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建設現場を飛びまわる/江本 弘

今年の春、「桂離宮神話のグローバル・ヒストリー」をテーマとする論文が学会誌に掲載されるタイミングで、私は京都に越してきた。この巡りあわせは、イギリスに行ったことのないモグリのラスキン研究者に対する、ラスキンの霊のイヤミだろうか。しかし、そう思いながら桂離宮への初詣を果たしたのは、ようやく7月になってからのことである。私はいま、京都美術工芸大学で人生初の教鞭をとっている。この大学は英語名をキョウト・アーツ・アンド・クラフツ・ユニバーシティというのだから、ここにもラスキンとの因縁を感じざるをえず笑ってしまう。

私が博士論文でテーマとしたジョン・ラスキンは、『モダン・ペインターズ』(1843─60年)や『建築の七燈』(1849年)などの著作で知られる、ヴィクトリア朝イギリスを代表する美術・建築理論家であり、場合によっては「近代建築理論の父」とも称される。彼の『ゴシックの本質』(1892年)は、ウィリアム・モリスの序文とともに、19世紀末アーツ・アンド・クラフツ運動のマニフェストとして有名である。

博論をもとにした拙著『歴史の建設──アメリカ近代建築論壇とラスキン受容』(2019年)では、そのようなラスキンに対するアメリカ国内のいわば「うわさ話」を徹底的にかき集め、その語りを生じさせた知識環境と、語り部自身の建築観を浮かび上がらせようと試みた。そしてそれは私の期待通り、ラスキン受容史の枠をこえ、アメリカ近代建築思想の通史としてまとまることとなった。ポスト・トゥルース現象の表皮をはがし、うわさを広めた当人たちの胸の内をのぞき込もうというその試みは、私がおし進めてきた「受容史」という方法論の、正しき中間到達地点であった。

私がラスキン受容史研究にのめりこみはじめたのは修士課程からのことである。しかし、修論(2010年)と博論(2017年)を隔てる7年のあいだには、自らの「受容史」の方法論に決定的なジャンプがある。この間、私は「グローバル・ヒストリー」なる術語を知り、修論以降の暗中模索に名前がつけられることを知った。ラスキン受容史研究からの、離脱の道すじもぼんやりと浮かびはじめていた。

ラスキン受容史を、グローバル・ヒストリーへと。そしてラスキン受容史からジャポニスム研究への転向。この、ハタから見れば奇妙な私の足どりは、いったいどのような力に導かれたものだろうか。

私が修論研究の着想を得た2000年代末とは、いまでいうデジタル・ヒストリーの黎明期である。グーグル・ブックスの本格運用が開始されてからはすでに数年が経っており、学生のあいだにもその存在は広く認知されはじめていた。それに目をつけた私は、机上の史料調査にいまどれだけの威力があるのかを試してみたかった。人間ひとりの身体能力では絶対に手に負えない量の情報を、歴史家ひとりが背負わなければならない時代が迫っている。その先鞭をつけるならいまだ。

手の届く範囲の技術でこのアイデアをものにするには、検索語のチョイスが鍵になる。それが研究のスケールを決定的に左右する。そうして書かれた修士論文のスケールが、その後の研究のパースペクティブを導いてゆく。予想される史料の数や、史料から見えてきそうな世界の広さを鑑みても、「ラスキン」という名前は検索語としてうってつけだった。

現在(2021年10月20日)のグーグル・ブックスでは682件ヒットする「ラスキン」は、2009年時点だとたしか150から200件にとどまった。またウェブ検索は基礎調査には大きな威力を発揮したが、ウェブ上では全文閲覧できない史料のコピーには結局、国会図書館に入り浸る必要があった。そうして、電子化されていない、検索に引っかからない史料を探りだす労もまたばかにはならなかった。

しかしそんな文句を垂れながらも、私はその、デジタル・ヒストリー黎明期の研究環境を目いっぱい楽しんでいた。「受容史」という方法の、情報技術との相性を肌で感じることもできた。この修論での成功体験が、私の次の一歩を導いた。

まず、検索語としての「ラスキン」の便宜は、ほかのどの言語にも当てはめることができる。その名前をもつ有名人が数えるほどしかいないからだ。そうして、修論で感じた不満も研究をドライブさせた。日本のラスキン受容史研究は、「日本の」ではなく、ほとんど「東京の」に等しい一極集中の史料群をもとに構成された。そこで私は、東京という「点」からはじまった研究を、きっと首都の論壇同士ではあれ、世界の「点」同士を結ぶ「線」へと、そしてそれらの包括的ネットワークとしての「面」へと育てていこうと考えた。

しかしこうして乗り出した「世界のラスキン受容史」研究では、世界史的研究の過酷さと、手もちの道具の貧しさを思い知らされた。たしかに各国の電子アーカイビングは進歩を遂げつつあり、日本に居ながらにしてできることの幅は日を追うごとに広がっていった。しかし史料の収集率に対する懐疑や不安や不満は、モニターの前に座ったままでは解消することはできない。私はそんな思いに駆られてヨーロッパ諸国を経めぐり、追加の史料収集にいそしんだ。しかし、集められたラスキン言及史料の堆積は、ただそれぞれの山として眼前に聳え立つだけで、世界史という風景を見せてはくれなかった。

