見出し画像

ヒトとチンパンジーはどこが違う?/長谷川眞理子

長谷川眞理子 著『進化的人間考』が刊行となりました。斯界の第一人者が、進化という軸を通して、人間の統合的な理解を試みている意欲作。本書で扱う問題を整理している、第2章「ヒトとチンパンジーはどこが違う?」の一部をご参照ください。

ヒトの系統の進化

ヒトは、アフリカの類人猿の一種から進化したのだろうと推論したのは、チャールズ・ダーウィンである。それは、19世紀でも手に入った数少ない証拠をもとに、推論を積み上げた挙句の結論だったが、実際に正しかった。ゲノムの解析が進んだ現在、ヒトに最も近縁な動物はチンパンジーであり、ヒトとチンパンジーのゲノムの違いは、1.23パーセントでしかないという結論になった。つまり、アデニン、グアニン、シトシン、チミンの塩基配列の違いは、それだけに過ぎないということである。

ただし、配列の挿入や欠失などの大きな違いも入れると、およそ5パーセントは違うことになる。それに加えて、タンパク質の種類そのものではなく、それらを作るタイミングや量を決めている、調節遺伝子と呼ばれるものの違いも入れれば、もっと違いは大きくなる。それやこれやで、最終的には、チンパンジーとヒトでは何もかもが異なることになるのだ。

このゲノムの違いから逆算すると、ヒトの系統とチンパンジーの系統が分岐したのは、今からおよそ600~700万年前である。私たちを隔てるこの600~700万年の間に、何が起こっただろう? ヒト固有の性質と思われるものはいくつもあるが、遺伝子の変化を伴っていることが確実な、生物進化における決定的違いを挙げてみよう。そして、それらを、人間の本性に迫るという点から観察してみたい。

ヒトとチンパンジーの決定的違い

(1) 直立二足歩行
人類の定義が、「常習的に直立二足歩行する霊長類」であるので、直立二足歩行は人間の重要な特徴の一つである。直立二足歩行は移動様式であり、それ自体が人間性そのものとは直接関係ないようにも思える。しかし、直立二足歩行の起源が何であれ、いったんそうなった後の人間の暮らしは、手が自由になった。また、目の位置が高くなり、自分自身の全身を見ることができるようになった。これらの事態は、ヒトが世界を認識するやり方に大いに影響を与えているに違いない。たとえば、自意識の発生にも影響している可能性はある。

(2) 体毛の喪失
チンパンジーは全身に黒くて長い毛が生えているが、ヒトは体毛が極端に少ない。その代わりに全身に汗腺が多数ある。体毛のないことは、暑いところで大地をてくてく歩くことに伴う発汗の進化と関連していると考えられている。しかし、それとは別に、体毛がなくなったことの重要な副産物が一つある。それは、赤ん坊が母親の毛にしがみつくことができなくなったことだ。このことは、ヒトの子育て、コミュニケーションなどに大きな影響を及ぼしたに違いない。

(3) 食性
ヒトは類人猿の仲間から進化した。類人猿は、主に果実と葉を食べる菜食主義者である。ところが、ヒトの食事の中には肉がかなりの量を占める。人類の基本的な生業形態は狩猟採集であり、人類史の99パーセントにおいて、ヒトは狩猟採集生活で生計を立ててきた。そこで、世界中の狩猟採集民の食べものについて総合的に分析してみると、地域差はあるものの、食事のカロリーの中で肉が占める割合は、30パーセント以上である。一方、類人猿の中では最も多く肉食するチンパンジーでも、その割合は3パーセント以下だ。

また、ヒトでは、肉以外の採集で得られる植物性の食物も、地面に埋まっている根茎や、堅い殻に包まれた種子など、単純には採れないものが多い。そして、ヒトは火を使用してこれらの食物を調理する。

つまり、ヒトは、それまでの類人猿的食生活をがらりと変化させ、獲得困難な食物を利用するようになった。このことは、共同作業を必須にさせ、子育てを長期にわたる困難なものにさせた。

