「こんばんは」事件の謎に迫る/川添愛
川添愛『言語学バーリ・トゥード――Round 1 AIは「絶対に押すなよ」を理解できるか』を刊行いたします。小会PR誌『UP』に同名タイトルで連載を開始して以降、その痛快な文章は多くの人を虜にしてきました。以下でその一部をご堪能ください。
初出:『UP』2018年4月号
イラスト:コジマ コウヨウ
このたび、この『UP』に定期的に文章を載せていただくことになった。光栄なことだが、正直何を書いたらいいのか分からない。担当編集者は「なんでもいいですよ」と言う。しかし「なんでもあり」といっても、たいていは暗黙の制限があったりするものだ。かつて格闘技界を席巻したマーシャルアーツ(全米プロ空手)は、「米軍の殺し技ばかりを集めた格闘技」という触れ込みだったが、実際は「ローキック禁止」などの制限があった。若手時代の前田日明は、アントニオ猪木とのスパーリング時に「どんな攻撃でもしていい」と言われたのを真に受け、猪木に金的と目つぶしを食らわし、先輩レスラーたちにボコボコにされたという。そういった事例を考えると、今回の「なんでもあり」も、あくまで掲載誌に合わせた上でのそれだと考えた方が無難だ。
しかし、それはそれで問題である。『UP』は教養あふれる文章が多いので、そういうものを書ければいいのだが、何せ私には教養がない。私の専門は言語学だが、学生の頃に師匠に「言語学を何年やっても教養はつかないんや」と言われて、本当にそのとおりになってしまった。それでももう少し人生経験が豊かであれば、JALやANAの機内誌のような文章が書けたかもしれないが、残念ながらスコットランドで本場のウイスキーを味わったこともなければ、パリの古書店で希少本に出会ったことも、ニューヨークの新進気鋭のシェフの店で食文化の新しい風を感じたこともない。無いものを出そうとしても無理だ。
それで今回はもう開き直って、プロレスの話をすることにした。開き直りすぎかもしれないが、実は私の担当編集者というのは「T嬢」、つまり『UP』の某人気連載を担当しているあの人だ。だから、彼女が「なんでもいい」と言うのは限りなくガチに近いと考えていいはずだ。とりあえず今回は初回なので、あいさつに代えるという意味もこめて、プロレスの歴史で一番有名な「あいさつ」の話をしたい。
昭和のプロレスに少しでも興味のある人なら、「こんばんは事件」について聞いたことがあるだろう。事件が起こったのは1981年。2018年現在参議院議員を務めているアントニオ猪木がトップレスラーとして大活躍していた時代のことだ。当時彼の団体であった新日本プロレスの興業に、二人のレスラーが殴り込んできた。国際プロレスという団体から流れてきた、ラッシャー木村とアニマル浜口である。
ラッシャー木村は当時、「金網デスマッチの鬼」と呼ばれていた強いレスラーだ。余談だが、たけし軍団・ラッシャー板前の芸名の元ネタとなった人物である。アニマル浜口は、若い人には「レスリングの浜口京子選手のお父さん」と言った方が通じるかもしれない。そう、「気合いだー!」のあの人である。ラッシャー木村もアニマル浜口も当時、国際プロレスで主力選手として活躍していたが、団体が解散となり、新日本プロレスのリングに上がることになったのである。
そうなるまでには舞台裏でさまざまな経緯があっただろうが、新日本プロレスのファンから見れば「外敵による、突然の殴り込み」である。当然ながら、会場は騒然となった。猪木をはじめとする新日本プロレスの選手たちも、神聖なリングに上がった木村と浜口を鬼の形相で睨みつける。そんな中、リングアナから木村にマイクが手渡された。彼が猪木に対して、そして新日本プロレスに対してどんな言葉を吐くのか、皆が固唾を呑んで注目する……。そこで彼が発した第一声が、「こんばんは」だったのである。
