史料の魅力に導かれて/福岡万里子
第二回南原繁記念出版賞という栄誉ある賞に図らずも恵まれることになった筆者の博士論文『プロイセン東アジア遠征と幕末外交』は、様々な幸運と辛抱の産物である。最大の幸運は、東京大学史料編纂所に所蔵される「今宮新氏採訪日独外交関係文書」との出会いであったと思う。実は古代史研究者であったという今宮新氏が1930年代のベルリンのプロイセン枢密文書館で収集し、主要史料が現地の協力者の貢献で翻刻されていた、幕末の日独関係に関するその貴重な史料群は、戦後に史料編纂所に寄贈された後、一部が『大日本古文書 幕末外国関係文書』に収録されたのを除いて、あまり活用されることのないまま編纂所に眠っていた。このテーマや史料群へと導き、またそれらを包摂する様々な広がりへのヒントを与えて下さった様々な先生方との大学院や研究会、懇親会等における出会いも、それに劣らぬ幸運であった。
この今宮文書を活用してまとめた最初の論文――後に拙著の第四章となり、1861年調印の日本・プロイセン(日孛)修好通商条約の成立過程を考察したもの─は、しかし、博士論文の執筆中、二回にわたって学会誌の査読を落とされるというシビアな洗礼を受けた。一時は投稿をあきらめかけたのであるが、「不採用というのは、書き直して改めて提出せよということだよ」というゼミの先輩の助言で気を取り直し、その後、今宮文書を改めて丁寧に読み返すことから再出発した。すると最初、早く論文をまとめようと思って史料を読んでいた頃には読み飛ばしてしまっていた、様々な不可思議な情報に気がつくようになった。それらの背景を追って色々な史料や文献を漁り、まずできあがっていったのが、拙著の第一~三章であった。その過程で、取り組む研究対象は幕末の日独関係という枠を超え、アヘン戦争後の東アジア条約体制の変遷の中でドイツ諸国民のアジア貿易進出の背景を読み解き、日本開国をめぐるオランダの宣伝活動とプロイセン東アジア遠征の関わりを掘り起こし、通商条約をめぐる幕府の外交政策の形成過程を再構成するといった広がりを得ていった。その上でまとめた第四章は、三度目の投稿にしてようやく査読を通過した。実は筆者は当初、日孛条約の成立過程に関する論文が仕上がったら、幕末に二度目に来日したシーボルトの活動を調査して博士論文の後半にしようかと思っていた。しかし最終的には、上記の諸論文に続いて、第五章でドイツ諸国の条約参加問題と外国奉行堀利煕の自刃背景を究明し、第六章で、対日条約参加が叶わず無条約の居留民となったドイツ系商人の扱いをめぐる外交的攻防を東アジア大の視点を交えて考察すると、論文の総分量は相当なものとなり、これらをとりまとめて博士論文にすることにした。
執筆中、自分の研究は果たして評価を受けるのか、就職口はあるのだろうかという心配が、脳裏のどこかに常にあった。そんな折、「こんな研究をやっても、という「テモ」思考は論文執筆中は禁物! 対象としている事象の論理に集中すべし!」と、ある先輩が叱咤激励してくれ、本分を思い出した。蓋を開けてみると、博士論文は、学位審査委員の先生方の高い評価を受け、やがて何と南原賞の受賞に恵まれた。出版後は、日本ドイツ学会奨励賞も頂けることとなった。戦後の高名な東京大学総長の名を冠した賞が醸し出す威厳には、ことに相当なものがあるようで、日本史と外国史の接点に食いつく研究のめずらしさもあいまってか、その後、論集への執筆や共同研究への参加、学会の報告やコメンテータ、講演などの依頼が激増するようになった。それはさながら、山奥の寺に籠もって長らく修行していたのが、急に都会の舞台に引き出されてスポットライトを浴びるような変化であった。後述する就職後の用務の多忙の中、受けた依頼の中には、残念ながら期待に応えられなかったものもある。
著書を出版した翌年(2014年)には、賞の効果も手伝って、就職先が決まり、国立歴史民俗博物館(歴博)・研究部の准教授となった。同館は、文部科学省の管轄下に置かれた「大学共同利用機関」の研究機関の一つで、大学や諸機関の研究者と協力して共同研究を行い、その成果を展示や論文集、データベース等として一般に公開することを主眼としている。就職後、まっさきに身を投ずることになったのは、筆者も就職前から部分的に参加していた共同研究の成果として、2015年夏に開幕が予定されていた、日独関係の150年の歴史を振り返る企画展示(「ドイツと日本を結ぶもの─日独修好150年の歴史」)の準備である。
