南原賞その後、あるいは建築と映画の蜜月時代/本田晃子
先の東日本大震災10周年の折、久しぶりに博士論文を執筆していたころのことを思い出した。当時の私の世界は、博論の主題であるスターリン時代のソ連建築家、イワン・レオニドフを中心に回っていた。3月11日の本震の時も、東京大学駒場キャンパスで夜まで論文を執筆するために、京王井の頭線に乗っていた。駒場東大前の二駅手前で電車が停止してしまったため、何が起きたのかもよくわからないまま、ひとまず自宅よりも近い大学へと向かった。自宅は築40年を超えるまさに陋屋(ろうおく)というべきアパートだったので、余震が怖かったこともある。結局その夜は、駒場キャンパス一八号棟の院生室で明かした。自宅には電気毛布以外の暖房がなかったので、一晩中暖かい院生室に滞在できたのはありがたかった。目の前の壁のひび割れが余震ごとに次第に大きくなっていくのを睨みつつ、いつにない集中力で一晩中執筆していたのを、今でも鮮明に覚えている。結局、博論──『天体建築論──レオニドフとソ連邦の紙上建築時代』と題することになった──が完成したのは、それから半年ほど経った後だった。
さて博論の執筆中は、しばしば息抜きにスターリン時代のソ連映画を見ていた。ままある話だが、ロシア語があまり得意ではなかったので、映画で語学トレーニングをしようという下心もあった。ただ、現代ロシア映画の早口かつスラング山盛りの会話を聴きとるのは辛い。その点スターリン時代の映画では、登場人物たちはゆっくりしたテンポで、歯切れのよく、演説のように(文字通り演説のことも多いが)明瞭に喋ってくれるのでありがたかった。
だがソ連建築からの逃避のつもりで見ていたにもかかわらず、なぜか映画の中の俳優たちよりも、背景が気になる。セルゲイ・エイゼンシテインの『全線(古きものと新しきもの)』(1929年)では、ウクライナの後進的な農村になぜか突然モダンな白亜のソフホーズが登場するし、グリゴリー・アレクサンドロフの一連のミュージカル・コメディでは、1930年代に竣工した主要なソ連建築、ホテル《モスクワ》、《河の駅》の駅舎、全連邦農業博覧会会場等々が次から次へと現れる。ソ連史上最大かつ未完の建築プロジェクト《ソヴィエト宮殿》(実現されていれば世界最大の建築物になるはずだった)までもが、映画内にはしれっと登場する。アレクサンドル・メドヴェトキンの『新しいモスクワ』(1938年)のクライマックスで、主人公たちを差し置いてスクリーンの中央を占めるのは、この《ソヴィエト宮殿》なのだ。
そこで気づいた。こんなにも建築物が目立って見えるのは、けっして私の建築脳のせいだけではない、と。私は映画史全体を俯瞰する知見をもたないが、映画内でこれほどまでに建築物に焦点が当てられた時代は、スターリン期のソ連をおいて他にはないのではないか。そしてソ連建築史研究の観点からも、映画とは非常に重要な、見方によっては建築雑誌のような専門誌よりも重要なメディアだったといえるのではないか。
建築史家ビアトリス・コロミーナは、著書Privacy and Publicity: Modern Architecture as Mass Media(1994年)において、モダニズムの時代に建築の現場は現実の固有の場から離れて、写真や建築雑誌などのマスメディア上へ移行していったと述べる。しかし真の意味で建築が「マス=大衆的」なメディアとなったのは、モダニズムを弾圧することによって台頭した全体主義の時代だったのではなかったか。ヒトラーが政権を獲得したドイツにおいても、スターリンが独裁体制を確立したソ連においても、モダニズムに代わって国家の「公式」建築の座を占めたのは、古典主義をベースとする一見したところ復古的な建築様式だった。だがこれらの建築は、新聞や雑誌だけでなく、より大衆的な映画産業とも高い親和性を示した。ヒトラーお抱えの建築家アルベルト・シュペーアによって設計されたニュルンベルクの党大会会場が、レニ・リーフェンシュタールの記録映画『意志の勝利』(1934年)に最高の舞台装置を提供したように。全体主義建築のメガロマニアなスケールとそれを埋める膨大な集団を捉えるには、人間の生得的な眼では不十分だった。これらプロパガンダ建築の真の威力は、人間の眼の限界を超えるカメラの眼によってこそ、十全に発揮されたのである。
ソ連ではスターリンの主導によって1930年代半ばから首都モスクワの大改造が始まり、地下鉄が開設され、壮麗でモニュメンタルな公共建築が次々に竣工していった。しかしその一方で、1934年の国内パスポート制度の導入により、モスクワなどの大都市への移動に対する規制は強化された。モスクワへの移動を禁じながら、同時に生まれ変わった首都の威容と、これらの建設事業を指揮した指導者の偉大さを全国民に伝える──この一見相矛盾する課題への回答こそ、モスクワの映画化に他ならなかった。
ただし『意志の勝利』と比べて、ソ連の建築プロパガンダ映画はより娯楽性に富み、ゆえにより広く大衆に支持された。たとえば、スターリンお気に入りの映画監督アレクサンドロフは、ハリウッド的なノウハウを取り入れた一連の作品によって、強制的な動員なしに大ヒットを記録している。アレクサンドロフの作品では、ソ連の周縁の町や村に住む主人公が、クライマックスでソ連の心臓部であるモスクワに到達する。そしてこのクライマックスの場面で、モスクワの実在の建築空間は虚構の物語の中に取り込まれ、神話化されていくのである。