それに対する会場のファンの反応は、爆笑だったとか失笑だったとか言われているが、いずれにしても「ズッコケた」という表現で間違いないだろう。ピリピリした一触即発のムードの中で、まさかの「こんばんは」。事件だらけのプロレスの歴史の中でも有名な珍事件の一つであるが、この事件にもかかわらず、ラッシャー木村率いる「国際プロレス軍団」はその後、新日本プロレスにてヒール(悪役)として大活躍する。悪役としての徹底ぶりに、ひどいときには新日本プロレスのファンが木村の自宅に生卵をぶつけるという事件まで発生したが、それに対して木村氏は「仕事だから」と冷静に受け止めていたそうである。木村氏は2010年に亡くなったが、人格者であった彼のエピソードは、彼を慕っていた人びとによって語り継がれている。……
できればここいらできれいに終わりたいところだが、さすがにそれはまずい気がするので、以下の問題を考えてみることにする。それは、
・あの場面でなぜ、ラッシャー木村の「こんばんは」が観客に不適切だと思われたのか
である。「こんばんは」は、夜間に使うという制限はあるものの、「こんにちは」に類するスタンダードな挨拶だ。私たちも普段、人との出会い頭や、話の冒頭でよく使っている。当の木村氏もこの件に関して、「初めてのところへ行ったのだから、きちんと挨拶するのは当たり前」と、実にまともなことをおっしゃっていたという。しかしなぜそれが失笑を買ってしまったのか。
できることならば知人に意見を聞いて回りたいところだが、ここではいったん自前で仮説を出して、それにツッコミを入れながら検証していく「独り相撲スタイル」を採用したい。なぜそうするかというと、もう長年住んでいるにもかかわらずこの東京砂漠に知人が少ないという面もあるが、言語学者というのは、言葉に関することならとりあえず自分で考えてみたいのである。これはおそらく言語学者の血塗られし宿命(さだめ)というか、呪われし魂というか、そういうものであり、言語学という魔境に迷い込んで指導教員という名の魔王から首の後ろあたりに「げんご」という焼き印を押されてしまった者の悲しい「性(さが)」のようなものである。もちろん、皆様のお近くにお住まいの言語学者も全員そうである。
それで最初に思いついた仮説は、「プロレスだからじゃね?」である。いきなり言語学要素など微塵もない、素人丸出しの仮説になってしまった。だが、よく考えてみると、それほど筋が悪い話でもなさそうだ。プロレスというのは、実に非日常的な世界である。そもそも、人が蹴り合ったり投げ合ったりしているのに、通報されない。そりゃあ競技だからそうだろう、と思われるかもしれないが、プロレスでは「数人がかりで一人を攻撃」「相手を椅子で殴る」「毒霧を吐く」「電流爆破」など、常軌を逸した行為がわりと普通に見られることを忘れてはならない。だいたい、技の前にポーズを決めたり、試合の途中で仲間を裏切ったりするようなことが、他の「競技」にあるだろうか? 平社員が社長を殴って給料をもらう会社など、プロレス団体以外、どこにあるだろう。そういう異常な世界で、いわゆる常識が通用するわけがない。ラッシャー木村氏は「こんばんは」と挨拶することで、そういう「異常な世界」の中にあえて「普通」を持ち込んだ。つまり「プロレスだから『こんばんは』が変」という小学生でも思いつきそうな理由は、「非日常の中に日常が持ち込まれると混乱を招くものだ」という、文化人枠のコメンテーターが真顔で言うようなもっともらしい一般則から出てきている、という説明でどうだろうか?