博論で取り上げた1861年の日孛条約は近代の日独の外交関係の起点となり、2011年はその150周年ということで、日独でそれを記念する諸行事が行われ、ドイツでは企画展示も実施された。日本でも150周年展示をということで立ち上げられたのが右記の企画である。そこでは、幕末、明治、大正、昭和前期に至る日独関係を通観するため、日本所在の関係史料と並んで、ドイツの公的機関や独・墺の個人が所蔵する多様な史料を借用して展示することとなった。その主催者は歴博であり、早速筆者は、それら海外の計10カ所との借用契約交渉を、歴博の事務スタッフの後方サポートを受けながら、まず担うこととなった。欧米から史料を借用して行う国際展示自体、歴博史上初めてのことであり、経験と時間が不足する中での、暗中模索の初仕事となった。
幕末の外交事情もかくありなんという思いが、この交渉期間中、少なからず頭をよぎった。ドイツでは政党が連立政権を立ち上げる際、与党の候補党の間で綿密な連立契約を交渉・策定して調印し、それが政権発足の大前提となり、あいまいな協力関係の確認だけで連立政権が発足する日本とは事情が全く異なる。これと同様に、日本国内では史料の貸し借りに当たって詳細な借用契約が求められることは管見の限りないが、ドイツの公的機関から史料を借用するためには、借用と展示の諸条件を微細にわたり取り決めた借用契約を交渉し、調印する必要がある。そうした借用契約の見本や先例は、こちら側にはない。これを公的機関五カ所の間で、無数のメールをやりとりしてドイツ語ないし英語で策定し、それをひな形に個人所蔵者五者とも借用契約を結ぶまでに漕ぎ着けた。それは2015年7月に開幕する時間的リミットから逆算してぎりぎりのタイミングであった。ほか図録の執筆・編集や展示パネルの準備なども併行し、かつ展示のオープニングの日には、プロイセン東アジア遠征を率いたオイレンブルク伯爵の甥の子孫やシーボルトの子孫など一連のゆかりの人物を招いて日独友好行事が企画されたので、その準備も同時並行であった。展示期間中には、ドイツ語圏日本学術振興会研究者同窓会と歴博とが共催する記念シンポジウムが行われる運びとなり、その歴博側責任者ともなった。かくして2014~5年はすさまじく多忙な年となった。展示も諸行事も成功裏に終わったのは、幸いであったの一言に尽きる。
その後2016年からは、自分自身で共同研究を企画し、運営することになった。立ち上げたのは、「近世近代転換期東アジア国際関係史の再検討─日本・中国・シャムの相互比較から」と題する共同研究である。幕末維新期の日本は西洋の条約体制に組み込まれたことをきっかけに未曾有の変動を経験したが、列強との条約締結の連鎖による政治外交・通商環境の激変という現象は、各国史の文脈では周知のように、同時代の中国やシャム(タイ)でも併行して起こっていた。西洋側から見ると、博論で取り上げたプロイセン東アジア遠征の派遣は、アロー戦争後の条約秩序再編に伴うアジア太平洋海域の通商関係の激変を受けたもので、中国と併せ日本・シャムとの通商条約調印を狙いとしたし、それに先立ち日本の通商開国の立役者となったアメリカの初代駐日総領事タウンゼント・ハリスもまた、元は中国海域で貿易に従事し、シャムと通商条約を調印してから来日した。こうした同時代的な連関に注目し、近世から近代にかけてのこれら異なる地域の経験を相互比較しつつ、各国史研究では脱落してしまうミッシング・リンクを捉えることはできないかと考えて企画したものである。共同研究には、清代対外関係史とタイ史の研究者、そして日本の対外関係史の研究者の方々、計七名にご参加いただき、三年間の研究期間中は、研究会と並んで、中国の広州・マカオやタイのバンコク、日本の長崎など、近世近代の東アジア国際関係の舞台となった地の史跡を皆で踏査した。新型感染症の流行という大波に社会が見舞われる前の、極めて貴重な時間であった。現在、共同研究の成果をまとめた論文集を準備している。
2018年には、歴博が所属する人間文化研究機構の「若手研究者海外派遣制度」により、半年間、アメリカのニューヨーク市立大学で在外研究を行う機会を得た。なぜその地を選んだかというと、ある出版社の依頼で、右に言及したハリスの人物評伝を執筆することになったからである。それを勧めて下さったのは、拙著を刊行時に謹呈した一人の先生である。拙著で取り上げた日本とプロイセンの通商条約をめぐる交渉では、条約成立に当たってハリスが中核的な役割を果たし、終章では「1860年前後の幕末国際関係史におけるハリスの役割」という一項を特に立て、当時の幕府と駐日外交団を取り結んだかすがいのような彼の働きを考察した。その故から推薦を頂いたものと思う。それ以前に博論の完成時のお祝いとして、日本史分野の指導教官から、ニューヨーク市立大学所蔵で横浜開港資料館に写しが保存されるハリス関係史料の写真帳をごっそり頂いていた筆者は、喜んでお引き受けしてしまった。
