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「心」と「身体」をめぐる冒険/嶋田総太郎

今回筆者が編者として上梓した『認知科学講座1 心と身体』(以下、「本書」と表す)では、心と身体の関係について、各分野の気鋭の研究者に様々な角度から、初学者にもわかるように解説を加えていただいた。ここでは、本書の紹介を交えつつ、「心」と「身体」をめぐる様々なトピックについて、筆者の思いつくままに書かせていただく。

「心」と「身体」

心と身体の関係については、古代ギリシャ哲学の時代から繰り返し取り上げられてきた。プラトンは魂(プシュケー)の不死について論じ、身体が滅びても魂は生き延びるとした。17世紀になるとルネ・デカルトは、有名な「我思う、ゆえに我あり」を土台に、自己の本質は「思う」こと(=心)であり、身体は必ずしも必要ではないという心身二元論を展開した。これらの哲学で共通するのは、自己の本質は「心」であり、身体というのは偶発的に心が宿った物質に過ぎないという考え方である。

翻って、現代の私たちの多くは、心身二元論をそのまま受け入れることはない。現代教育を受け、科学的な考え方に慣れ親しんでいる私たちにとって、魂というのはどこか非科学的なものであると感じられる。科学的に考えれば、「心」は脳という物質が作り出したものだとするのが一般的だろう。

しかしながら、心身二元論は未だに私たちの考え方の深いところに根を落としている。現代においても多くの人々は、幽霊やお化けが出ると聞けば怖がるし、死後に天国(のようなところ)へ行けることを漠然と願っている。そんなことはないという人も、数年前にヒットした映画『君の名は。』(新海誠監督、2016年)のように、主人公とヒロインの身体が入れ替わるというような話は、特に抵抗なく受け入れるだろう。ガンダムやエヴァンゲリオンのように、ロボットの内部に入り込んで自分の身体のように操縦するという設定も、根底には心身二元論的な考え方があるのではないだろうか、などと考えてみたくなる。それらは現代のロボットやVR(バーチャルリアリティ)技術を人々がどうとらえるかという認知科学的な興味とも深くかかわってくる。

心身二元論は、心と身体の関係性を科学的に説明する枠組みとしては明らかに不適切であるが、一方で、私たちの思考は、身体を心身二元論的にとらえていることも確かだろう。この非整合性はどこから生まれるのだろうか。それはひとえに、私たちの「心」が自分の「身体」をとらえ損なっているからに他ならない。心は身体(脳)から生まれてきたのに、心のほうはそのことをすっかり忘れてしまっているようである。現在の認知科学は、この問題に対してどのように答えることができるのだろう? 本書はこの問題に対して、様々な角度から考えるためのヒントを与えられるものと期待している。


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脳さえあればよい?

心が脳から作り出されたと言うと、「では脳だけあれば心は生まれるのか」という声が聞こえてきそうである。つまり、脳さえあれば身体など不要ではないかということである。これは唯脳論とも言われる考え方であり、たとえば、映画『マトリックス』(ウォシャウスキー兄弟監督、1999年)においてそのような世界観が展開されている。マトリックスの世界では、人々は生まれると同時に個別の培養装置の中で半永久的に眠らされ、脳に差し込まれた電気プラグによって、現実の世界であたかも日常生活を送っているかのような幻影を見させられている。ここでは身体自体が取り払われてしまっているわけではないが、身体は脳を維持するための単なる容れ物に矮小化されてしまっている。

デカルトの「我」は、「思えば」世界が成立してしまうという意味で独我論だとしばしば批判される。そのような「我」には、脳だけあれば事足りるのかもしれない。しかしながら現在の身体性認知科学では、私たちの思考は、身体と世界とのインタラクションの中から創発してくると考える。つまり、思考にとっては、脳だけではなく「身体」自体が欠かせないということである。