しかし残念ながら、この説明にOKを出すことはできない。まず、「非日常の中に日常が持ち込まれると云々」という大本の一般則において、「非日常」「日常」などのぼんやりした言葉が使われている。これらの言葉を厳密に定義しないかぎり、科学的な仮説にはならない。もちろん「気持ちトーク」としては申し分ないので、おしゃれなカフェで友人とラッシャー木村について語るときなどには使っても差し支えないだろうが、これが科学的な仮説ではないことは、頭の片隅に置いておかなくてはならない。
さらに、今の仮説には他の問題もある。プロレスという世界において、絶対に「こんばんは」や「こんにちは」が変かというと、そうとも言い切れないからである。たとえレスラーどうしであっても、互いに敬意を持っているなら、リング上でそのような挨拶を交わすこともあるだろう。つまり、「プロレスだから」というのは大ざっぱすぎる。「こんばんは事件」に関してはむしろ、ラッシャー木村氏が新日本プロレスにとって「敵」であったという、その関係性にこそ注目すべきではないだろうか。
「やっとそこに気づいたか」という声が聞こえてきそうだが、あえて無視して、新仮説「敵に対して、『こんばんは(こんにちは)』と挨拶するのは不適切である」について考えてみよう。実際、国語辞典(『明鏡国語辞典MX(第二版)』)で「挨拶」の項目を引いてみると、最初に「(1)人と会ったときや別れるときに、儀礼的なことばを言ったり、動作をしたりすること。また、そのことばや動作。「朝[別れ]の挨拶」◇相手に対する敵意のなさを表し、人間関係を円滑化する。」とある。このように、挨拶というのは「相手に対する敵意のなさを表(す)」と、わざわざ親切に書いてくれている。もうこれでファイナルアンサーな気がしてきた。しかしここでもう少し考えてみたいのは、「こんばんは(こんにちは)」という挨拶の「敵意のなさを表す」という側面が、挨拶というもののより根本的な性質から出てきてはいないか、また、もしそうであるならば、それはどのような性質なのかということである。
それについて考えるために、「相手に敵意がある」状況以外に、「こんばんは(こんにちは)」と言うのが不適切な状況がないか探すのは有効である。そして実際、以下のような状況が存在する。
・体調の悪そうな人に声をかけるとき
おそらく、第一声は「大丈夫ですか?」だろう。「こんにちは」とは言わないはずだ。
・人がものを落とすのを見たとき
相手が知らない人であっても、「こんにちは」とは言わずに「あ、落とされましたよ」などと言うだろう。
・人に危険を知らせるとき
以前旅先で、知らない人に「あなた、リュックが開いてますよ」と教えてもらったことがあるが、「こんにちは」という前置きはなかった。自分がその人の立場でも「こんにちは」は言わないだろう。
これらはいずれも、相手の注意を素早くこちらに向ける必要があるような状況である。こういった状況では、「こんにちは(こんばんは)」のような挨拶は使えない、というか使わない方がいい。そしてこれらの状況と、「敵を前にした状況」には共通点がある。それは、相手を少々驚かせても差し支えない(むしろ、驚かせる方が適切だ)ということだ。そのような状況で「こんにちは(こんばんは)」が不適切だということは、裏を返せばこれらの挨拶が、相手を驚かせない、また驚かせたくないような状況でこそ適切に使われると言えそうである。
考えてみれば、「人を不用意に驚かせない」というのは大切なことである。私たちにとって、驚くというのは多少なりとも恐怖や怒りを伴うことだ。私たちが「驚き」を覚えるのはたいてい「急激な変化」に対してであるが、自然界における急激な変化は異常事態であることが多い。通常モードの自然界では、大きな火をおこすまで時間がかかるし、夜が明けて明るくなるまでにも時間がかかる。いずれの「変化」も、最初はかすかなもので、次第に大きくなっていくのが普通である。いきなり大きな火の手が上がったり、夜空が突然明るくなったりするような突発的な変化は、明らかに異常である。私たち人間はそのような自然界の環境に長い年月をかけて適応していくうちに、ゆるやかな変化を「通常」と認識し、突発的な変化を「異常」と認識するようになっているのかもしれない。
