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森 千香子『ブルックリン化する世界』「あとがき」より

きっかけは一本の電話だった。

2014年10月、当時勤めていた一橋大学の後藤玲子さんから、日本学術振興会の頭脳循環プロジェクトの一環で1年間米国プリンストン大学に行ってもらえないかと連絡を受けた。

大学院生の頃からフランス郊外の研究をしてきた私にとって、欧州の他国は研究交流や比較調査などで馴染みがあったが、米国は個人旅行で行く以外には縁がなかった。それだけに米国行きの提案はまったくの想定外だった。だが不安より好奇心が優り、即座に「行きます」と答えた。

こうして1年後の2015年10月、プリンストン大学の移民開発研究所で研究を開始した。当初の研究計画は、それまでパリ郊外で行ってきた公営住宅と人種差別の問題をニューヨークと比較する内容だった。

大学付近の教員向け住居ではなく、公営住宅の調査をしやすいニューヨークに居を構え、そこから大学に通うことに決めたが、現地で家探しを始めて愕然とした。聞いてはいたものの、ニューヨークの住宅事情の厳しさに直面したのである。とにかく高い、また高い家賃を払っても建物や環境などの条件が悪い。手数料や契約にも多額の費用がかかる。

マンハッタンを離れ、ブルックリンにある古い建物のエレベーターなし4階のアパートをなんとか見つけた。ほっとしたのも束の間、本当に大変だったのはここからだった。

築100年を超える建物はメンテナンス状態が悪く、ベッドのような一定の重みのある家具でも1週間もすると場所がずれるほど床が傾いていた。配管も相当いたんでいて、入居当日にトイレから汚物が溢れ出すという「洗礼」を受けた。小動物の被害も絶えず、朝はネズミが配線をかじる音で目覚めるほどだった。管理会社に再三苦情を申し立てても、なかなか対応してもらえない。とんでもないところに入居してしまった――私のニューヨーク生活はバラ色ではなくネズミ色で始まったのである。

だが一連の困難は思いがけない利点ももたらした。劣悪な居住環境や管理会社の対応に関する悩みが、同じ建物の住民たちと会話し、知り合う契機となったのだ。かなり異なる背景をもつ人たちが同じ建物に住んでいることを知り、しかしそれぞれが居住に関して多くの不満や問題を抱えていた。こうしたなか、住まいに関するトラブルは他の住民と接点をもつきっかけとなったのだ。

なかでも同じ階に住むダイアンとは親しくなった。管理会社の対応について相談を持ちかけたところ「彼らはいつもそうなの」と共感を示し、助言をくれた。ネズミ対策でも手を借してくれ、小柄な彼女の背中が大きく見えた。次第に意気投合し、お互いの部屋を行き来するほど親しく付き合うようになった。

スコットランド生まれで、大学進学を機にニューヨークにわたった彼女はコメディ番組の脚本制作を生業とし、ユーモアに溢れ、自転車をこよなく愛し、毎朝出勤前に1時間プロスペクト公園でサイクリングに興じていた。25年以上この建物に住み続けていて、地区の事情や変化にもくわしかった。 

このような住民との出会いを通して、自分の建物で起きている問題が近隣の多くの建物で起きていることを知った。また、日常の些細なやりとりを通して、問題の背後には地域レベルで進行するジェントリフィケーションの圧力があることを理解するようになった。

それまでジェントリフィケーションというと住民の立ち退きが起こるというような単純なイメージを想起していたが、「ジェントリフィケーションのなかで暮らす」人たちの日常を発見した。より詳しく知りたいと思い、ジェントリフィケーション問題にかかわる団体や個人と次々に連絡を取った。

こうした経験を通して、研究関心も変化していった。当初の研究計画を見直し、ジェントリフィケーションと日常をテーマに調査を開始した。

このように本書は最初から緻密に計画された研究ではなく、偶然の連鎖のなかで生まれた。だが同時にこの研究は、過去の経験や記憶を呼び覚ますものでもあった。

ひとつめは、パリ郊外で観察してきた、異なる出自の住民たちの共生と排除をめぐる経験だった。前著『排除と抵抗の郊外』(2016年)では旧植民地出身の移民が集住する団地の街で、反ゲットー対策の名の下に行われた再開発事業が、どのような住民コミュニティの再編を招き、新旧住民の日常に影響を及ぼしているのかを論じた。ジェントリフィケーション下のブルックリンで、人種や階級の異なる住民がさまざまな違いを抱えつつも同じ課題に直面しながら、ともに暮らす過程を考察するうえで、パリ郊外での経験や記憶は重要な参照項として大いに役立った。これまで日本とフランスの間で研究を行ってきたが、そこに米国という軸が加わり、三つの関係のなかで考えられるようになったことは、まだまだ極めて未熟ながら、自分の研究の幅を広げることにつながった。今後も大切にしていきたい。