それはどういうことだろうか。「身体性」は、それまでの記号主義に対する概念として、主にロボット研究者から提唱された。マサチューセッツ工科大学(MIT)のロドニー・ブルックスは、サブサンプション・アーキテクチャと呼ばれるロボットの構造を提案し、外界に関する知識や知能はすべて内部に記述されている必要はなく、個体と環境との相互作用の中から動的に創発するものだという主張を行った。ブルックスのロボットは、動き回るのに必要な単純な制御構造のみをベースとして持ち、必要に応じてそれを上書き制御できるレイヤーが追加されたものであった。しかしながら、このような単純なアーキテクチャにもかかわらず、ロボットの動きは、環境の複雑さに合わせて複雑になるのである。つまり、平坦な土地では単純な直進行動しか現れないが、障害物があれば障害物を回避し、不整地では巧みな足さばきで前進を行うのである。ブルックスはこれをもって「表象なき知能」と称した。つまり、様々な環境でどのように振る舞うか(=知能)をロボット内部に完全に記述しておく必要はないということである。

一方、心理学の分野では、ジェームズ・ギブソンが「アフォーダンス」と呼ばれる概念を提唱した。アフォーダンスとは、環境が主体に対して提供する価値や意味のことであり、たとえばコップを見れば、「把手をつかむ」という運動が直接的に賦活されることをさす。アフォーダンスの概念で重要なのは、ものを記号的に「表象」し、その後の記号処理の結果として運動が出力される、という記号主義的な考え方ではなく、ものの知覚と運動は不可分に結びついており、ものの持つ意味が「直接に知覚」され運動を引き起こすことを指摘した点にある。これをギブソンは「表象なき知覚」と言った。アフォーダンスの考え方は、現在では様々な商品のデザインに取り入れられるようになっている。

このようなサブサンプション・アーキテクチャやアフォーダンスの考え方は、認知における身体の重要性に脚光を当てた。それまでの記号主義では、認知は個人の頭の中での記号による表現とその操作によって実現できるとされていた。しかし、ブルックスやギブソンの主張は、認知(の少なくとも一部)は身体と環境のインタラクションの中で形成されるものであり、すべてを個体の内部に表象する必要はないこと、そしてそもそも記号としては表象しきれない認知が存在するかもしれない可能性を提示したのである。

紙幅の都合で詳細は書けないが、本書において、このような身体性認知の哲学的・理論的枠組み(第8章「身体性に基づいた人間科学に向かって」田中彰吾)、姿勢や表情などの身体状態が高次認知に与える影響(第3章「思考・創造とエンボディメント」阿部慶賀)、内臓などの身体内部の感覚が感情・記憶に与える影響(第4章「心と身体を結ぶ内受容感覚――感情と記憶から考える」寺澤悠理)、そして高次認知の最たるものである言語ですら、身体の影響を色濃く受けていること(第2章「身体性認知科学における言語研究の射程」佐治伸郎)などについて議論されている。また、ロボットの知能が環境とのインタラクションを通じてどのように生じてくるかについても第6章(「知能・身体・関係性」長井隆行)で詳しく論じられている。これらを通じて、私たちの認知活動の多くが、身体を土台として初めて機能するものであることがわかるだろう。

自己身体認識

他のいくつかの章(第1章「自己認識――身体的自己と物語的自己」嶋田総太郎、第5章「身体表象と社会性の発達」宮崎美智子、第8章)では自己認識について取り上げている。

自己を自己と認識することが自己認識であるが、これは外界を外界だと認識することと比べると若干ややこしい。なぜかと言うと、外界にある物体を認識するためには、視覚や聴覚、あるいはそれをさわった時の触覚など、外界から入手できる情報を処理できればよい。つまり、物理的な物体から得られる感覚情報を知覚できればよい。ところが、「自己」について考えてみると、たしかに身体や内臓からは感覚情報を入手することができるかもしれないが、肝心の「心」については、物理的な実体がないわけであるから、それを感覚によって知覚することはできない。つまり「心」は外界と同じようには知覚できないのである。実はデカルトの「我思う、ゆえに我あり」では、この問題がスキップされてしまっている。どのようにして「我」は「我思う」ことを認識できているのか、という問題である。

自己を認識するというのは、哲学者のヨハン・ゴットリープ・フィヒテによれば、自己をいったん「外化(対象化)」して、その外化された「自己」を、もう一度自己であるとして取り戻すプロセスを伴う。つまり、自己を自己だと直接認識することはできないのである(ただし、自己を自己だと「無意識的に」直接感じ取ることは可能だと筆者は考えているが、それについてここでは深入りしない)。自己認識とは、一度、他の物体と同じ位置にまで自己を外化した後で、もう一度自己であるとして認識し直すことなのである。これは認知科学的に言えば、メタ認知である。

