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【試し読み】序論「経験的システム論への転回――社会学における理論の地平とマスメディア」より

難解といわれるニクラス・ルーマンの理論を、誰にでも使える・わかるものとして展開することをめざした新刊、佐藤俊樹著『メディアと社会の連環――ルーマンの経験的システム論から』。序論冒頭を公開します。ぜひご覧ください。

1 経験的研究と「理論の不在」

 1・1「溶解」する社会学

 本書はニクラス・ルーマンが切り開いた社会の自己産出系論、すなわちコミュニケーションシステム論を「中範囲の理論」として展開したものである。それを通じて、現在の社会学における理論の可能性を探ることをめざしている。

こうした試みは日本語圏でもすでに先行研究があるが、(毛利 2012、坂井 2021など)、私自身は特にシステム論の理論構成と現代社会との関わりに焦点をあてて、この10年余りにいくつかの論考を書いてきた。本書はそれらをまとめたものである。

なぜそんなことを考えたのか。「中範囲の理論」として自己産出系論を位置づけるとは、どういうことなのか。この序論ではそれらを解説しながら、各章で何が書かれているかを紹介しておこう。

社会学という学術から、かつてのような理論への信頼が失われて久しい。「マルチ・パラダイム」状況も通り過ぎ、むしろ「理論の不在」に近い。「理論社会学」という専門分野を名乗る人も、大きく減った。「理論」という言葉で何をさすのかさえ、はっきりしない。そんな、あてどのなさのなかにある。

そういう今だからこそ、社会学における理論の意義と可能性をあらためて考える必要がある。かつて重度の「理論社会学嫌い」だった自分が(佐藤 2008a:8)、そんな風に考えていることに少し不思議な気分もするが、理論はその学術分野の基本的な考え方を言語化したものだ 。だとすれば、「理論の不在」はその分野の独自性が見えにくくなっていることでもある。

独自性を失えば、自分自身を見失う。場当たり的な説明をくり返すことになり、社会評論とも区別がつかなくなる 。学術としての社会学とはほとんど関わりないのに、「社会学者」と呼ばれたり、名乗ったりする人がふえているのは、その一つの証拠だろう、今はまだ目立たないが、そうした「溶解」はすでに始まっているように思う。


1・2 理論と楽しさ

 だとすれば、社会学の理論として、今どんなものがありうるのだろうか。

 これまで社会学で「理論」と呼ばれてきたものにはいくつか種類がある。

 一つは一般理論だ。「社会とは~である」という、普遍的に妥当する(はずの)命題を見出して、それにもとづいて社会の成り立ちや個々の事象を考察し分析する。マルクス主義の社会理論やタルコット・パーソンズの構造機能主義などがこれにあたる。

かつては社会学でもこの種の理論が研究の中心だったが、論理的な飛躍や矛盾、さらにはデータからの反証が次々に見つかり、大きく説得力を減じた(佐藤 1998、同 2008a)。現在では、価値自由の理念にもとづく個人的信念として主張されるか、お手軽な「社会批判ツール」として便利遣いされるか、どちらかになっている。

もう一つは数理モデルだ。数学の公理系にもとづく命題群によって、社会的な事象をモデル化したものである。こちらは現在「計算社会科学」などの名称で急速に発達しつつある。主に社会学の外部で研究が進んでいるが、今後は社会学にとっても無視できないものになっていくだろう(稲増 2022など)。

「理論の不在」という事態は、この二種類の理論の動向による。第一の意味での一般理論は社会学、そして社会科学からも消えつつある。第二の数理モデルには今のところ、まだ少数の社会学者しか関われていない(浜田・石田・清水 2019など)。その結果として、特定の理論を明示的に前提せずに、経験的な観察を積み重ねていく研究が主流になっている。

抽象語を並べて何か言ったつもりになるよりは、その方がはるかに良いと私は思うが、そうした研究でも、特定の経験的な観察を「社会的にも意味がある」と主張する必要はある。その際には社会に関する非経験的な、それゆえ理論的な仮定を実際には置いている。ルーマンが等価機能主義をシステム理論に結びつけたのも、それがわかっていたからだ( Luhmann 1964a=1988)。「理論なしに研究ができる」という思い込みは、そうした仮定を自明化する方向に働く。

それは考える楽しさも損なう。研究者という観察者の観察が意味をもつのは、当事者が語りにくい、あるいは考えにくい何かがあるからだ(佐藤 2011)。その点でも、自らの前提を無反省に自明化するのは望ましくないが、学術としてはより積極的な貢献が求められる。わかりやすくいえば「(反省的に)考えることで初めて見えてくる」何か、それも社会学に独自な何かが求められる。

「考えることで初めて見えてくる」という事態は、より丁寧にいえば、「考える前には見えなかったものが、考えることを通じて、見えてくる」ということである。つまり(1)当事者の観察=「考える前にも見えていたこと」をその一部にふくみ、(2)論理的に=「考えることを通じて」展開され、(3)意外性のある発見や知識が得られる=「何かが初めて見えてくる」。(2)と(3)を感覚的に表現すれば、「考える楽しさ」になる。

いわゆる批判理論などでは、それはむしろ「苦さ」に近いことも多いだろうし、「知らない」ことそれ自体も重要な理論的な探究の主題になるが(小松 2017、 Luhmann 1992=2003)、それでも最終的には「知らないままよりは、知ってよかった」といえるものでなければならない。何よりもその意味で、社会の反省的観察には考える楽しさが欠かせない。

だとすれば、「理論の不在」はやはり深刻な事態である。一般理論に戻るのではなく、数理モデルをただ輸入するのでもない形で、それを解決することで、「考えることで」「初めて見えてくる」ものを示していく。現在の社会学の大きな課題の一つがそこにある。


【文 献】

・毛利康俊 2012 「時代と格闘するG. トイブナー」G・トイブナー(瀬川信久編)『システム複合時代の法』信山社.
・坂井晃介 2021 『福祉国家の歴史社会学』 勁草書房.
・佐藤俊樹 2008a 『意味とシステム』 勁草書房.
・佐藤俊樹 1998 「近代を語る視線と文体」 髙坂健次・厚東洋輔編 『講座社会学1 理論と方法』 東京大学出版会.
・稲増一憲 2022 『マスメディアとは何か』 中公新書.
・浜田宏・石田淳・清水裕士 2019 『社会科学のためのベイズ統計モデリング』 朝倉書店.
・Luhmann, Niklas 1964a “Funktionale Methode und Systemtheorie,” Soziologische Aufkläung1, Westdeutscher. (=1988 土方昭訳 「機能的方法とシステム理論」 『ルーマン論文集1  法と社会システム』新泉社)
・佐藤俊樹 2011 『社会学の方法』 ミネルヴァ書房.
・小松丈晃 2017 「〈無知〉の社会学」 『現代思想』45 (6).
・Luhmann, Niklas 1992 Beobachtungen der Moderne, Westdeutcher.(=2003 馬場靖雄訳 『近代の観察』 法政大学出版局)


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