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制度から制度へ/宋 晗

生来、賞を頂戴したためしのない筆者が、栄えある南原賞の受賞者に選ばれたのは、誠にもって幸運なことである。正直に白状すると、受賞の通知をいただいた直後は実感がなかなか湧かず、お世話になった先生方にご報告した際にお褒めの言葉にあずかって、ようやく受賞という事実を受け入れる始末であった。

平安時代の漢文学という拙著のテーマは文学研究の中でも珍しい部類に入る(拙著を評価をしてくださった審査員の皆様方には感謝してもしきれない)。漢文学というと、世間であまり良い評判を聞かず、特に中高生にとっては「退屈な国語」を代表するもののようである。近年では実用性を重んじる教育改革が進み、漢文の肩身はますます狭くなっている。漢語や漢文由来の慣用表現は最低限知っておけば良い、というのが共通認識となっているのだが、そういえば福沢諭吉も『学問のすすめ』で「学問とは、ただむずかしき字を知り、解し難き古文を読み、和歌を楽しみ、詩を作るなど、世上に実のなき文学を言うにあらず」(ここで「詩」は漢詩を指す)といっていた。近代以降の国民国家にとって漢文はお呼びでないということだろうか。

逆風にさらされていると、不満の一つや二つもつぶやきたくなるのが人情だが、筆者の専門分野に引きつけて考えてみると、「すぐ役に立つものは、すぐ役に立たなくなる」という警句が思いかえされる。そもそものところ、漢文が中国大陸を超えて東アジアに伝播した要因は実用性であった。漢文が役に立つ範囲は幅広く、朝廷の文書行政から人々の日常生活にまで及んでいた。儒学を中心とする知的世界への参入をことさらに意識せずとも、経典数十万字をそらんじて李白、杜甫がはだしで逃げ出すような漢詩を作るレベルに達さずとも、漢字の読み書きができれば備忘録をつけることができるし、遠方の家族や知人に要件を伝えやすくなるし、商取引の際にも証文を作成できた。良いことずくめである。古代日本の朝廷にとっても、漢文は村ごとの人口を把握し、税を課すなど手間のかかる実務の効率を大幅に向上させるものだった。天皇から庶民に至るまで、文字が普及する以前と以後では暮らしの水準は段違いだったはずである。今となってはテクノロジーらしさの片鱗もない漢字は、古代においては高度な技術として重宝されていた(この相場は、ひらがな・カタカナが発明されてからもそう大きくは変わらなかった)。現代の我々からすると、不可解にさえ思われる古代人の漢字に対する高い評価は、文字の有用性に下支えされていたということになる。社会を一挙に進歩させる技術に、魔術的なものを感じるのは恐らく人間の習性である。卑近な例えをするなら、今やインフラの類いであるインターネットも、1990年代には神秘のベールに包まれていて、日常とは違う世界がそこに広がっているように思えたものである。

拙著で主たる考察の対象とした平安朝の文人は、そういった実用的な漢文の作成を職務とする官僚であった。常日頃から学究に務める彼らは同時代に特異な人々であったと思われる。家柄が個人の人生に決定的な影響を及ぼしていたはずの貴族社会にあって、(建前の場合が少なくなかったにしても)才能や努力を信仰していたふしがある。乱暴な例えになるが、平安朝文人とは今にいうキャリア組のような存在であった。行政に不可欠な技能を習得した官僚を育成するためには、実力を基準にした選抜がどうしても必要だった。弱小氏族であっても、当時の養成機関である大学寮に学び、筆記試験を突破することで、ゆくゆくは高位高官につく道が開けた。「身分の高い者は必ずしも有能ではない!」という文人・都良香(みやこのよしか)(834─879)の主張が、政務の場で堂々と発せられるぐらいには、実力主義は公認されていたのである。ところが、個人の努力を肯定する風潮は、貴族の家柄の序列が固定化する十世紀以降ともなると薄らいでゆく。叩き上げの文人が国政を動かすポストにつく目はほとんど無くなり、さらには、実力主義が貫徹されていたはずの文人集団内部でも家学と学閥が形成されてゆく。文人集団の地盤が沈下してゆく平安朝の趨勢と、昨今の情勢を思い合わせてみると、歴史は韻を踏むという箴言が脳裡に浮かんでくる。

平安朝文人の文学よりも、文人の浮沈に紙面を割いてしまった。要するに文人は霞を食って生きていたのではなく、平安朝廷という制度の中であくせくした人々であったことを確認しておきたかったからである。文人が残した詩文を精読していると、知らず知らずのうちに、彼らを高尚な存在に祭り上げてしまう。膨大な資料を調べ上げて一字一句の意味を確定させるという作業の対価として、研究対象を高踏的な人物だと思いたいのかもしれない。しかし実際の文人は、学業がなかなか進まないことで気に病んだり、昇進のために悲惨な身の上を涙ながらに訴えたり、嫉妬のあまりライバルを面罵したり、はたまた手塩にかけて育てた弟子や子息の任官に大喜びしたりと、状況に一喜一憂しつつ必死に生きていた。数奇な運命をたどった天神様の菅原道真にしても、弟子の教育に手を焼いてほとほと困っている心境を漢文に綴っていた。現代にもありふれた喜怒哀楽を漢文から読み取ることに、筆者は個人的な楽しみを見出している。

