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『永井荷風』との距離/多田蔵人

トーマス・ベルンハルトの『私のもらった文学賞』(Meine Preise, 2009.池田信雄訳、平成二六、みすず書房)は、作家が出席したかずかずの授賞式について、式が行われた建物の壮麗さ、儀式の進行ぶり、列席者の言葉、聴衆の態度などなどを冷静かつ精密な筆致で描き、それぞれの式における経験がいかに侮辱と無理解にみちたものであったかを伝えながら、文学賞という現実に〈文学〉の奇妙な位相を浮かびあがらせる、ほとんど小説と呼びたいような随筆集である。

大学時代に『消去』を読んで熱中したベルンハルトのようには、あたりまえだが私は書けない。この大作家は生涯に十三ないし十四の賞の受賞者となったということだが(「訳者あとがき」)、私が自分のつくったものに対して名前のついた賞をいただいたのは、拙著『永井荷風』に対する東京大学南原繁記念出版賞ただひとつ。ただし念のため申し上げると、私は平成七年、小学校六年生のときに「たおれない本棚」という工作品で山形県最上郡の中小企業が主催する賞を受賞したことがある。机の上に置くような10冊分くらいの本棚の底面をあえて右肩上がりに傾け、ブックエンドがなくても倒れないようにした、なかなか味のある本棚だ。しかし残念なことに、この賞の方は正確な名称がどうしても思い出せない。賞の名前に「中小企業」という言葉が入っていたように覚えているものの、受賞の折にいただいた賞状もガラス製の素敵な盾も、気づけばいつのまにかなくしている。この文章を書くにあたって山形県金山町立金山小学校に照会したが、それに類する名前の賞はもはやなく、卒業後20年以上経ったため、私の指導要録は破棄されているということだった。文献実証を基本としてきたこれまでの方法に準じて、私は「たおれない本棚」の受賞歴を数えないでおきたいと思う。ちなみに電話に出たのは現在金山小学校に勤める私の元同級生だった。彼女は私がそういう賞を受賞した事実などまったく覚えていない。くだんの本棚は今、赤と茶色のペンキをまぜて紅殻色のペンキをつくってくれた、私の母親が使っている。

平成二八年三月十八日に総合図書館(改築前の建物の、かつて雑誌室だった一隅)でとりおこなわれた授賞式では足がふるえ、スピーチをつぶやくように終え、その後の懇親会では文字通り全方位に何度も頭を下げつづけた。賞の偉大さ、ありがたさは私などが申すまでもない。それから5年間、南原賞をいただいた事実はさまざまに作用し、何より私を永井荷風という人につなぎとめてくれている。

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私の出発点は日本文学の典拠論だった。ひとつの文章は別の文章を換骨奪胎してなったものであり、拠りどころとなったその文章(典拠)もまた、別の文章を引用している─時とともに継承され、あるいは分岐し姿をかえていく文章のありかたを、典拠をたしかめながら探る研究スタイルである。

21世紀初頭の東京大学文学部では、この方法に関連する講義や演習がわりあい多く開講されていたように思う。河をのぼりくだりするように言葉の流れをなぞる作業に魅せられた私は、荷風の文章をその重要な結節点としてとらえようとした。日本の近代文学は古典世界とのちがいを強調される傾向があるけれども、むしろ近代文学には古典と同じかそれ以上に多様な「典拠」のとりかたがあって、そこには異文化の氾濫と古典世界の崩壊を体験した言葉の生態学を見ることができる。西洋と江戸の「影響」をともに受けたといわれる永井荷風は単に西洋を輸入し古典を継承したのではなく、こうした言葉の雑居状況をしたたかに物語化していった作家である─『永井荷風』のもとになった博士論文には、言葉たらずにそうしたことを書きつらねてある。

しかし博士号を取得して平成二七年に鹿児島大学に赴任したあたりから、私自身はもう少し別のことを研究してみようかと思いはじめていた。まず、荷風以外のすぐれた作家たちの作品をとりあげながら、「引用」と「典拠」を手がかりとして近代物語言語の歴史を描出する研究である。すでに谷崎潤一郎や二葉亭四迷について書いていた論考を、幕末維新期や矢野龍渓、森鷗外などの時代から、鹿児島で出会った島尾敏雄、あるいは大江健三郎あたりの時期まで広げて書き、物語の文体史を書き残しておきたいと思った。