ハリスが来日前に設立に尽力した無償の高等教育機関フリー・アカデミーを創設母体とするニューヨーク市立大学での在外研究は、ハリス関係史料の調査解読に本腰を入れる貴重な機会を提供してくれた。この史料群は、生前のハリスの手元に集められ保管されていた彼の送信書翰の写しや受信書翰、日記、メモ帳などから成るもので、そのうち日記は既に翻刻・邦訳が刊行されているが、それ以外の送受信書翰などの史料群は、これまで本格的な調査がなされたことがない。彼の新しい伝記を書くには、これらの活用が不可欠であり、ニューヨーク滞在中はその翻刻調査に没頭した。帰国後も時間を見つけては、写真帳によりその作業を継続し、中でも最重要と考えられるハリスの送信書翰の写しについては、その帳面五冊の翻刻調査を昨年までに終了できた。以降はこれを元として、関係史料・文献を調査しながら、トピックごとに論文を準備し、執筆していく作業を始めている。その成果をまとめて、評伝にしていきたい。
最後に、大学院時代から既に長らく関わっているプロジェクトに、幕末に横浜で創業されたスイス系商社シーベル・ブレンワルド商会に関するものがあり、それについても少し言及したい。同社は、1863年に日本との条約締結のため派遣されたスイスの使節団の一員で、その後スイスの初代駐日総領事を務めたカスパー・ブレンワルドが、生糸貿易に精通したヘルマン・シーベルとともに1866年に立ち上げ、明治期には有数の生糸貿易商社に成長した(現在も総合商社DKSHとしてグローバルな事業を行っている)。このブレンワルドが幕末明治前期につけた日記の翻訳プロジェクトが、2008年から横浜開港資料館を拠点に行われ、筆者も翻訳の校訂や索引作りなどで協力してきた。前半となる幕末期(1862年末――67年)の日記は昨年、ブレンワルド日記研究会ほか編『スイス使節団が見た幕末の日本』(勉誠出版、2020年)として刊行された。幕末の横浜外国人居留地社会の生活や人間関係、条約や武器等の取引をめぐる幕府・諸藩の関係者との交渉、横浜やヨーロッパでの商取引などの情報が満載の一級資料であり、ぜひご覧いただければと思う。またこの縁で、2016年に近代スイスのシルク産業史を研究するルツェルン大学教授(当時)と知り合い、同氏の引き合わせで、もう一人の共同経営者シーベルが記した書翰群がスイスに残っていることも知った。これらはルツェルン大学と歴博の共同出資で翻刻され、同教授と筆者とはこれまでに、この書翰群とブレンワルド日記を基礎史料として、幕末維新期のシーベル・ブレンワルド社の貿易活動に関する共著論文をまとめた(Mariko Fukuoka and Alexis Schwarzenbach, Between Trade and Diplomacy: The Commercial Activities of the Swiss Silk Merchants Siber & Brennwald in late Edo and early Mejij Japan. In: Robert Fletcher and Robert Hellyer (eds.), Documenting Westerners in Nineteenth-Century China and Japan, London: Bloomsbury, forthcoming)。シーベルの書翰群は、ブレンワルト日記には欠けている戊辰戦争期の記述を含み、そこから、動乱期の同社の生糸と武器取引をめぐる内情や、明治初期、器械製糸の日本への導入をめぐる同社の関与も分かってくる。
このように、色々なご縁で手がける研究対象が広がり、いささか戦線が拡大し過ぎている感もあるが、史料に即して、史料を通じて、それを取り巻く問題群の広がりを見通そうとする、その方法の愚直さだけは、相変わらずである。空中戦が苦手で、少しでも知識があやふやだと言葉少なになってしまうたちなので、「南原賞受賞者」が期待させるらしい弁舌鋭いイメージと自分のキャラとのギャップに苦労することもあるが、史料が切り開いてくれる新たな世界を追って、今後も少しずつ前に進んでいきたい。
(ふくおか・まりこ 東アジア国際関係史)
初出:『UP』588号 (2021/10)
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