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菊間晴子(『犠牲の森で――大江健三郎の死生観』)南原賞贈呈式スピ―チ

さる3月24日、当会主催の「東京大学南原繁記念出版賞 表彰式・贈呈式」が行われました。本賞の受賞作であり、先日刊行された『犠牲の森で』の著者・菊間晴子先生のスピーチを以下に掲載します。

ご紹介にあずかりました、菊間晴子です。
この度は、このような素晴らしい舞台に立たせていただき、ありがとうございます。
 
第13回東京大学南原繁記念出版賞を受賞された大山祐亮先生、誠におめでとうございます。比較言語学の新たな地平を開くご論文が、書物として刊行されるのをとても楽しみにしております。

私は第12回南原賞受賞作として、今年3月22日、拙著『犠牲の森で――大江健三郎の死生観』を、東京大学出版会より刊行していただきました。
ご臨席の吉見俊哉先生、坂井修一先生をはじめ、南原賞審査員の先生方や東京大学出版会の皆様、東京大学附属図書館の皆様、すべての関係者の方々に、心からの御礼を申し上げたいと思います。
 
本日ご臨席くださっている、大学院博士課程の指導教員であり、論文審査会の主査も務めていただいた田中純先生には、刊行に際しても常に的確なアドバイスとあたたかい励ましをいただきました。
そして、南原賞受賞時に阿部公彦先生からいただいた講評は、刊行までの道筋を照らす指針となりました。
両先生には、改めて深く感謝いたします。

また、本書は私にとって初の単著であり、一冊の書物ができあがるまでの工程を経験するなかで、たくさんの学びがありました。
不慣れゆえ、ご面倒をかけることも多かったかと思いますが、無事に出版まで導いてくださった、出版会の榎本さん、後藤さん、小暮さんにも、厚く御礼申し上げます。


 
ご挨拶の初めに、申し上げたいことがございます。
 
「死生観」という切り口から作家の全体像に迫った本書の刊行直前、今月3日に大江健三郎氏がご逝去されました。ここに、心より哀悼の意を表します。
 
このタイミングで本書が世に問われることとなった事実に、言葉にならない重みのようなものを感じております。
 
 
あえてこのように呼ばせていただきますが、大江さんは、私にとって、非常に大きな存在でした。
直接お話をする機会を得ることは叶いませんでしたが、大学院修士課程から大江作品の研究に取り組んできたこの10年、常に大江さんという大作家と、対話を重ねていたように思うのです。そして――おこがましい言い方になってしまいますが――その対話の成果こそが、本書です。
 
あとがきにも記したように、大江作品に満ちる独特なイメージ群に注目し、そこから彼の「死生観」、大江さん自身の言葉を借りるならば、「魂のこと」をめぐる思索の軌跡を読み解くことを通して、研究者である私自身もいつのまにか、個人の問題としての「魂のこと」に向き合っていました。
 
それは、私が大江さんからいただいた、かけがえのない経験でした。
 
 
他にも、大江さんの研究に取り込むなかで、私は本当にたくさんのものを受け取ってきた、という実感があります。
 
たとえば、その故郷である愛媛県喜多郡内子町大瀬(旧・大瀬村)に出向いて行った、2016年の調査では、大江さんのご親族や住民の方々に歓待していただき、大瀬の土地、そしてそこに根ざす記憶に肌で触れるような経験をすることができました。
 
今月末には、再び大瀬の地を再訪し、お世話になった方々にご挨拶する予定です。大江作品に導かれるようにできた不思議なご縁を、大切にしていきたいと思っております。
 
 
また、昨年の南原賞表彰式において出版会理事長の吉見先生からご提案いただき、大江さんと親交の深かった建築家の原広司先生にインタビューをさせていただく貴重な機会を得たことも、思いがけない幸運でした。
 
インタビューを通して、大江作品における「テン窪」――多くの作品の舞台となった「谷間の村」において、聖地のような役割を果たす特別なトポス――の性質が変容していった大きな要因としての、原先生による大江作品の独自の読解に迫ったことで、本書における「テン窪」分析に、より深みをもたせることができたのではないかと思っております。
 
文学研究者である私は、幾何学理論にはまったく疎く、きっと非常に物分かりが悪い聞き手だったはずなのですが…快くインタビューやその後の質問に応じてくださり、何枚にもわたって手書きで図形を書きながら、お考えをご教示いただいたことが忘れられません。
 
原先生、吉見先生、そしてインタビューにおいて多大にご尽力くださった原広司+アトリエ・ファイ建築研究所の吉田結衣さんに、ここで深く謝意を表します。
 
 
大江研究を続けるなかで経験したのは、必ずしもリアルな出会いだけではありません。大江さんが作中に引用する、多岐にわたる文学作品や思想、あるいは映画や音楽、美術作品などに触れたことは、自らの知見を広げる大きなきっかけになりました。
 
文学研究というと、常に本と睨めっこをして、閉ざされた世界のなかでストイックに研究を進めているようなステレオタイプを持たれがちですが、大江研究に取り組むなかで、私は明確な「開かれ」の感覚を体験しました。
 
そして、この「開かれ」こそが、文学研究の醍醐味であるように、私は思うのです。
 
 
ここで本書『犠牲の森で』の内容に関して詳しく述べることはしませんが、その末尾において私が示そうとしたのは、大江健三郎という作家がその「後期の仕事(レイト・ワーク)」において表現した、「開かれた」死生観のあり方でした。
 
「犠牲」の論理を背負う形で、大江作品のごく初期から登場してきた、殺された獣たちの亡霊、そして魂を救済へと導く一本の聖樹が、徐々にその性質を変え、「集まり(コンミユニオン)」という複数性のなかに開かれていく、生き生きとしたダイナミズム。
 
その「開かれ」の運動性を示すことが、本書の大きなテーマでもあったのです。
 
 
本書の表紙は、友人の小山政幸さんに原案を作成していただいたものですが、私としてとても気に入っている点があります。
 
それは、ぱっと見の印象としては、中心に立つ一匹の羊、そして一本の大樹のイメージに目を奪われがちだけれども、実はその周囲に視線を向けると、のんびりと寝そべっている何匹もの羊たちと、その周りに聳える多くの樹木の存在に気付かされることです。
 
ここにも、ある種の共同性への「開かれ」の運動性が示されています。
 
 
本書が、ぜひ多くの方々に読まれる書物となり、大江作品の新たな魅力に触れる契機となるとともに、様々なかたちでの「開かれ」を誘発することを、願ってやみません。
 
それが、ほんの少しでも大江さんへの恩返しになるのではと、勝手ながら信じております。
 
 
また私は現在、生前の大江氏から約18,000枚にのぼる自筆原稿が東京大学文学部に寄託されたことを受けての、「大江健三郎文庫」(仮称)設立プロジェクトに携わっています。
 
自筆原稿に残る夥しいリライトの跡から、作家の創作の道筋を紐解くことができる自筆原稿データは、まさに研究者にとっての宝の山であり、大江研究のさらなる発展において重要な基盤となることは間違いないでしょう。
 
私も、文庫設立に向けて尽力するとともに、いずれはぜひ自筆原稿の研究にも取り組み、これからも続く大江さんとの対話のなかで、研究者として精進していきたいと思っております。
 
 
拙著刊行に際してお世話になったすべての方々に再度御礼を申し上げ、ご挨拶の結びといたします。
 
ご清聴ありがとうございました。


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