しかし、これらの調査のなかで気づいたこともある。それは、「相手が書いたものを読める」ということの、情報伝達における重要性である。特に「原文で読めること」は、共時的な情報共有に大きく影響する。そういった単純なことが、情報の流入出のベクトル、あるいは情報の共有範囲を規定する。情報移動を制約するほかの物理的な要因でもなければ、それが国境の縛りを超えた文化圏を形成させる場合だってあるのだ。たとえばそれを、「読者圏」などと呼ぶこともできるだろう。

現地調査を繰り返して気づかされたのは、そうしたさまざまな言語の「読者圏」の共通集合として、チェコやフィンランドといった、旧被支配国が情報のノードとして果たした役割の大きさである。彼らは複数言語を操り、異言語間の情報交換の橋渡しの役を担った。しかし現代の私たちは、歴史研究者としてのみずからの言語駆使能力に阻まれ、そうした情報ネットワークの実態や帰結を知らないまま、「大国」「強国」が編纂した近代建築史の大きな物語を享受することを余儀なくされている。

このように、当時の私は、電子と物理の世界を右往左往しながら、自分なりの世界史研究の作法として「受容史」を開拓していった。「脱欧米大国中心史観」あるいは「ネットワークを重視した世界史研究」といった着想は、こうして私のなかでの比重を増していった。それはお題目としてではなく、みずからの方法論を推敲していくなかでの自然の帰結だった。

2014年末に知った「新しい世界史」(Global History Collaborative, GHC)のプログラムと、そこで提唱された「グローバル・ヒストリー」の概要は、こうした自分の歴史研究像や世界観に言葉を与えるものだった。加えて、そのプログラムが行っていた交換留学の派遣先にはプリンストン大学の名前があった。それは、それまでラスキン受容史研究で避けてきたアメリカで、腰を落ち着けて研究できるチャンスを意味した。

ヨーロッパ諸国での資料収集の遍歴には、史料収集の効率という建前もあった。しかし、アメリカ研究を先延ばしにしていた理由はそれだけではない。そこが近代建築史の一大生産国である圧倒的大国あるいは強国であり、その本丸に乗り込むことには他の史料調査とは異なる意義があった。それはつまり、「近代建築史を書き換える」という挑戦状を叩きつけに行くことにも近かったのである。

「アメリカという『合州』国を世界の都市的情報ネットワークのミニチュアとみる」という博論のアイデアは、この留学のタイミングあってこそのものだったと言ってよい。修論以降の試行錯誤あってこそ、ぼんやりと兆していたそのアイデアは、現地大学の土を実際に踏みしめ、その研究環境の充実を見せつけられたときにはっきりと言語化されたのである。また、国によってまちまちだったデジタル・ヒストリー環境を経験してこそ、アメリカ現地の研究環境を、当時最先端だという実感をもって遊び尽くすことができた。

そうして書きあげた博論で第八回東京大学南原繁記念出版賞を受賞できたことは、光栄であると同時に、ラスキン受容史をケーススタディとした受容史の実験にひと区切りをつけるタイミングともなった。修論以来の手慣れた道具は使い尽くし、自分が表現すべき世界モデルのイメージは多少なりとも具体化した。ここで一度「ラスキン」から離れて、「受容史」そのものの可能性を追及していくべきときなのではないか。

ここまでの私の研究歴を振り返るならば、日本のラスキン受容史研究では「単一検索語/単一言語/低効率検索」であったものを、博士課程初期の研究では複数の言語について「単一検索語/単一言語/中効率検索」へと展開させた。そして博論では「単一検索語/単一言語/高効率検索」のアメリカ建築論壇通史をまとめることができた。

この技術上の展開を「複数検索語/複数言語/中効率検索」へと進め、科研費(若手研究)をとって自ら文献史学のビッグデータ解析アプリケーション開発に乗りだした、という段階がいまの私の「建築のジャポニスム」研究である。この「ジャポニスム」という言葉はふつう19世紀後半から1900年前後までのフランス(語圏・語読者圏)における日本受容を指すが、私が主に対象としているのは20世紀全体、特に、狭義の「ジャポニスム」が廃れたとされる、第一次世界大戦終戦以降の歴史である。

ここでついに、複数言語の受容史研究が具体的なかたちを取りはじめた。博論は、ミニチュア・グローバル・ヒストリーの試みとしては功を奏した。そのかわり、史料はほぼ英語となることを余儀なくされた。このトレードオフをどこかで取り返さなければならない、という思いが常に頭のどこかにあった。

その霧が晴れたのは、2018年の冬から半年間、スイス連邦工科大学チューリッヒ校の建築理論・歴史研究所に留学していた時期のことだった。同研究所が擁するアーカイブに、前川國男、吉田鉄郎、小池新二といった日本人と、近代建築史の大家ジークフリート・ギーディオンらとの密な交流の跡を見いだしたためである。前川はフランス語で、吉田はドイツ語で、小池は英語でそれぞれ手紙を書き、彼らの交流は1920年代末に遡った。

