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『世界アシカ・アザラシ観察記』第一章「極北のアザラシたち」より

4月19日発売の水口博也 著『世界アシカ・アザラシ観察記』は、著名な動物写真家である著者が世界中の海で観察した海獣たちの姿を多数の写真とともに描く科学読み物です。アザラシたちの子育てを臨場感たっぷりに描く第1章「極北のアザラシたち」の一部を抜粋してお届けします。
※小会HPで第1章前半部分のPDFも公開しています。著者撮影の写真も併せてご覧になりたい場合はこちらをご参照ください。

氷上の子育て

前方の氷上に、いくつかの暗色の影が見えるのが母アザラシである。さらに目を凝らせば、そのそばに白い毛皮に包まれた子どもが確認できる。ぼくは、もっとも近くにいる母子のアザラシに向かって歩きはじめた。

生まれて数日までの子アザラシの毛は、羊水に染まっていくぶん黄味がかって見えるために「イエローコート」と呼ばれる。まだ十分に成長していないために、体形もさほど丸丸せずに頼りなげに見える。まだ臍へその緒をつけているものもいる。

やがて赤ちゃんは、母親の腹部にある乳首を求めて吸いはじめた。赤ちゃんのほうから乳首を求めることもあれば、母親がうながすように自分の腹部を赤ちゃんに近づけることもある。それでも気づかないときには、母親は前肢でぽんぽんと軽く赤ちゃんの体に触れることもある。

アザラシの四肢は、海中での暮らしにあわせてひれ状の形に進化した。そのために、(このあと紹介するアシカの仲間を含めて)鰭脚類(ききゃくるい)と呼ばれる。それでも、前肢にしても後肢にしても、そのなかにしっかりと五本指を残しており、前肢ならその先端には鋭い爪を備えている。

あたりを見まわせば、何組もの母子の姿を見てとることができる。そのなかの何頭かの子は純白の毛に包まれ、丸丸と太って見える。生まれて数日もすれば、生まれたときの黄色い毛皮は純白に変わり「ホワイトコート」と呼ばれるようになる。このころの赤ちゃんアザラシは丸丸と太りはじめ、(ぼくたち人間から見ての話だが)もっともかわいい時期になる。

母親の乳首は、下腹部に一対(二つ)ある。赤ちゃんアザラシは、口をひとつの乳首につけてひとしきり、さらにはもうひとつの乳首にくわえなおしてひとしきりおっぱいをもらった。そのあとは、母子とも氷上でごろごろと寝ころんですごしはじめた。

こうして何組かの母子のふれあいのさまを観察しながら氷上の散策をつづけると、そばに母親の姿がなく、独り氷上ですごす赤ちゃんアザラシに出会った。近くには、氷のリードやアザラシが氷にあけた穴がある。母アザラシはおそらくはいまは海のなかだろう。

タテゴトアザラシの母親は子育て中も、子どもを氷上に残して海中ですごす時間が長い。本来、北極圏の氷上で子育てを行う彼らは、そうすることで、捕食者であるホッキョクグマから子が発見されにくくしているという説もある。ただし幸いなことに、ここセントローレンス湾にはホッキョクグマは生息しない。

一方、独り氷上に残された赤ちゃんは、静かに昼寝をしてすごすものもいれば、母親を呼ぶように、「ウゲー」と、けっしてかわいいとはいえない声を出しつづけるものもいる。

ときには独りで待つ間に雪が降ったのだろう、体の半分ほどを雪に埋もれたままの赤ちゃんもいる。

概してアザラシの母親は、出産したあと自分は餌をとることなく、栄養分の豊かな乳を与えつづけ、きわめて短期間に成長させ離乳させてから、子のもとを去るものが多い。そのあとの赤ちゃんは、乳をもらっている間にたっぷりと体に蓄えた脂肪で暮らしながら自分で海に入り、餌をとる術を身につけて独りだちをすることになる。

そのときに向けて、赤ちゃんアザラシたちはできるだけエネルギーを節約しなければならない。そのために、ほとんどの時間を動くことなく、さらに冷たい風を避けるために、雪の窪みや氷塊の陰ですごすことも多い。

アザラシの仲間で、より短期間で赤ちゃんが独りだちする極端な例は、ズキンアザラシだ(タテゴトアザラシと分布域が似ているために、このセントローレンス湾でズキンアザラシも繁殖している)。ズキンアザラシの乳はアザラシのなかでももっとも脂肪分が高く(70パーセントに達する)、それをきわめて高い頻度で子に与えることで、わずか四日間で離乳し、母は子のもとを去る。ちなみにおよそ20キロ強で生まれた子は、四日後に離乳するときにはほぼ倍の体重に成長しているほどだ。

一方、タテゴトアザラシでは授乳は12日間にわたり、ズキンアザラシにくらべれば長いとはいえ、それでもぼくたちの感覚からいえば十分に短いものだ。

独りですごす赤ちゃんアザラシを怖がらせない距離を保ってしばらく眺めていると、やがて氷のリードや穴から親アザラシが顔を覗かせることがある。母親だろう。アザラシは前肢の鋭い爪をスパイクのように氷にひっかけ、一気に氷上にあがると、赤ちゃんに近づいていく。

接近した母子は、たがいに声を交わしあう。さらに接近すると鼻先を近づけあって、自分の子であり母親であるかを声と匂いで確かめあう。この儀式が終われば、赤ちゃんは待ち遠しかったおっぱいがもらえるようになる。

しかし、あたりには何頭もの赤ちゃんがいて、ときには接近しあった両者が母子でないこともある。そんなとき、親アザラシの対応は冷たい。無視したり、相手にしないだけではない。ときには赤ちゃんに嚙みつき、くわえ、宙に放りなげたりもする。

こうして生まれて12日間、母親からおっぱいをもらった赤ちゃんアザラシは、生まれたときに体重およそ10キロ強だった体を、30~40キロの丸丸と肥えた姿に変える。そして、ほんとうに突然に、母親は赤ちゃんのもとを去る。


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