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ケーキの切れない非行少年たちを読んで

『ケーキの切れない非行少年たち』は、発達にかかわる心理職、支援職、保護者が相次いで感想をSNSに投稿するなどして人気が広がった2019年に最も売れた新書です。

まず、表紙裏が一般の保護者には衝撃的。支援職や専門職は、この領域について既視感あると表現していますが、今の学校教育や心理職、児童精神医、小児科医の多くが傍観したまま見捨ててきた領域だということは、皆さんに自覚していただきたいです。
だからこそ、この新書がこれほどまでに注目されているのでしょう。

「反省以前の子ども」が沢山いるという事実。
認知力が弱くケーキを等分に分けることすら出ない子どもが少年院には大勢いる。
問題の深刻さは、普通の学校でも同じなのだ。人口の数%はいるとされる「境界知能」の子どもたち。

支援業界も教員も支援の狭間の子どもたちが排除されることを傍観し、見捨ててきました。

多くの心理職はこの領域を病識がない、または困難ケースとして、担当を回避してきています。
児童精神科医も通院しない限り、積極的に関わる機会もないでしょう。
学校の教育機関では通常級に特性に気付かれないまま一定数存在するこの領域の子どもを吊るしあげ、排除するケースも多いでしょう。
保護者だけが頑張るしかなくて、大変になってしまったあらゆる悲惨なケースが集中する領域。

つまり、支援職や専門職にまでも見捨てられ、
家庭に自己責任を押し付けられてきた領域だということを支援職、医師、教員の皆さんは、自覚して頂きたいのです。
あなた方が見捨ててきた領域だと。

ですからTwitterでこの新書をめぐり認知の定義が支援職の間で盛り上がっていますが、支援職の多くがこの領域の子どもたちを見捨ててきておいて、専門用語の使い方でマウントを取り合っているのは、無責任甚だしいです。

多くの認知行動療法を専門とするの支援職はコグトレへの違和感という先入観でこの新書を「認知」しているという現象があります。
言葉の定義づけでこの話に乗っかりたいアフィリエイト心理職まで出てきました。
この新書に関して描写の話に拘る人たちもいるます。このあたりまでは、Twitter TLに流れてきた印象でご存知な方も多いです。

p6
認知行動療法は
「認知機能という能力に問題がないこと」を前提に考えられた手法です。
認知機能に問題がある場合、効果がはっきりとは証明されていないのです。
中略
実際に現場で困っているのは、(認知機能に問題がある)そういった子どもたちです。
引用終わり

Twitterではアフィリエイトに熱心な心理職たちが認知行動療法とこの子どもたちをトレーニングする認知機能訓練は認知の意味が違うと主張し、自身のブログに誘導していますが、言葉の定義に拘り、現実にこの領域の子どもたちへの支援を回避する心理職がとても多いことは残念です。

この新書をコグトレ派の宣伝と切り捨てる専門職は視覚認知に限定して指摘していますが、宮口医師の指摘は、視覚認知の問題だけではありません。

p24
見る力、聞く力、見えないものを想像する力が弱く話を聞き間違えたり、周りの状況が読めなくて対人関係で失敗したり、いじめに遭ったりしていたのです。
p26
小5年で勉強が面白いと感じていた子も中学で急降下します。
支援がうまくいかなかった子の行き着くところが少年院。教育の敗北でもあるのです。

これを読んで、私は、政治の敗北だと感じました。この新書では特別支援教育士に注目されていないと指摘する声もありますが、実際には、教員である特別支援教育士がこの領域を救えて来なかった、向き合えていないのが今の学校教育の現場なんです。圧倒的に人的にも質的にもリソースが足りないのです。

事例紹介と認知機能訓練の紹介の中で筆者は、この子どもたちは支援教育を受けていれば救えたと書いています。しかし現在行われている支援教育は、この領域の子どもたちを救えるようなリソースがほとんどないと、私は現場に接する立場から声を上げていきたいです。

では、どうこの新書を扱うかですが、
現状では各家庭の自助努力と児童発達支援の業者が売り物にするしかないでしょう。
それで良いのでしょうか。

コグトレ 認知機能訓練は、児童発達支援業界にとって、商機。資料を読めば、親が指導出来る内容です。実際に受験産業では、随分前から認知機能訓練を導入しています。

認知機能訓練で子どもが自身の身の回りで起こることについて理解しやすさや柔軟さの幅を広げていくこと、認知の歪みによる他者への暴力行為を立ち止まらせることができ、本人が少しでも生きやすくなると筆者は説いています。

しかしながら、認知機能訓練がすべての子どもに適応するという追試はありません。

私は仕事の上でこの領域の子どもたちに日々接していて、私自身の子どもたちもこの領域にいることで、認知機能訓練は私の日常の中にあります。そこで強く感じたのは、すべての子どもたちにとって認知行動療法も認知機能訓練も適応でない子どもが存在するということ、また、認知機能訓練が必要な子は、すべからく訓練すべきなのか、ありのままでは生きてはいけないのかという疑問です。

この本でその視点は扱われていないのですが、丁寧に考えなければならないのではないでしょうか。

私はむしろ、この視点を社会に問いたいのです。

この子たちを排除したり追い詰めるような教育や政治や社会でなければ、この子たちは、自己肯定感をむやみやたらに傷つけられず、
犯罪に走らなかったはずです。

筆者は教育の敗北と論じていますが、
私はこの新書を読んで、日本の政治の敗北を
強く感じました。

私は、この領域の子どもたちが今の日本で少しでも希望がもてるように、出来ることをしていきたい。

今回この領域の子どもたちについての教育方法が注目を浴びたことで認知機能訓練が普及するという流れが予測されていますが、普及にあたっては、合理的配慮が同時に必要です。認知機能訓練が生産性の問題に絡められたり、訓練の強要につながらないよう注視していくのが、私たち大人の役目だと考えました。

追記
noteに感想をまとめてから、たくさんの反応をありがとうございます。
この新書が出てから短い期間に
発達障害にかかわりがある当事者、保護者、支援職、専門職だけでなく、多くの人にこの新書の衝撃が広がっています。

特にTwitterでは、心理職を中心に認知の定義、保護者の間ではコグトレの話題で持ちきり。

しかしながら、私は、著者の裏の主張は、「これまで私達支援職は、この領域の子どもたちを見捨ててきたんです」という、悔恨と告発の書であると考えています。

筆者は教育の敗北としていますが、私は支援の狭間の子どもがうみだされたのは、「政治の敗北」だと書きました。

これは、支援の狭間で苦しむ子どもや学校の息苦しさの犠牲になっている不登校の子どもや保護者ならすぐ理解していただけると思いますが、一般の人にはなかなかそのつながりがイメージしにくいかもしれません。

支援の狭間の子どもたちに今、私たちになにが出来るか考えてみましょう。

まずは、学校への働きかけが手っ取り早いのですが、個々の学校は校長判断ですぐに変わってしまう。

そこで、区政・市政に参画して、都道府県に働きかけ、自分たちの街からでも少しずつでもいいから、すべての学校に合理的配慮を導入し、「ひとりも見捨てない教育現場」を実現するように行動するのが、第一歩になるのではないでしょうか。

そして最終的には、国の学校制度そのものが見直され、減らされ続けた教育予算が復活するよう、声を上げていくことが必要です。

教育の敗北、政治の敗北の犠牲者である支援の狭間の子どもたちを生み出さないことが
認知の定義談義やアプローチの限界をあげつらうより、今私たちに大切で必要なことだと考えています。

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