それから書物と文学の歴史。近代文学の展開は、書物の姿が激変してゆく時期と重なっている。したがってこの時期の日本には奇妙な本が数多く存在していて、たとえば何十年たっても同じ形で出版されつづけている本や、短期間に何百版も出版されたことを宣伝した本、過去に出版された本の形を原本以上に精密に復元した本などもある。詩歌や小説のなかに登場する書物が、メタファーのような役割を果たすことも多い。近代の読者たちは文章の内容だけを読んだのではなく、まさにこれらの「本」を読んでいたわけだ。彼らが見た「本」の形や、文学作品にあらわれた「本」を書物環境とともに追ってみることで、フィクションの存在形態が見えてくるのではないかと考えていた。

これらの研究のいくつかは実際に発表してきたが、この体重移動の背景には、鹿児島という町の居心地のよさがある。鹿児島大学には面白い教員と学生がいて、どんな大都市からも遠い町では、くだらない学閥など一切気にする必要がなかった。九州の古書店の方々は資料の見えないヒダについて適切なアドバイスをくださり、文学館や図書館の方々、そして東京在住の島尾敏雄のご遺族は、奄美大島におさめられていた島尾敏雄資料の扉をこころよく開いてくださった。明治維新150年記念の年には近代研究に大きな予算がつき、荷風ならば口を極めて罵っただろう事業のかずかずに私は嬉々として参加し、近代図書館の歴史などを心楽しく調べて九州の海岸をまわった。音曲と詩歌の近代、戦争と文学、旧制第七高等学校造士館の研究。長崎の唐通事、岡山・大分・熊本をつなぐ新聞人のネットワーク、宇和島の蔵書家、日田の漢学塾。中四国と九州は文字通り宝の山だった。豪雨と強い光の交錯する鹿児島や奄美の日々に私はすぐに魅了され、同時に自分がどれほど東京の暮らしに嫌気がさしていたか、心づくことになったのである。

赴任したころに応募した南原賞を受賞したと半年ほどして知ったとき、複雑な思いが胸をよぎらなかったといえば嘘になる。帝国大学は荷風の父・久一郎が帝国大学書記官(のち文部省参事官)として関わった機関。授賞式のあった総合図書館は、荷風が祖父の記憶につらなる『下谷叢話』を書いていた頃に日参した南葵文庫(もと、麻布飯倉)を収蔵する図書館。荷風の弟である威三郎は東京帝国大学の卒業生であり、荷風は戦後社会において「裏返しにした南原繁」だったと評されたことがある(河盛好蔵「女体の賦」昭和三九・六「文学界」)。考えてみると荷風をとりまく人や書物が集まっているこのエリアには荷風だけが足を踏み入れなかったわけだが、おそらく最も荷風から遠かったのは、なみいる秀才たちのあいだで小さくなり、何だか場違いのようだなどとつぶやいていた私ではないかと思う。

荷風から離れたとさえ思っていた自分が不意に「永井荷風の人」になってしまった驚きととまどいは、その後ずっと消えなかった。出版までにあたえられた一年の猶予のあいだ(この猶予待遇は各種の学術出版賞のなかで最もすばらしいものである)、光栄にみち、新しい知見もいくらか増えていたはずの本の手直しは、遅々としてすすまなかった。論文集が「自分の著作といふよりは、寧ろ、既に死んでしまつた或る親しい友人─其の生涯の出来事を自分は尽く知り抜いて居る或る親しい友人の遺著であるやう」(荷風『戯作者の死』)に見えたことも一度や二度ではなかったように思う。フランスと日本のあいだ、江戸と近代のあいだで宙づりになっていた荷風と同じく、私も二つの都市と時間のあいだに立っていた。この本のなかにはすこし、そういう分裂のあとがあるかもしれない。

