見出し画像

ドングリとアカネズミをめぐるミステリー

ドングリを好んで食べることが知られているアカネズミ。でも、飼育されたアカネズミにドングリを与えると、ネズミたちの何匹かは死んでしまいました。どうしてネズミたちは死んでしまったのか? そのミステリーに迫る『野ネズミとドングリ――タンニンという毒とうまくつきあう方法』
(島田卓哉)の「はじめに」を公開します。


はじめに

この本は、私がこれまで携わってきた野ネズミとドングリとの研究についてまとめたものである。本編と重複するが、はじめに私がこのような研究を始めたきっかけを紹介したい。当時私は、京都にある森林総合研究所関西支所で研究員をしていた。大学院博士課程を1年で中退して就職した私は、野ネズミの生態に関してさまざまなことに手をつけてはいたが、自らの研究にはっきりとした展望を見いだせずにいた。おもな研究テーマは、野ネズミがどのように冬を越しているのかを餌や野ネズミの生理的な適応との関係から明らかにすることであったが、今にして思えば完全に暗中模索の状態にあった(試行錯誤ではなく)。研究活動をしていて辛いのは、こういうときだ。

そんなとき、ある研究プロジェクトの一環で、ブナの実やドングリに対するアカネズミの消化率を調べてみることにした。野ネズミの一種アカネズミは巣穴に貯めたブナの実やドングリを食べて冬を越すといわれていたので、野ネズミにとってブナの実やドングリが、どのような価値を持つのかを確認しようと思ったのである。消化率を測定するためには、目的の食物だけを数日間対象動物に与えて、食べた量と糞の量とを測定する必要がある。そこで、京都市内で捕獲したアカネズミ数匹に、ブナの実あるいはミズナラのドングリだけを与え始めた。すると、ドングリを与えたアカネズミの様子がおかしい。ふらふらとしてきて、数日中には数匹が死亡してしまった。一方、ブナの実を与えたアカネズミにはそのような兆候は見られなかった。

アカネズミがドングリを好んで食べることはこれまでの研究でよく知られていたので、ドングリは野ネズミにとって「良い餌」であるというのが当時の一般的な認識だった。それなのになぜこんなことが起きたのか。「これはなにかおかしい、よく調べてみよう」と考えていれば、研究者として良い目を持っていたといえるのだろうが、当時の私はあまり深く考えることもせずに、飼育環境に問題があったのだろうか、あるいは一種類の餌だけで飼育すればこういうこともあるかもしれないなどと漠然と考えていただけであった。思い返してみると、私は同じような現象をこれ以前にも一度目撃している。そのときはアカネズミのドングリ利用方法を調べるために、屋外に3メートル四方のネズミ飼育ケージをつくり、さまざまな条件下でアカネズミがドングリをどのように利用するのか(その場で食べるのか、貯蔵してから食べるのかなど)を調べていた。飼育ケージにはそれぞれ一匹のアカネズミを放しておいたが、あるときそのアカネズミが普通のネズミの動きとは違うことに気づいた。通常は夜間しか姿を現さないアカネズミが、足を引きずるような様子で日中にもかかわらずのろのろと移動していた。なにか変だとは思いながらも、このときも私は深く考えることをせずに、予定した実験をこなしていただけだった。

しばらく時が経ち、現在北海道大学に所属する齊藤隆さんが関西支所に室長として赴任してこられて、新たな展開が生まれた。今後の研究について相談していたときに、そういえばこういうことがあったと消化率測定実験のことを持ち出すと、齊藤さんの目の色が変わった。「良い餌であるはずのドングリを食べて大半のネズミが死んでしまうなんて、まったく説明がつかない。そこにはなにか秘密が隠されている。それなのに、なんで君はそのことに気づかないのだ」。というわけで、齊藤さんの勧めのもと、アカネズミ‒ドングリ問題を自分のテーマとして研究を始めることにした。

これまでの常識とは異なる、「アカネズミがドングリを食べて死んでしまう」という現象。その原因を探るというテーマに新たに取り組むことになり、ほっとすると同時に、気持ちは高まっていた。それでもはじめは、私はまだこの問題の重要性と一般性を理解できていなかったように思う。この現象は、たんに一つの餌だけを与えることによって生じた栄養バランスの悪化で説明できるのではないか、だとしたら人間でも家畜でもいくらでも報告されている現象だし、格別意味のあることではないのではないか。研究を進めながらも、そんな不安を抱くこともあった。しかし、しだいに、アカネズミ‒ドングリ問題には、植物と植物を食べる動物との間にある普遍的な問題――植物を餌とすることの困難さ――が凝縮されていることに気づくようになった。

本書では、ドングリを食べてなぜアカネズミは死んでしまうのか、そしてアカネズミは野外ではどうやってこの問題を克服しているのかという謎解きを軸に、野ネズミとドングリとを巡る生物学について話を進める。その過程で、より一般的な植物と植食者との関係についても話を広げていきたい。第1章では、本書の主役であるアカネズミや日本にすむネズミについて紹介する。アカネズミがいかに日本の森林において大きな存在感を持つ動物なのかが、わかっていただけるだろう。第2章からは本題に入り、ドングリを食べてなぜアカネズミが死んでしまったのか、ドングリに含まれるタンニンという物質をキーワードに考えていく。第3章では、前章で明らかになったドングリの問題を、野ネズミがどのように克服しているのかという謎に迫っていく。第4章は、この流れから少し離れて、ドングリから見た野ネズミの働きについて紹介する。一つ一つのドングリがどれだけ多様なのか、そして野ネズミはどのような基準で自分が食べるドングリを選んでいるのか、といった話題について触れる。よくドングリが豊作だとネズミやリスなどの動物が増えるといわれる。ところが話はそう単純ではない。最後の第5章ではこの関係について、これまでの章で明らかになった、野ネズミ、ドングリ、タンニンとの関係にもとづいて、解き明かしていきたいと思う。加えて、ドングリの豊作凶作が野ネズミを介して人間生活にも影響をおよぼしているという、最近明らかになってきた関係についても紹介したい。

最初にこの研究を始めてからおよそ20年が経った。玉葱の皮を一枚一枚はがすようにして野ネズミとドングリとの隠された関係を明らかにしていく道のりは、とても刺激的で楽しいものだった。そこには多くの人との出会いがあり、困ったときには助っ人が現れた。さながら、小さなロードムービーのようだと自分では思う。そんな気持ちも伝えられればと思い、通常の科学論文や報告書では省かれてしまう失敗や発見に至った道のりなどもできるだけ再現しながら記すように努めている。お楽しみいただければ幸いである。


画像1

書誌情報/購入ページへ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?