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汝、徒に席を塞ぐなかれ / 藤岡俊博

「エマニュエル・レヴィナスと『場所』の倫理」が東京大学南原繁記念出版賞を受賞したのは、2013年3月のことである。当時を振り返ると、8年の月日が経ったいまでも、狐につままれたような思いがする。

論文は、フランスの哲学者レヴィナスの思想を、「場所」という概念を軸に読み解いたものである。書き終えて、分量に見合う達成感はあったものの、十分に論じきれなかった問題の恨み声が聞こえるようで、製本された論文はむしろ、新たな宿題を綴じ直した冊子に見えていた。ともかくも、2012年4月末に同論文で総合文化研究科から博士号を授与された私は、ご指導いただいた先生の勧めで、5月中旬が締切の東京大学学術刊行助成制度に応募することにした。自分の論文が歴史ある東京大学出版会から刊行されるに値するとは思えなかったが、東京大学の制度を利用することもあり、我ながらほかにやり方はなかったのかと思うが、恐る恐る出版会のホームページの「お問い合わせ」フォーム(!)から、申請に必要な見積書の作成を依頼したのだった。大型連休に差し掛かった時期にもかかわらず、編集局長および哲学分野の担当編集の方から丁寧なメールをいただき、時間的な問題から出版助成のための企画は難しいが、こういう賞があるので応募してみてはどうかと、まだ締切に余裕のある記念出版賞を紹介してくださった。

記念出版賞の存在は知っていたが、賞というのは選考する側が候補を選んで与えるものだと思っていたから、自分で候補に名乗りを上げるという発想がなかった。若干のためらいを抱えつつ、それでも急いで申請を済ませ、半年後の12月に受賞の連絡をいただいたときには、月並みな言い方だがまるで自分のこととは思えなかった。出版会が本郷にあったころで、挨拶に伺うと、編集者の方が何人も暖かく迎えてくださったが、「お問い合わせ」フォームの一件があった手前、最初はどことなくぎこちない空気が漂っていたように記憶している。

その間、状況に鑑みて本当に恵まれたことに、前任校の滋賀大学経済学部への就職が決まっており、通常より1ヶ月早い2013年3月に着任する段取りになっていた。赴任後、といっても春休み中で授業もなく、仕事らしい仕事は始まっていないなか、退職される先生方の送別会を歓送迎会に変えてくださり、彦根高商を土台とし当時は国立大学最大と謳われた経済学部の先生方が集まる宴席で、近江牛のすき焼き鍋を囲みながら新任教員として挨拶する機会を得た。その折に、学部長の先生が、出たばかりの『UP』2013年3月号を片手に携え、私の論文が第三回の東京大学南原繁記念出版賞の一作に選ばれたことをあわせてご紹介くださった。居並ぶ先生方は、多分に酔いの影響もあったと思うが、それはめでたいといった具合に喜んでくださった、ように見えた。4月の着任だったら、そういう場面はなかった。偶然に偶然が、というよりは、僥倖に僥倖が重なって、はじめての関西の地での暮らしが順調に滑り出したのも、記念出版賞のおかげだと思っている。

東京から滋賀への移住など大した移動ではないし、まして異邦の地への彷徨などではまったくないが、故郷ならざる「場所」での居住というテーマ自体はきわめてレヴィナス的なものである。しかもレヴィナスの議論は、具体的な地理空間にとどまらない。「日向ぼっこする場所」に大地の横領の原型を見るパスカルに依拠しつつ、レヴィナスもまた、私が占める「場所」のうちに他者の「場所」の簒奪の痕跡を見てとり、自分の「場所」の正当性をつねに問いただすことを人間存在が有する「非場所」的な性格と捉えていた。レヴィナスがおもに70年代以降の後期思想で展開するこうした議論は、一見すると過激に映るが、実際には第一の主著『全体性と無限』などで展開される、世界に滞在する身体性や、「家」が可能にする空間的・精神的な「内奥性」についての洞察を前提にしている。レヴィナスの思想といえば、「汝殺すなかれ」と訴えてくる他者の「顔」という概念が有名だが、私の論文も、他者を直接に議論の俎上に載せるのではなく、他者との出会いに構造的に先行する「同じもの」についてのレヴィナスの思想を出発点にしたものだった。刊行された本のあとがきに、「本書を終えることで、私はついにレヴィナスを読む準備ができたのかもしれない」と書いたのも、本書が残した課題に応えながら、「場所」の倫理を下敷きにしたレヴィナス思想の再読を自分に課すためのものである。

