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『顔身体学ハンドブック』はじめに

他者に読み解かれる媒体としての顔・身体のあり方をあぶり出し,コミュニケーションの根源を明らかにしようとする新しい学問としての「顔身体学」。3月下旬に刊行される本書の「はじめに」をお読みいただけます。
文・編者一同(河野哲也、山口真美、金沢 創、渡邊克巳、田中章浩、床呂郁哉、高橋康介) 

本書『顔身体学ハンドブック』は、人間の顔と身体を扱う、心理学・文化人類学・哲学をはじめとした様々な分野の研究を体系的に集成し、それにより「顔身体学」という新しい分野横断的な研究領域を確立することを目的としている。

なぜ、いま「顔」と「身体」なのだろうか。

私たちは、今日、「トランスカルチャー」と呼ぶべき状況を生きている。かつて人間が、一つの比較的同質の共同体の中で暮らし、同じ職業に長年従事し、ジェンダーの役割は明確に割り振られ、同じ言語や習俗、宗教を共有していた時代は、もうずいぶんと遠い過去になりつつある。私たちは、様々な地域を移動し、異なった宗教の人々と隣人となり、短い期間で職業を変え、複数の言語を操り、多様な習俗や芸術を消費し、ジェンダーに固定的な役割を求めない時代に生きている。そうした多元的で多様な「文化」が交差していく場所こそが、私たちの顔であり、身体なのである

顔と身体は、まさしくその人の個人性の表現である。一つとして同じ顔はなく、声であってもすぐに聞き分けがつく、それぞれの体質は変えがたく、私の身体は他者と交換できない唯一無二のものである。しかし同時に、私の顔身体はあらゆる文化の見本市のようになっているかもしれない。私の笑顔は、いかにも日本人らしい含羞を帯びているかもしれない。私の手の動きは、エンジニアとしての繊細さを持っているかもしれない。私の英語の発音は、子どもの頃に過ごしたインド風のアクセントに満ちているかもしれない。私の食の好みは、親の出身地の仙台の味付けを求めているかもしれない。私はブラジル人をパートナーとして、その影響から長年ボサノバを演奏しているかもしれないし、パートナーの家族の宗教である南米的なカトリックの行事に場違いと感じながらも付き合っているかもしれない。そして、私たちは今、脳科学・情報学科学やロボット工学などによって新しい人工身体を獲得しつつあり、バーチャルリアリティやソーシャルメディアなどによってこれまでとは異なった自己の広がりとゆらぎを情報空間の中で経験し始めている。テクノロジーも紛うことなき「文化」である。しかも、それは私の身体の延長でもある。

こうして、私の顔と身体には、自覚しているか否かにかかわらず、様々な「文化」が渦巻いている。顔と身体は、部分的に、自己意識の強い制御のもとに置かれている一方で、無防備に、無造作に、主人が自覚していない動きをするものである。私たちの身体は、様々な人々と交流するうちに、知らない間にその人々の身体から放射される「文化」を身に浴び続けて、徐々に自分の奥底にその影響を蓄積していってしまうものなのだ。そして、その様々な「文化」は私の中で融合し、せめぎ合い、協働し、反目し合っているのである。

顔身体学は、意識・無意識にまたがって働いている私たちの顔身体のあり方をあぶり出し、顔身体を通じた環境との他者との根源的なコミュニケーションを明らかにすることを目的としている。この研究は、必然的に分野横断的にならざるを得ない。顔身体という、個人的であると同時に集団的であり、生理学的であると同時に文化的であり、自覚的である同時に無意識的であるような存在を扱うには、心理学、文化人類学、哲学、神経科学、認知科学、臨床心理学、教育学、社会学、政治学、美学、歴史学、デザインなど、おおよそ人間の顔と身体を対象とするあらゆる分野が共同作業を行わなければならない。

本書は、この新しい分野を体系づけ、これまでの研究成果と新しい動向を明らかにし、分野内での様々な研究や、他分野の諸研究との関連を示し、分野全体の大きな見取り図や概略図をわかりやすく呈示することを目的としている。序で顔身体学とは何かを示し、第1章では顔身体学を理解する上で必要な各分野の基礎的な考え方やその歴史を説明した。第2章では心理学・文化人類学・哲学の各分野が依拠している研究法を紹介し、第3~5章ではそれら主な分野ごとの主要な研究テーマをまとめた。扱われるトピックは、顔認知・心身問題・基本感情・現象学・顔ニューロン・相貌失認・魅力・化粧・仮面や民族衣装・人種効果・言語と身振り・模倣・トランスカルチャー現象・舞踊・音楽・イレズミほか身体変工・ジェンダーとセクシュアリティ・カワイイ文化・ロボット・サイボーグ・アバター・スポーツにおける体感・絵画表現・障害学、など広範囲にわたっている。