(4) 脳の大型化
チンパンジーの脳容量は、およそ380グラムである。初期の人類も同様であった。現在のヒトの脳容量は、1200~1400グラムであり、同じ体重の類人猿の脳のおよそ3倍である。誰もが知っているように、ヒトの最大の特徴は、脳が大きくて認知能力が高いことだ。しかし、脳はどうしてこんなに大きくなったのだろう? ほうっておけば脳が大きくなるように進化するものではないので、これは解くべき問題である。

また、ヒトの脳は、チンパンジーの脳がそのまま大きくなったのではない。特に前頭前野の部分が大きくなった。そこは何をしているのだろう? 脳については、考えるべきことがたくさんあるので、また別に詳しく取り上げることにする。

(5) 女性の発情期の喪失
ほとんどの哺乳類の雌は、排卵に同期して発情し、受胎可能な期間しか交配しない。ヒトと最も近縁な霊長類もそうである。しかし、ヒトの女性はそうではない。このことは、「発情期の喪失」「排卵の隠蔽」などという言葉で呼ばれ、その進化が議論されてきた。私は、これは、女性が誰に魅力を感じ、配偶する気になるかということが、きわめてパーソナルになったということだと思う。そして、このことは、ヒトの配偶システムと子育て行動の進化にとって、非常に重大な意味を持っている。

(6) 子ども期の延長
すべての哺乳類には、授乳が必要な「赤ん坊」というライフ・ステージがある。この赤ん坊を育てるのは、かなり大変な仕事だ。チンパンジーでは、離乳までに4~5年もかかる(下図)。しかし、離乳すれば、哺乳類の子どもは基本的に独力で食物を採り、独力で移動する。チンパンジーも同様だ。ところが、ヒトの子どもは、離乳したからといって少しも独立しない。

まず、ヒトの脳の成長には長い年月がかかる。また、脳の大きなおとなが様々な技術を駆使して、獲得困難な食物を利用しているため、その技術を身につけるまで、子どもが独力で食物を取ることはできない。そこで、ヒトでは、およそ20年近くにわたって、親を始めとする多くのおとなが子どもの世話をすることになる。この長期にわたる子育てを親だけで行うことは不可能で、ヒトは共同繁殖である。

(7) 寿命の延長と老人
子ども期が長いだけではなく、ヒトの潜在寿命は非常に長い。チンパンジーは、どれだけ長生きしてもせいぜい55歳ぐらいだが、ヒトは100歳近くまで生きられる。これは、現代の医学や福祉制度のために長くなったのではない。ホモ・サピエンスの潜在寿命は本当に長く、一握りの老人は先史時代から常に存在した。

(8) 言語
言語という音声コミュニケーションは、ヒトに固有である。チンパンジーに言語を教えると、ある程度の単語の習得はするが、文法の理解はなく、ヒトの子どものようにいろいろなことを話そうとはしない。言語は、コミュニケーションの手段であるが、同時に、伝達される内容である概念や想念を思考の中で明確化する道具でもある。

(9) 意図の理解と共有
ヒトの生活のあらゆる側面は共同作業でなされる。一方、チンパンジーは滅多に共同作業をしない。ヒトの共同作業を可能にさせている認知的基盤は、意図の理解とその共有である。「あなたは○○と思っている」ということを、「私は知っている」ということを、「あなたも知っている」ということだ。文化とは、世界に関する概念の共有であるが、意図の理解と共有は、文化の基盤でもある。

(10) 自意識
ヒトにははっきりと自意識がある。動物は、まわりの情報を査定し、最適な行動を選択するが、ヒトでは、自意識によって自分と自分を取り巻く状況が客観的にとらえられ、今度はそれ自体もが情報となって、意思決定を左右する。このような、入れ子構造の意思決定アルゴリズムは、ヒトに固有である。

以上の観点をもとに、次章以降、これらをより詳しく検討していきたい。


本書の書誌情報/購入ページ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?