そしてその「認識の仕方」は、他人と出会い、互いに言葉を交わすという社会的な行為にも引き継がれているのではなかろうか。つまり、他人とのコミュニケーションにおいても、情報量の少ない言葉を交わすところから始まって、徐々に情報量の多い言葉に移行するという「ゆるやかな変化」を「通常」とし、出会い頭に情報量の多い言葉を浴びせるような「急激な変化」を「異常」と感じるのではないだろうか。「こんにちは(こんばんは)」のような挨拶にはほとんど内容がないので、コミュニケーションの冒頭で儀礼的にそれを使うことで「通常モードであなたに接しますよ」ということをアピールし、相手を不用意に驚かせないよう配慮することにつながるのだろう。「こんばんは事件」は、敵を前にした強面のプロレスラーのイメージと、そのような細やかな配慮とのギャップのせいで起こったのではあるまいか……。
なんとなく結論のようなものにたどり着いてしまったが、ここまで読まれた方はどう思われたであろうか。「ぜひ論文にして発表すべきだ!」と思われた方はきっとお優しい人だろうが、私がこれを論文にすることはない。学生の頃に師匠から「素人が三日考えて出すようなアイデアはアカン」とたびたび言われてきたが、経験的にもだいたいそれで正解である。私は一応、言語学で博士号まで取ったが、それでも自分のよく知っているテーマから一歩外に出れば闇の中である。ここまで披露してきた考察は、「あいさつ研究」については素人同然の人間が、違いが分かる男の顔でコーヒー(カフェインレス)を飲みながら二時間ぐらいで考えたことなので、とてもその筋の専門家の目に耐えるものではないだろう。それに、関連文献を漁れば、もっと良質な説明がすでになされている可能性が高い。
実際、この文章を書くために一本だけ「あいさつ研究」の文献(i) を読んだが、それだけでもこのテーマについて膨大な研究の蓄積があることが分かり、途方に暮れているところである。文献リストを眺めただけで、すでに自分の仮説が正しいのかを確かめる気力もなくなった。よって、あとは興味を持たれた方に丸投げしたい。とりあえず私としては今回たくさんプロレスの話ができたので満足だが、本当にこの内容でT嬢的にもイッツオーライなのか分からない。次回以降の内容については、まずはこの文章が本当に『UP』に載るかどうかを確かめてから慎重に検討したい。
[参考文献]
(i)倉持益子(2013)「あいさつ言葉の変化」、『明海日本語』第18号増刊、259-284頁(あいさつ言葉の形式および内容の変化における要因を分析し、これらの言葉と社会との関係を考察した論文。日本でもっとも早く定型化した別れの言葉の変容過程や、あいさつ言葉の短縮、「っす」の付加の原因や効果など、興味深い内容が多い)。
初出:『UP』2018年4月号
イラスト:コジマ コウヨウ
言語学バーリ・トゥード
Round 1 AIは「絶対に押すなよ」を理解できるか
川添 愛 著
ISBN978-4-13-084101-6
発売日:2021年07月下旬
四六判/224頁
「読むなよ,絶対に読むなよ!」 ラッシャー木村の「こんばんは」に,なぜファンはズッコケたのか.ユーミンの名曲を,なぜ「恋人はサンタクロース」と勘違いしてしまうのか.日常にある言語学の話題を,ユーモアあふれる巧みな文章で綴る.著者の新たな境地,抱腹絶倒必至!
[東京大学出版会創立70周年記念出版]
主要目次
この本を手に取ってくださった皆様へ
1 「こんばんは事件」の謎に迫る
2 AIは「絶対に押すなよ」を理解できるか
3 注文(ちゅうぶん)が多めの謝罪文
4 恋人{は/が}サンタクロース?
5 違う,そうじゃない
6 宇宙人の言葉
7 一般化しすぎる私たち
8 たったひとつの冴えたAnswer
9 本当は怖い「前提」の話
10 チェコ語,始めました
11 あたらしい娯楽を考える
12 ニセ英語の世界
13 ドラゴンという名の現象(フェノメノン)
14 ことば地獄めぐり
15 記憶に残る理由
16 草が生えた瞬間
あとがき
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