しかし、実際にそう書いたときの気持ちを正直に述べると、すでに作業が始まっていた『レヴィナス著作集』(共訳、全三巻、法政大学出版局)の翻訳を除いては、狭い意味でのレヴィナス研究にはひとまずの区切りをつけ、以前から関心を持っていた「功利性(utilité)」をめぐる思想史的研究に専念するつもりでいた。これは「社会科学における反功利主義運動(MAUSS)」を主導するアラン・カイエの著作を翻訳したことがきっかけで浮かび上がったテーマである(『功利的理性批判 民主主義・贈与・共同体』以文社、2011年)。マルセル・モースの『贈与論』をめぐる哲学的な解釈や、現在も継続している「利益」の概念の系譜学など、著作の刊行後しばらくは、この方面の研究を中心におこなっていた。

そうしたなか、自分に課していたレヴィナス再読の機会は、存外に早く、思いがけないかたちで訪れた。レヴィナス研究の第一人者であり、学生時代からお世話になっている合田正人先生から、『全体性と無限』の新訳へのお声がけをいただいたのだった。2015年の夏のことである。共訳を前提とした翻訳は、最終的に私の単独訳で刊行させていただくことになるのだが(講談社学術文庫、2020年)、その日から私はふたたびレヴィナスのテクストとの対話に取り組むことになった。対話に取り組むというと行動力の疑わしい政治家の公約のようだが、私の場合はそんな美辞麗句とすら違って、むしろ相撲でいう「取り組み」に近い、身体的な「取っ組み合い」だった。

一般にはあまり知られていないが、『全体性と無限』は、非常に不安定なテクストである。もとはレヴィナスの国家博士論文であるこの本は、1961年に初版が出たあと、何度か版をあらため、安価で簡便なポッシュ版(文庫版)も存在している。初版には、レヴィナスが気の毒に思えるほどの数え切れない誤植があった。大半の誤植は1990年のポッシュ版で直されたが、この版もまた新しい誤記を数多く含んでいて、信用するにはあまりに頼りないものである。翻訳するにあたって、初版とポッシュ版の確認だけで十分だろうかと悩んだ末に、手元になかった第二版(1965年)と第三版(1968年)を取り寄せ、第四版(1971年)もあわせて、気になった箇所をいくつか照らし合わせてみた。すると驚いたことに、第二版で見逃された誤植が第三版で修正されていたり、初版・第二版・第三版のすべてで単語が異なるケースがあったりして、テクストの確定は一筋縄ではいかないことがわかった。ちなみに、改版に際しての著者の前置きや但し書きは一切ない。私自身、テクストにこれほどの揺れがあるとは思わなかったので、まわし、ではなく、ふんどしを締めてかからねばならないと覚悟を決めて、本文を一字一句、すべての版で比較することにした。指で文字をなぞりながら、段落ごとに見くらべる作業を、初版からポッシュ版まで五つのバージョンを対象におこなうという気の遠くなる作業だった。異同があった場合には、やはり指で行を数え、ひとつずつエクセルの表にまとめていった。この照合だけで計五回、同じ文章を読んでいるわけだが、試訳をつくったあと、既存の合田先生の訳と熊野純彦先生の訳を読みくらべ、さらに英語訳とドイツ語訳に目を通した。さきほど触れたあとがきで、「ついにレヴィナスを読む準備ができたのかもしれない」と書いたものの、学生時代から20年近く付き合ってきた著作を、短期間で10回も読み直すことになるとは思っていない。極度に集中力を要する作業で、訳文の推敲とあわせて、ひどいときには一ページしか進まない日もあった。それでも、投げ出したくなる気持ちを抑えて続けているうちに、こんなことをやる人間は世界で自分しかいないという奇妙な責任感が芽生えてきて、なんとか4年がかりで翻訳を終えることができた。650箇所に及んだ異同のほとんどはつまらない誤植だったが、初版の「否認する(démentir)」が第二版で「反駁する(réfuter)」に変えられた箇所など、レヴィナス自身の介入を示唆する相違もあって、照合作業をおこなわなければ発見できない新しい読みの可能性を提示することができたと思う。

