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ブリンマーと津田梅子と私/古川 安

刊行時より好評を博している『津田梅子――科学への道、大学の夢』。著者の古川安先生が『UP』3月号に寄稿された「ブリンマーと津田梅子と私」の一部を以下で公開します。フィラデルフィアのペンシルヴェニア大学で研究生活を送るなか、郊外の小さな町ブリンマーへ移り住むことにした古川先生。そこから津田梅子との関わりが始まります。

アパートのすぐ近くには名門女子大学として知られるブリンマー大学(Bryn Mawr College)があった。アメリカ東部では19世紀末までにセブン・シスターズと呼ばれる7つの私立女子大が創立されたが、ブリンマー大学もその一つで、1885年にクウェーカー教徒で医師のジョセフ・テイラーの寄付金と土地の寄贈によって設立された。現在の学生数は1700人程度のこじんまりした大学であるが、キャンパスは広く公園のように美しい。週末は構内を散策するのが私の楽しみになった。

そんな生活をしているうち、100年前、この大学に津田梅子(1864-1929)が留学していたことを知った。梅子は6歳にして日本人初の女子留学生として渡米し、アメリカ人家庭で育てられ、17歳で帰国した。華族女学校の英語教師をしていた時に、1889(明治22)年から92(明治25)年までの3年間、在官のままブリンマー大学に留学した。

どういうルートで入手したのかはっきり覚えていないが、その頃出版された大庭みな子の『津田梅子』(朝日新聞社、1990)を手に入れて、アパートで読みふけった。外国生活がしばらく続くと日本語が妙に恋しくなることがあるが、そうしたことも手伝ったのかもしれない。またこの本をブリンマーの地で読むことでの臨場感のようなものも感じたのかもしれない。ともかく、その梅子伝に一気に惹き込まれた。1984(昭和59)年に津田塾大学本館の屋根裏部屋から、梅子がアメリカの育ての母親に宛てた数百通の手紙(手書きの英文)が発見された。著者の大庭みな子は津田塾大学の卒業生であり、それらの手紙を丹念に読んで梅子の生涯を美しい筆致で再構成した。なお、この書簡集が活字に起こされて刊行されたのは同書の翌年であった(The Attic Letters: Ume Tsuda’s Correspondence to Her American Mother, ed. by Y. Furuki et al., Weatherhill, 1991)。

大庭の伝記の後半には梅子がブリンマー大学で生物学を学んだ話が出てくる。その部分を読み、私の科学史的関心が急速に芽生えた。早速、ブリンマー大学のキャナディ図書館にある文書館を訪ねた。そこには梅子の成績票や書簡類がきちんと保管されており、それらの史料から梅子がブリンマーでかなり本格的な生物学教育を受けていたこと、動物学者トーマス・ハント・モーガンに師事しアカガエルの卵の実験発生学的研究をしたこと、梅子のこの分野での才能は教授たちから高い評価を受けていたこと、梅子が生物学科の実験助手まで務めていたことなどを確認することができた。

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ブリンマー大学の旧図書館。1993年筆者撮影。

この文書館には、ブリンマー大学の歴史に関する膨大な資料が所蔵されている。ブリンマーに限らず、アメリカの多くの大学は文書館をもち、専門のトレーニングを積んだアーキビストが何人かいて、どのような質問にも丁寧に応えてくれる。行き届いたサービスは日本よりもはるかに徹底している。面倒な手続きなしに、手紙のような私文書でも、現物を手にとって閲覧できる。所蔵史料を「見せてやる」といった態度ではなく、自校の史料が内外の研究者の研究に役立つよう積極的にアシストしてくれる。こうした対応のしかたは私のような歴史研究者には大変ありがたい。

アーキビストの協力のもと、梅子個人のファイルのみならず、梅子が留学していた時代の大学の状況を知るために、教授陣の構成、授業シラバス、履修システム、当時の学生たちなどに関する史料を調査することができた。そこから得られた知見を、科学史の知見と結びつけることで、いろいろなことが明るみに出てきた。当時のブリンマーの教育がたんなるリベラルアーツ教育を主眼にしていたのではなく、男性と全く同じレベルの研究者養成のための教育をめざしていたこと、ブリンマーの生物学科は当時全米でも突出した教授陣と教育プログラムを擁していたことなども分かった。

梅子のいた寮があったメリオン・ホールや生物学実験室があったテイラー・ホールの中も見学して、100年前の梅子の留学生活を想像してみた。ブリンマー大学の文書館に通う日々が続くようになって、ペン大の先生たちからは、最近、ヤス(私のファースト・ネーム)の姿が見えなくなったがどうしたのかと心配されることもあったようである。

それにしても、疑問は募るばかりであった。明治の一女性英語教師がアメリカ留学でなぜ生物学を専攻したのか、帰国後なぜ生物学者への道を歩まなかったのか、歩めなかったのか。梅子の人生にとってブリンマーの体験はどのような意味をもったのか。そもそも梅子にとって科学とは何であったか。謎解きへの道のりはまだこれからだった。私の本来の研究テーマは20世紀の高分子化学の歴史であったが、こんな経緯で、梅子についての研究が私の愉しいサイドワークになった。

帰国後しばらくの間は、高分子化学史の研究を本として出版する仕事に忙殺された。それでも、梅子に関する資料や情報を少しずつ集めていった。日本では津田塾大学の津田梅子資料室が一級の史料を多数所蔵している。学習院の院史資料室(現、学習院アーカイブズ)や宮内庁書陵部図書課(現、宮内庁宮内公文書館)では、梅子の留学に関する新史料を見つけた。その後も、アメリカ東部への学会出張に合わせてブリンマー大学に何度か立ち寄った。また、梅子が夏期実習に参加したウッズホール臨海実験所(マサチューセッツ州)にも足を伸ばして、そこのアーカイブズで史料調査も行った。

津田梅子については、これまで多くの伝記が書かれてきた。本格的な伝記書だけでも7冊が出版されている。小説や児童向けの本もある。梅子が再留学時に生物学を学んだことは、(大庭の伝記を含めて)こうした既存の文献にも部分的・断片的に述べられている。しかし、ほとんどの場合、生物学を学んだという事実を記述するだけで、それ以上掘り下げた議論は展開されていない。少なくとも、この問題を単独に取り上げて考察した研究はほとんどなかった。ずいぶんと遠回りもしたが、ブリンマーで研究を始めて30年が経った今、私なりの観点から描いた津田梅子伝を一冊の本にまとめた。前述の疑問に対する私のたどり着いた解答はそこに書かれているので、詳しくは本書を紐解いていただければ幸いである。

「生物学者への道と、大学をつくる夢と/『津田梅子』エピローグ」もあわせてお読みください。

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