とはいうものの、個人的な楽しみと研究はまた勝手が違ってくる。研究の立場からいえば、「現代にもありふれた喜怒哀楽」なるものが、平安時代にあっては基本的に文字にするまでのものではなかったことに注意する必要がある。漢文学を代表する漢詩を例にしてみよう。現存する平安朝漢詩の8割方は、天皇や藤原摂関家が七夕などの祭日に主催した宴にささげられたものである。つまり平安朝における漢詩は、主として非日常的なシチュエーションで、雰囲気を盛り上げるための座興であった。そしてそういった漢詩が多く残っているという事実は、平安朝以降の貴族がその保存に務めていたことを示唆しよう。抒情を旨とする漢詩すらも、社会や制度に奉仕する文芸としての側面が強かった。漢詩の作り手である文人の日常を詠じた詩作が、社会に求められていたわけではなかったのだが、一方で、文人の側にどうしても詩文に寄せて残したい個人的な思いが生じることもままあった。「現代にもありふれた喜怒哀楽」は平安朝漢文学の主題として初めからあったのではなく、次第に発見されてゆくものだったのである。七夕の宴に似つかわしいような、織姫彦星の悲恋が哀切に表現された修辞的な詩作ではなく、退勤後の鬱屈や煩悶が、普段のお役所言葉によってぼそぼそと語られているような詩作。制度の一部であった漢詩文を駆使して、個人の情緒の表出が試みられてゆく過程を明らかにするのが拙著の目的である。

選考委員の沼野充義先生からは、拙著について「柄谷行人風に言えば、主題は平安朝漢文学における「私の発見」」であるとの論評をかたじけなくも頂戴した(注1)。生半可ではあるが、ここであえてひそみにならうとすれば、筆者は柄谷行人が「内面の発見(注2)」で指摘した、「制度とは見えないような制度」としての内面が、平安朝文人によって作り上げられてゆくのに分析の照準を合わせているといえようか。通時的に平安朝文人の文章を考察したのは、内面の系譜というよりも内面の制度化を素描したかったからだと、いまふりかえってみれば思われてくる。

内面を制度と見なすのは味気ない話なのかもしれない。とはいえ、文学における内面はあくまで文字によって綴られたものであり、一旦綴られてしまえば、それに共感する他者に踏襲され、再解釈される(注3)。それがくりかえされることで、おのずからに内面の書き方が形成されることになる。「書き方」にせよ「制度」にせよ、こういった観念を分析の手がかりにするのは、作者の主体性を無視しているわけではなく、それが土台となって作家性が顕(あらわ)れると考えているからである。

してみると拙著は、文学研究という制度の中における、平安朝漢文学の座標を定位するための試みということになる。漢文はやはり外来の書記言語であり、不純物のように扱われがちである。しかしながら、漢文は訓読によって日本語のシンタクスに沿って変換されて読み書きされてきた。日本における漢文の歴史が十五世紀にわたることを思えば、そこにはいわゆる日本人の精神が刻印されているのは疑いようもない。文学研究という制度の中で多数の研究者に吟味されることで、平安朝漢文学の意味は更に明らかになるだろう。そして、文学研究の主な対象となってきた傑作群に比べ、平安朝漢文学はまだまだこの制度のもとで検討される余地を残している。この余地を埋めてゆくためには、平安朝漢文学の史的意義に加え、現代の尺度に即しての作品の価値をも示す必要がある。同時代的な意味と、現代的な価値を合わせて論じることは至難の業であるものの、日本の漢文に触れた人であれば、誰もが一度は考えたであろう、「なぜ漢文を日本人が読み書きしていたのか?」という疑問に対する解答の道筋にはなると思う。

さももっともらしく、平安朝漢文学について述べ立ててきたが、博士論文を巨視的に見つめ直すことができたのは、南原賞応募を目指しての改稿と、受賞後にいただいた出版に向けての一年間の猶予の賜物である。博士課程在籍中、学位取得のために3本以上の査読論文を発表せねばならず、査読を突破するためには、微視的な問題の解明に力を注がなくてはならなかった。作品を精緻に読む体力を養うのに不可欠な訓練であったとはいえ、それは専門性のぬかるみにはまりこむことにもつながった。筆者は査読制度の中で育てられた研究者であり、今後も研究者たろうとする限り、この制度の限界を引き受けることになるだろう。この点で、専門分野の別を問わず論文を募集する南原賞を目標にすることは、隣接諸分野の研究者からの批判をいただけるように論じることの重要性を自らに刻みこむ、得がたい契機となった(博士課程在籍中から指導教官に諭されてはいたのだが、若気の至りや余裕のなさのためにご期待に添えなかった。忸怩たる思いである)。2018年に提出した博士論文と、昨年刊行させていただいた拙著を読み比べてみると、格段に読みやすくなったように思う。慣れ親しんだ制度から抜け出てみることの醍醐味を実感した次第である。

この小文を書き記すにあたり、南原賞にまつわるよもやまをつらつら思いかえしたのだが、唯一の心残りは、新型コロナウイルス感染症のために、選考委員の先生方に直接謝辞を述べる機会をなかなか得られないことである。末尾ながら、あらためてお礼申し上げたい。

(注1) 第10回東京大学南原繁記念出版賞講評(http://www.utp.or.jp/news/n34735.html)。
(注2) 柄谷行人『定本 近代日本文学の起源』(岩波書店、2004年)
(注3) ここで多田蔵人氏の「『永井荷風』との距離」(『UP』、2021年8月号)から一節を引用しておきたい。「ひとつの文章は別の文章を換骨奪胎してなったものであり、拠りどころとなったその文章(典拠)もまた、別の文章を引用している─時とともに継承され、あるいは分岐し姿をかえていく文章のありかたを、典拠をたしかめながら探る研究スタイルである」。

(そう・かん 和漢比較文学)

初出:『UP』593号 (2022/3)

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