翻訳の過程であらたに気づいたこともあった。自分にとって大きかったのは、先述した「功利性」の思想史に対するレヴィナスの位置づけを明確にできたことである。「非場所」がひとつのキーワードとなる後期著作で、レヴィナスは「無私無欲性(désintéressement)」という概念を多用するに至る。これはレヴィナスがスピノザの「存在することの努力」やハイデガーの存在への「気遣い」を批判的に解釈するにあたって、「内存在性(intéressement)」を超出した様態を表すために、利害関心を離れた美的判断という通常の美学用語を超えた、いわば存在論的概念として術語化したものである。この語は『全体性と無限』にも登場はするが、頻度は少なく、寛大さの同義語以上の役割も与えられていない。しかし、「功利性」をめぐる思想史を経由して『全体性と無限』を再読してみると、「場所」の倫理を語るこの著作でもすでに、レヴィナスの思想の根幹がこの概念を軸に形成されていたことがわかる。

私の解釈するレヴィナス思想の核心は、〈人間が生きるために「場所」を必要とするという単なる事実からは、いかなる権利も発生しない〉、という根本主張にある。これは、自己保存を第一の利益とみなし、事実的な存在に優越的な価値を据える思想へのアンチテーゼである。生きるという素朴な意欲や、自分の存在への自然な愛着それ自体が否定されているのではない。レヴィナスの議論は、事実的次元と権利的次元の区別にもとづいて、前者を後者の基礎と位置づけてきた思想潮流に対する異議申し立てである。ここには、より一般的に、人間の自然的な権利を考えるうえでの二重の含意がある。第一に、人間が本性上もつとされる権利などは存在せず、権利はつねに法的な次元で規定され、保護されなければならない。第二次大戦中、捕虜収容所にいたレヴィナスは、自分たちを唯一、人間扱いしてくれたボビーという名の野良犬を思い出しながら、自然権を「犬の名」(フランス語のイディオムで「こん畜生」という罵倒の言葉)と並列に置き、その自明性に疑問を投げかけている。第二に、現に存在することはただの事実にすぎず、それだけでは同じ「場所」に存在し続ける権利を保証しない。たとえ正当な「場所」の所有であっても、それが正当であればあるほど、その正しさに震え、正しさを問わなければならない。もちろんその仕方は、「場所」を占めるひとそれぞれに任される。

捕虜収容所から帰還したレヴィナスは、生き残ったという事実をまえにして、「すべては空しいか」と、コヘレトの言葉に問いを返しつつ、ユダヤ人子弟の教育の再建という新しい意味をこの事実から導き出そうとした。

同じころ、東京大学総長の南原繁は、1948年の入学式での式辞で、学問的真理は生を享受したり職に就くための手段ではなく、それ自体として悦びと情熱をもって探求しなければならないと新入生に呼びかけている。そして南原総長は、生と学問を不可分のものとして、今後の大学生活、さらにはその後の人生を歩んで欲しいと、新入生に次の言葉を向けていた。

「汝等徒らに席を塞ぐな」(『新装版 文化と国家』、東京大学出版会、2007年、253頁)。

私はどうだろうか。南原繁の名前を冠する賞をいただいたことにあらためて感謝し、もう一度この言葉と向き合いたい。

(ふじおか・としひろ フランス哲学・思想史)

初出:『UP』584号 (2021/6)

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