見出し画像

【試し読み】『断絶としての教育』まえがき

野見 収著『断絶としての教育』が今月刊行となりました。アルチュセールの思考に迫るにあたり、本書の目指すところを示した「まえがき」を公開いたします。ぜひお読みください。

本書は、フランスのマルクス主義哲学者ルイ・アルチュセール(1918-1990)の思想研究である。

とは言えそれは、アルチュセールの思想をまるごと相手にし、その生涯にわたる精神史を描き出そうとするものではない[1]。あるいはまた、アルチュセールのテキストで「語られていること」を過不足なく掬いあげ、哲学者の思想的「真実」を輪郭づけようとするものでもない。

本書はより限定的で、しかし挑戦的な研究である。すなわちそれは、アルチュセールにおける歴史の偶然性と必然性をめぐる思考に強い光を当てることで、諸個人を階級支配のイデオロギーから切り離し、科学的認識へと導く教育の原理を炙りだそうとするものである。

こうした本書の性格は、アルチュセールがマルクスの新たな解釈者としてその名を世に知らしめた1960年代前半の仕事に由来する。

アルチュセールは言っていた。マルクスは1845年の「フォイエルバハ・テーゼ」および『ドイツ・イデオロギー』から晩年の『資本論』に至る過程で、歴史の科学(史的唯物論)を築くことによって旧来の哲学的意識と縁を切り、新たな哲学(弁証法的唯物論)を築いた[2]。だが、この新たな哲学は、マルクスのテキストにおいてそれ自体としては不在であり、ただ「実践状態で」存在している。ゆえにこれを浮き彫りにするためには、精神分析さながら、その徴候から「テキストの無意識」を読み取らねばならないのだと。

本書は、アルチュセールがマルクスを読む際に採用したこの「徴候的読解lecture symptomale」を、アルチュセールを読む際に採用する。

後に見るようにアルチュセールは、従来の哲学をブルジョワ・イデオロギーに奉仕する観念論として退け、あらたに、歴史を偶然の相において見る「偶然性の唯物論」を教導することで、イデオロギーにおける階級闘争に介入しようとした。つまり、歴史の偶然性を説くことの教育的な効果により、階級支配の必然性を正当化するブルジョワ・イデオロギーから諸個人を「断絶rupture」し、科学的認識に導こうとしたのである。

だが、アルチュセールは、この断絶としての教育の原理について、明示的な考察を行わなかった。アルチュセールのテキストにおいてそれは断片的で間接的な形、まさに「徴候」という形でしか姿を現わさない。そこで本書は、かつてアルチュセールがマルクスのテキストに対して行ったように、徴候的読解の手法をもって右の原理を輪郭づけようとするのである[3]。

 

よく知られているように、アルチュセールは1970年の研究ノートにおいて、教会、学校、家族、政党、組合、報道、文化といった制度的存在を、その中立的装いとは裏腹に、資本主義的生産様式の再生産(ないし拡大再生産)を保証すべく国家のイデオロギーを諸個人に浸透させる「国家のイデオロギー諸装置Appareils Idéologiques d’État(AIE)」であると指摘した。

それから50年余りが経過した現在、諸個人に対する国家のイデオロギーの浸潤は、我が国においても行きつくところまで行きついた観がある。新自由主義と新保守主義の相互補完的イデオロギーはもはや社会の至るところに行き渡り、経済格差と社会的不平等を日々拡大し、また排外主義と極端なナショナリズムを増長させている。それらに抗する民衆の階級闘争は、いまやか細い光としてAIEの片隅に残るに過ぎない。

こうした状況下にあって本書は、AIEが持つあらゆる教育的効果[4]に抗する断絶としての教育の原理を提示することで、AIEにおける階級闘争に合流しようとする。すなわち本書は、自らの提出する知見がAIEの内側でひそかに継続されている階級闘争の理論的武器となることを目指すものである。


[1] 自伝に記される父と母と叔父との関係。第二次世界大戦における従軍・捕虜経験。抑うつの持病。カトリック教会との関係。高等師範学校の復習教師としての教歴。フランス共産党における立場。ミシェル・フーコー、ジャック・デリダ、エティエンヌ・バリバール、アラン・バディウ、ジャック・ランシエール、ジャック=アラン・ミレールらとの師弟関係。ジャック・ラカンとの交流と決別。1968年5月における政治的立場。1980年における不幸な事件。これらのサイドストーリーについては、本書においてほとんど触れられることはない。本書はそれらに強くひきつけられながらも、自らの対象をアルチュセールの理論的テキストに限定するものである。

[2] このアルチュセールによるマルクス解釈にたいして多くの批判が寄せられたことはよく知られている。本書は、マルクス主義研究の現在においてしばしば誤読とさえ見なされるその解釈の是非を問うことはしない。本書はただアルチュセールがそのマルクス読解を通じて、いかなる理論的可能性(たとえそれがマルクスの思想と無関係であったとしても)を切り拓いたか、ということを問題にするものである。

[3]それゆえ本書の記述は、かつてジグムント・フロイトが患者の無意識と向き合ったときと同様、多分に構成的である。本書は、断絶としての教育をテキストのうちに直接見て取るのではない。そうではなくて、断片に基づいてそれを間接的に構成するのである。その意味で本書は、哲学者の思想的成果がつねにその明示的な記述のうちに存在するとの観念をはじめから放棄している。

[4]本書が「教育」ないし「学習」の語を用いる際には、学校における教育関係がまずは念頭におかれつつも、それにとどまらないより広い文脈への適用が意識されている。家族が子どもに、教会が信徒に、政党が党員に、報道が視聴読者に、文化がその享受者に対しておこなう種々の働きかけ、それらもまた本書においては、「教育」であり「学習」である。


本書の書誌情報/購入ページ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?