日本とスイスの情報交流。ドイツ語読者圏をきっかけとする、読者圏モデルの歴史学的実験。ここから、アメリカ研究で実験したグローバル・ヒストリーの歩みを、国境を越え、言語障壁を越えた、文字通りのグローバル・ヒストリーへと進めることができると直感した。

こうして思いついた研究イメージを、私はひとまず「ジャポニスム研究」と呼んではいる。しかしそれが、「日本人研究者が国外で日本建築受容の足跡をたどる」というだけの、矮小化されたものに収まってしまうことは絶対に避けなければならない。私が遠くに見ていたのは、私が日本人でなくとも、そして私や他の「日本人」の日本建築観を完全に括弧に入れても、さらには「日本」という文化的統合体の存在を括弧に入れてさえ妥当性をもつ、日本建築受容を介した近現代建築思想のグローバル・ヒストリーだった。

この悩みのなかでアメリカの雑誌『ハウス・ビューティフル』の奇妙な号に行き当たったのは、スイス留学中の年の暮れのことだった。その建築・インテリア雑誌は、1960年の8月号と9月号の2号をかけ、「シブイ(=渋い)」を特集していた。8月号の表紙は桂離宮。当時の私にとって、その異様な佇まいは青天の霹靂であったばかりでなく、同時に導きの杖とも映った。その言葉を検索語に据えれば、異言語間の情報の流入出を、その社会的要因とともに、きわめて編年的に、おそらくは世界的にたどることができる。そしてその「シブイ」を発話者がいかに定義し理解しているかが、すなわち彼ら・彼女らの建築観と密接に関係する。それらの建築観の相互的な影響関係が、さらにグローバル・ヒストリー研究にフィードバックされていく。この着想は、「建築語彙のなかの『シブイ』とその国際化過程」(『日本建築学会計画系論文集』第85巻769号、2020年3月)として論文化された。

導きの杖としての「シブイ」は、同様に「桂離宮」についても言える。グローバル・ヒストリー研究上の検索語としての便宜で言えば、「シブイ」にまさる広範な参照事例をもつことは容易に想像がつくだろう。桂離宮受容の先行研究では井上章一『つくられた桂離宮神話』(弘文堂、1986年)が有名だが、そのなかで豊富に引証された史料群のほぼすべては、ブルーノ・タウトの著作も含めて日本語文献である。しかし当時は越えることのできなかった史料収集と言語の壁を、現代ならば越えることができる。桂離宮受容の基礎研究として、現在やるべきことがある。「桂離宮神話──グローバル・ヒストリー概観」(『日本建築学会計画系論文集』第86巻781号、2021年3月)では、そのような問題意識をもとに、英語、ドイツ語、フランス語、イタリア語、ポルトガル語史料を用いて桂離宮受容の道のりをたどった。

こうして建築のジャポニスム研究を進めるなかで、私は並行して、近現代建築史の通史書の収集をはじめた。もちろん言語は問わない。そこで観察されたのは、特に2000年ごろからの著作に世界史の志向が強いことである。それらはときに「グローバル・ヒストリー」を冠する。しかし私は同時に、こうしたさまざまな通史が「世界」あるいは「グローバル」の名前を保っていられるひとつの要因として、アジア諸国のなかで辛うじて日本を含んでいるからである、ということに気づいてしまった。そうなると、「新しい近現代建築のグローバル・ヒストリー」の構築のまえに、そもそも「近現代建築史にとって『世界』とはなにか」という疑問が脳裏にふくれ上がっていく。私のジャポニスム研究は、この陳腐化したヒストリオグラフィー成立のからくりを明らかにするためにも、巡り合うべくして巡り合ったテーマだった。

『歴史の建設』が刊行されてからしばらくは、その表紙に掲げられたラスキンの含みのあるまなざしが恐ろしくもあった。それはたとえば、わが師、鈴木博之先生晩年の、こちらの煮えきらない研究ビジョンを見透かす透徹した視線にも似ていた。鈴木先生は当時、私の研究の進捗報告に黙って耳を傾けながら、きまって一言、「それで、どうするの?」とだけ言い放ってこちらを黙らせるのだった。

それで、どうするのだろう。いまの私のジャポニスム研究はどこに行きつくのだろう。しかしこの単純な反省を繰り返しながら、正しい、楽しいと感じた方向に歩を進めれば、そこで啓けるものは必ずある。ここ数年間のさまざまな巡り合わせは、そう信じてラスキン受容史研究に飛びこんでいった修士学生時代の初心を、改めて思いださせる新鮮な発見に満ちている。私の本能的な選択には飛躍がある。しかし後悔のない選択には、必ずあとから納得のいく説明がつく。

ラスキンの霊は、きっとまだ私にとり憑いている。しかし彼はいまや、自分のことを研究しろとは命じてこない。まして、いいかげんおれの墓を詣でにこいなどという、恨めしげな目を向けてくることもない。

彼はただ、冷や汗と脂汗にぬめりながら、地球上でちいさな跳躍を続けていく私のことを黙って見守っている。

(えもと・ひろし 近代建築史)

初出:『UP』590号 (2021/12)

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