本書は、事典的・辞書的に用いることのできるハンドブックのかたちをとっている。どこから読んでも構わない。あえて専門的な詳細を割愛し、本分野に関心を持つ知的なあらゆる人たちにとって、分野全体を広々と見渡すことのできる包括的な概説書を目指した。論述を平易にしたので、専門外の人や学部学生でも読み切れるガイドブックとして使えるだろう。

執筆者一同、今に生きる私たちの人間存在の多様性を、顔と身体を通じて認識し、差異を認めながら、人間どうしの相互の深い理解と交流に資することを望んでいる。

2021年2月
編者一同 
 

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『顔身体学ハンドブック』
河野 哲也 編山口 真美 編金沢 創 編渡邊 克巳 編田中 章浩 編床呂 郁哉 編高橋 康介 編
ISBN978-4-13-011149-2 発売日:2021年03月19日 判型:A5 ページ数:464頁

[内容紹介]
意識的/無意識的に,個人の来歴を表現し,他者に読み解かれる媒体としての顔・身体のあり方をあぶり出し,コミュニケーションの根源を明らかにしようとする新しい学問の概説書.心理学・文化人類学・哲学をはじめとした多彩な分野の主要研究を体系的に集成し,関連分野の研究のヒントが詰まった一冊. ▶東京大学出版会創立70周年記念出版
主要目次
序 顔身体学とは何か(山口真美)
 
第1章 顔身体学の基礎 
1-1 顔身体学概論(金沢 創)
1-2 顔身体論史(河野哲也・田中章浩・床呂郁哉)
1-3 心理学(高橋康介)
1-4 神経科学(渡邊克巳)
1-5 身体化認知(佐々木恭志郎・山田祐樹)
1-6 ロボット工学(温 文・楊 嘉楽)
1-7 文化人類学(床呂郁哉)
1-8 哲学的身体論(河野哲也)
 
第2章 顔身体学の方法 
2-1 科学方法論(佐古仁志)
2-2 心理学実験調査法(氏家悠太)
2-3 神経科学実験法(中島悠介)
2-4 フィールドワーク(西井凉子)
2-5 社会調査(床呂郁哉)
2-6 現象学入門(國領佳樹)
 
第3章 顔身体学のテーマ:心理学 
3-1 顔の心理学1 顔の特性(山口真美)
3-2 顔の心理学2 表情と情動(金沢 創・渡邊伸行・渡邊克巳)
3-3 顔認知の基盤となる脳内メカニズム(岩田沙恵子・月浦 崇)
3-4 顔ニューロンの現在(永福智志)
3-5 顔と魅力(中村航洋・渡邊克巳)
3-6 化粧の心理学(三枝千尋・渡邊克巳)
3-7 顔の多感覚知覚(田中章浩)
3-8 対人関係と顔身体(髙木幸子)
3-9 臨床顔身体論(小林俊輔)
3-10 顔身体の動物行動学(金沢 創)
3-11 顔の発達論(大塚由美子)
3-12 顔と加齢(泉家怜奈・朴 白順・月浦 崇)
3-13 顔身体の障害学・病理学――相貌失認の現在(永福智志)
3-14 文化は認識に影響するか――顔身体との兼ね合いで(上田祥行・北山 忍)
 
第4章 顔身体学のテーマ:文化人類学 
4-1 言語と顔身体(菅原和孝)
4-2 身振り,姿勢と模倣(田 暁潔)
4-3 顔身体とトランスカルチャー(佐藤知久)
4-4 ポストコロニアリズム(田中雅一)
4-5 舞踊・パフォーマンス(吉田ゆか子)
4-6 音楽と身体(野澤豊一)
4-7 身体変工(山本芳美)
4-8 セクシュアリティ(田中雅一)
4-9 カワイイ(kawaii)文化(床呂郁哉)
4-10 管理される身体や装い(山本芳美)
 
第5章 顔身体学のテーマ:哲学・文化 
5-1 顔身体の現象学(小手川正二郎)
5-2 顔身体の社会学(後藤吉彦)
5-3 人種の現象学(小手川正二郎)
5-4 「男らしい振る舞い」「女らしい振る舞い」(宮原 優)
5-5 現象学的化粧論(石田かおり)
5-6 身体学――「体感と問い」の学(諏訪正樹)
5-7 ロボットとサイボーグ(長滝祥司)
5-8 顔身体とアバター(岡嶋隆佑)
5-9 顔身体と美術――描かれた顔,身体(宮永美知代)
5-10 障害学(田中みわ子)
 
終 顔と身体の関係(河野哲也)

コラム
1 身体図式モデル――顔と協調運動(三浦哲都)
2 ムスリム・ファッション(塩谷もも)
3 湾岸地域の仮面文化――顔を隠す? 飾る?(後藤真実)
4 東南アジアのトランスカルチャー状況(床呂郁哉)
5 「複言語使用」とからだがものを言う日常コミュニケーション(吉田優貴)

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