……と書いてもピンと来ないかもしれないが、松尾芭蕉が「閑さや岩にしみ入る蝉の声」の句を詠んだ寺と聞けば、イメージが湧くのではなかろうか。寺院風の駅舎は、何度か改装しているものの、昭和初期の開業当時の建物が基礎となっている。つまりレトロ風ではなく、本物のレトロ。

三重小塔には格子状の扉があり、普段は閉じていますが、扉を省略し、塔がよく見えるように描いております。

 昨年、久しぶりに山寺駅を訪れた。高校生時代に描いた駅舎の雰囲気はほぼ変わっておらず、故郷に戻って来たような懐かしさを覚えた。駅を出て、登山口の看板を目指して石段を登り、芭蕉と曽良の横を通り過ぎ、山門をくぐる。奇岩怪石に囲まれながら、さらに800段の石段を登ると、頂上の奥之院。ここまで来ればなかなかの運動量で、いい汗をかく。奥之院の付近には、岩壁をくり抜いたお堂の中に高さ2.5メートルの三重小塔があり、塔の内部を見ることはできないが、大日如来像が安置されている。『山寺グラフィティ』には、山寺がいわゆる霊場として広く知られ、死者の魂が還る場所であるという信仰に基づいて話が進む。霊場と聞くと怪談のように思えるが、死者の人生に思いを寄せ、尊重するという優しい話である。機会があれば、読んでほしい。 
 話が長くなったが、小学生時代に藤子氏の作品で山寺駅の姿に感銘を受け、高校生になり実際に描いた作品で賞を受賞したことで、今も細々と制作活動を続けているというわけである。皆様とこの紙面でお会いできるのも、山寺が縁だと思うと不思議である。

都政新報 2023年1月10日付 都政新報社の許可を得て掲載
【参考資料】
・全国の伝承 江戸時代 人づくり風土記 聞き書きによる知恵シリーズ
(6)ふるさとの人と知恵 山形 財団法人 農山漁村文化協会(1991)
・第15回「手づくりの絵はがき」コンクール実施報告書 財団法人 理想教育財団(1992)
・藤子・F・不二雄 少年SF短編集=2より『山寺グラフィティ』小学館(1996)※初出 週刊少年サンデー(1979)
・<北大文学研究科ライブラリ 3>死者の結婚ー祖先崇拝とシャーマニズム 櫻井義秀 北海道大学出版会(2010)

「東京のりもの散歩~いちょうマークの車窓から」を隔月で連載中の二坂氏に新年にあたり、氏と絵との出会いを執筆してもらった。(編集部)

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