自己認識の出発点は、身体が自分のものであると認識すること、いわゆる自己身体認識であると考えてよいだろう。ショーン・ギャラガーは、「最小自己(minimal self)」(本書では「身体的自己」と表記している)として、「身体所有感」と「運動主体感」の二つを挙げている。これらは身体を直接知覚するというよりは、身体を「身体イメージ」として脳内に表象(外化)し、これに対して意識がアクセスすることによって感じられる自己感である。このように、「身体」そのものと「身体イメージ」を分離することによって、脳損傷によって引き起こされる身体失認(自分の身体が自分のものであることを否定したり、他者のものであると主張したりする症状)や、自己身体感を偽物の手に対して感じるラバーハンド錯覚などの現象を説明することが可能となる(第1章)。また乳児から成人へと発達していく過程で自己認識能力がどのように獲得されているかについても研究が行われている(第5章)。これらを読んでいただければ、自己の身体を認識するという、一見、当たり前に思われる認知が、実際には高度な情報処理を経て実現されていることが理解できるはずである。

物語と身体

自己身体認識で認識される自己が「身体的自己」であるとすると、その先にあるのが「物語的自己(ナラティブセルフ)」である。自己は一種のライフストーリーを持っている。身体的自己が「今ここ」にいる自己だとすれば、物語的自己は、生まれてから今まで、そしてこれから先の将来のビジョンまでを含めた時間的な連続性と広がりを持った自己である。この物語的自己は私たちのアイデンティティやウェルビーイングとも深くかかわり、研究分野として重要な価値を秘めているが、身体的自己と比べると研究はまだまだ少ない。

その中で、身体的自己と物語的自己の関係性について調べた興味深い研究が報告されている。たとえば、VRを用いてスーパーマンになる体験をさせるとその後の人助け行動が促進したり、アインシュタインになる体験をさせるとその後の認知課題の成績が向上したりする、といったものである。これらはVRを用いてそれぞれのキャラクター(アバター)に「身体的に」一体化することによって、そのアバターの物語的自己が体験者の物語的自己に影響を与えたのだと解釈できる。この現象は、変身能力を持ったギリシャ神話の神になぞらえて「プロテウス効果」と呼ばれている。あるいは、最初に自己をアバターに投射(プロジェクション)することによって、アバターの他の特徴が自己に戻ってくるという意味で「バックプロジェクション」とも呼ばれる(嶋田、2019)。近年のVR技術の進歩は、このように身体的自己を通じて物語的自己に影響を与える方法を提供しつつある(第7章「バーチャルリアリティによる身体拡張と自己の変容」鳴海拓志・畑田裕二)。

身体的自己から物語的自己への飛躍がどのようなメカニズムで起こるのかは、まだ十分にわかっていない。これは、身体から意識がどのように生起するのかを説明することと深く関連している。身体という無意識の領野から、物語という意識の領野はどのように開けてくるのだろうか。この短い紙幅でその答えを探すことはできないが(本書の第1章と第8章もご覧いただきたい)、代わりにここで、村上春樹の文章を引用しておくこととしたい。

「小説家の基本は物語を語ることです。そして物語を語るというのは、言い換えれば、意識の下部に自ら下っていくことです。心の闇の底に下降していくことです。大きな物語を語ろうとすればするほど、作家はより深いところまで下りて行かなくてはなりません。(中略)作家はその地下の暗闇の中から自分に必要なものを――つまり小説にとって必要な養分です――見つけ、それを手に意識の上部領域に戻ってきます。そしてそれを文章という、かたちと意味を持つものに転換していきます。」(村上、2016)

「身体」を「心」へと飛躍させた原動力は何だったのだろう。一つのアイデアとして考えられるのは、未来を「予測」する能力であり、それを使って自らの思い描いた世界を外界へと「投射(プロジェクション)」する能力だったのではないかと思う。第8章で田中が論じているように、「現実世界」から「想像世界」へと人が踏み出そうとした時に、「心」は生まれたのではないだろうか。

「心」と「身体」をめぐる冒険は、まだ続く。

文・嶋田総太郎(しまだ・そうたろう/明治大学理工学部教授)

引用文献
 
・村上春樹『職業としての小説家』(新潮社、2016年)
・嶋田総太郎『脳のなかの自己と他者――身体性・社会性の認知脳科学と哲学』(共立出版)

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