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平成二九年三月に出た『永井荷風』はなんと半年で重版し、重版の少し前あたりから、毎年すさまじい量の依頼原稿が舞いこむことになった。本誌執筆者にははるかにたくさん書いている方もいると思うので恐縮ではあるが、それまでせいぜい年に百枚も書けば良い方だった生活が急に年間四百枚ほどの締切りを抱えこむことになったのだから、驚きのほどを憫察してほしい。いわゆる新出資料もいくつか現れ、それらを目撃する幸運にもめぐまれた。折しも平成三一年は荷風の生誕百40年と没後60年が重なる年で、東京へ出かけていって話す機会を何度かいただいた私は、その前年に明治維新150年記念事業を手がけた事実などおくびにも出さずに講演を行った。この頃、市川の大黒屋、浅草のアリゾナキッチン、同じく浅草のアンヂエラスが閉店した。いずれも荷風の通った店である。私は大学の近くに新しくできた、いずみ珈琲店のコーヒーに夢中だった。岩波書店からは『花火・来訪者 他十一篇』(平成三一)、『荷風追想』(令和二)という二冊の文庫を出版し、『荷風追想』は文学愛好者の間で知られる東京堂書店の週間ランキングで何度か一位を記録し、またしても重版の恩沢をこうむった。荷風を好む人がどこかにいるという事実はやはり嬉しい。今でも日常生活ではしばしば「永井荷風ですか……『蒲団』、でしたね」と言われる─なぜか東京大学の卒業生に多いので注記しておくと、『蒲団』は荷風ではなく田山花袋による小説である─という、もう一つの事実を慰めるに十分である。

たぶん、荷風と私をめぐって起こった出来事のすべてではなくてもほとんどが、南原賞を受賞したことと関わっているのだと思う。事態はなおも続いている。私は受賞を心から喜んでくれた鹿児島の人々と離れて、今年度四月、東京都立川市にある国文学研究資料館という研究施設に赴任した。今度の職場では文献学の研究に携わっている。

私の尊敬する前任者によれば、文献学(フィロロギー)とはもともと言語学と意味論、そして書誌学にまたがる巨大な概念であり、現実の書物を通じてもはや現存していない意味を探る学問だったのだという。日本の書物の全体像をもとめながらありえた意味を再構築してゆくプロジェクトは始まったばかりだが、古典と近代にまたがって研究をすすめながら大都市の人々があまり見ない書物を見ていたことが、この仕事を任命された理由であるらしい。そして誰も言わないけれども、第六回東京大学南原繁記念出版賞の受賞者であることももうひとつの大きな理由なのだろう。これまで分裂を抱えたまま描いてきた「日本」の像をどうするのかと、『永井荷風』が五年たって問いかけてきたような気味あいである。

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そうかこれから東京に住むのか、と思って最初に足を向けたのは、やはり麻布の偏奇館跡だった。近所の喫茶店でアルバイトしたこともあり、このあたりには個人的な記憶もいくつかある。六本木の交差点から変わりはてたロアビル附近の光景に愕然としつつ飯倉片町まで進み、六本木一丁目の方に曲がる。私が学生のころから泉ガーデンタワーはあったが、道路を挟んで向かいにあったコロニアル風のレストランは今はもうない。泉屋博古館を望み、荷風が愛した崖や坂を覆いつくしているエスカレーターで上り下りすれば、偏奇館跡の看板が久しぶりに見える。もと山形ホテルだった角をまわり飯倉片町のほうに戻って坂下を歩くと、戦前に松竹や宝塚の人々が住み戦後はテレビ関係者のたまり場になった和朗フラットの一室で、ロベール・クートラスの展示が開かれていた。

南原賞はたぶん、1500キロをへだてた荷風と私を繋ぎとめてくれたのだが、自分が「永井荷風の人」であるという幸福に、まだ私はなじんでいない。むしろ一度開いた距離の方を忘れないでいたいと思う。荷風が東京に対して保っていた距離にも、この1500キロはどこかで通じているはずだ。

距離を欠いた思考だけは信用できない。そういう考えかたは、おそらく、長く荷風のことばに身を浸した体験に由来する。やはり私にはベルンハルトよりも永井荷風だ――「鬼のくび取つたやうな心持、誰も同じ事なるべし」(大正八・五『文章俱楽部』。青年時代、懸賞小説に当選したことについてのアンケート回答)。

(ただ・くらひと 日本近代文学)

初出:『UP』586号 (2021/8)

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