もうひとつは、生まれ育った東京・表参道にかかわる記憶である。小学生だった1980年代の都心は「地上げ」が横行していた。同級生が次々と郊外に転居し、取り壊された家の跡地にマンションやビルが建って、空は次第に狭くなっていった。昔ながらの商店が閉店する一方、地元住民には手の届かないような高級オーガニック食品店が開業した。

だが一番印象に残っているのは「この土地家屋は絶対に売りません」という立札だ。1980年代初頭の表参道にはまだ小さな木造家屋も多かったが、バブル期に差し掛かる頃、それらは地上げの標的となった。住民の中には地上げに抵抗し、前述の立札を家の周りに張り巡らせる者もいた。このような立札に囲まれた小さな家屋がビルやマンションの狭間にあるのが地元の原風景だった。

立札は時とともに消えた。最後に残された家も1980年代半ばには消失した。地元の景観が様変わりするなか、私は同じ場所に住み続けながらも、もはや同じ場所だと感じることができなくなった。いわばその場にいながら地元を失う感覚を抱いてきた。

そのような過去の記憶が、ブルックリンで住民の日常の闘いを見ていくうちに呼び覚まされた。そして自分の生まれ育った環境とは大きく異なる土地で、似たような境遇に置かれる人たちの姿に共感を覚えた。

もっとも1980年代の東京都心の地上げは厳密にはジェントリフィケーションとはいえないとの議論が日本の研究者の間で行われてきたのも事実だ(たとえば、2016年都市社会学会大会シンポジウム)。しかし当時の地元住民が直面していたさまざまな課題が、2010年代のブルックリンの旧住民が経験していた問題と大きく重なっていたことも忘れてはならないだろう。

その点で、本書が論じる「ブルックリン化」とはブルックリンに限定される話ではなく、世界の多くの都市やそれ以外の地域でも進行している問題といえるだろう。1章でも見たように不動産市場のグローバル化が加速するなか、本書で取り組んだ問題は普遍的な問題なのである。

2020年代の日本でも、ジェントリフィケーションが地域コミュニティや住民に及ぼす影響は顕在化している。東京都心ではバブル期に横行したような地上げが再燃し、問題化していることが「令和の地上げ」として複数のメディアによって報じられてきた。2023年4月3日の「クローズアップ現代」では都心の雑居ビルの借家人や、都内の住宅地で借地した土地に家を建てて居住していた高齢者に対して、不動産業者が執拗な嫌がらせを行って立ち退きを迫るといったトラブルが増加していることが紹介された。

私が2019年から住んでいる京都でも同じようなことが起きている。「観光公害」が指摘されてきたこの都市では、住宅を宿泊施設にするための「地上げ」が横行していることが報じられてきた。2018年「京都新聞」に掲載された記事でも、家の売却を求める不動産会社からのチラシが住民宅に殺到していることが紹介されたが(「京都市観光公害ルポ」20 1 8 年6月8日付)、このことは本書3章3節の内容と大きく重なるものである。

また宿泊施設に加えて、国内外の富裕層向けのセカンドハウスも増大するなか、マンション分譲平均価格が5500万を超えるなど市内の地価高騰が著しく進み、住民が家を買ったり借りたりすることが困難になっている。市の職員でさえ3割強市外に流出し、人口流出が国内1位を記録した(京都新聞2022年8月28日付)。

その一方、日本最古の公立植物園である京都府立植物園の面積を縮小し、巨大アリーナを建設する再開発計画や、景観保護のために規制されていた高さ規制を一部のエリアで緩和する方針といった行政の都市計画に対して、住民による反対運動が起きてきた。こうした一連の現象は「ジェントリフィケーション」や「地上げ」という単語の使用法という学問的な議論を超えて、本書でとりあげたブルックリンの事例と共通の問題が進行していることを示唆する。本書がこのような日本の現在を考える手がかりとして読まれることを願っている。

森千香子(もり・ちかこ):1972年生まれ。フランス社会科学高等研究院博士課程修了。南山大学外国語学部准教授、一橋大学大学院法学研究科、同社会学研究科准教授、プリンストン大学移民開発研究所客員研究員等を経て、現在は同志社大学社会学部教授、同志社大学都市共生研究センター(MICCS)センター長。博士(社会学)。
主要著作にロイック・ヴァカン『貧困という監獄』(共訳、新曜社、2008)、『国境政策のパラドクス』(共編、勁草書房、2014年)、『排外主義を問いなおす』(共編、勁草書房、2015年)、『排除と抵抗の郊外』(東京大学出版会、2016年、大佛次郎論壇賞、渋沢・クローデル賞特別賞受賞)、『グローバル関係学6 移民現象の新展開』(共編、岩波書店、2020年)などがある。


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