博士論文提出後の次なる研究テーマは、後から振り返ってみると、こうしてすでに博論執筆中に水面下で決まっていった。2012年春、学術振興会特別研究員の任期終了後、ぎりぎりのタイミングで北海道大学スラブ研究センター(現在はスラブ・ユーラシア研究センター)の非常勤研究員のポストに滑り込み、早速新たなテーマに着手することになった。
赴任一年目は、まずはスターリン期のソ連映画の全体像をつかむために、連日のように映画を見つづけた。文字にしてみるとずいぶん楽しそうな作業に見えるが、実際にはこれがなかなかタフなのだ。スターリン時代の映画では、暴力や残虐描写は最小限に抑制され、性愛描写はスターリンの保守的な趣味によってキスどまり。そしてスクリーン上には、壮麗な都市や平和で実り豊かな農村、ノルマを超過達成し笑顔を浮かべる労働英雄たち、コルホーズのたくましく健康的な農民たちが、次から次へと登場する。このような映画を日に二、三本、メモをとりつつじっくり見ていると、もしかしてホロドモールなんてなかったのでは……強制収容所もなかったし、ひょっとすると大粛清もなかったのでは……? という歴史修正主義の幻覚に襲われる。そしてこれ以上なく健全な映像しか目にしていないにもかかわらず、なぜか気分はどんどん重苦しくなっていく。
ちなみに、そこで逃げ込むようにして入った映画館で久しぶりに見た西側の映画が、トーマス・アルフレッドソン監督、ゲイリー・オールドマン主演の『裏切りのサーカス』だった。原作は、私の大好物であるジョン・ル・カレの『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』。イギリスの情報部のエリートが実はソ連の二重スパイであったというキム・フィルビー事件を下敷きにした、国際諜報ものである。途中までは、ソ連側の人間(?)が西側のスパイ映画を見ることに一抹の背徳感を感じながらも、楽しく鑑賞していた。映画オリジナルの演出で、MI6本部で開催されたクリスマス・パーティーに、サンタクロースではなくレーニンのマスクをかぶった職員が登場し、MI6の職員全員でソ連国歌を合唱するというシーンまでは。毎日のように耳にしているソ連国歌が流れる中、スクリーン上のレーニンと目が合った。Big Brother is watching youなのである。逃げ切れないことを悟った私は、翌日からまた勤勉な研究者に戻ったのだった。
そんなパラノイア的妄想と戦いつつ、北大での1年目の任期を務めているときに、南原賞受賞の連絡をいただいた(連絡後、大急ぎで「南原繁」をGoogle検索したのはここだけの秘密である)。それから出版に向けての怒涛の日々が始まった。私の遅筆によりスケジュールは順調に遅れたが、東大出版会の凄腕編集員の皆さんの助けによって、なんとか年度内の刊行にこぎ着けることができた。その上さらにありがたいことに、拙著はその後日本ロシア文学会賞や表象学会賞、サントリー学芸賞など、次々に過分な賞をいただくことになった。
ただ、拙著の刊行とほぼ同時タイミングで北大の任期が終わったときには、教歴もなく、あまり熱心に就職活動をしていなかったこともあって、まだ次の職は見つかっていなかった。幸運にも、ちょうど日露青年交流センターの若手研究者等フェローシップに採用していただけたので、なんとか無職は免れ、二度目のモスクワ留学に出発。建築映画論を煮詰めるためにも、このタイミングでモスクワに長期滞在できたのはラッキーだった。
モスクワでは、主として映画作品のロケ地の同定にいそしんだ。博士論文で扱った建築家イワン・レオニドフは、実現された作品をほぼもたないいわば紙上建築家だったため、私は建築史研究者にあるまじきことに、これまで足を使った調査とはほぼ無縁だった。ここにきてはじめて、実在する都市と建築物を直接相手にすることになったのである。そうはいってもモスクワ中心部についてはすでに相当歩き回っていたので、おおよそのロケ地の見当はつく。それでもわからない箇所については、ロシアの映画好きの友人たちやインターネット上のソ連映画マニアの情報などを元に実際に現地に赴き、確認してまわった。むろん単なる聖地巡礼ではなく、どの地点・どのアングルから撮影されたのかを検証することによって、監督やカメラマンの撮影意図を推察するためである。
スターリン時代の建築物は、良くも悪くも個性的なので同定はたやすい。たとえばスターリン時代のモスクワ地下鉄駅は、「地下の宮殿」「地下の天国」などと呼称されるほど、非常に装飾的で一つ一つ異なったテーマの内装をもっている。これらの駅は、しばしば映画のロケにも用いられた。モスクワの卓越性と先進性を誇示するとともに、後に続く他の都市に模範を示すためだ。先述のメドヴェトキンの『新しいモスクワ』やアナトリー・グラニクの『アリョーシャ・プチツィンの精神修養』(1953年)といった映画のなかでは、地下鉄駅は様々な演出や編集によって現実のそれよりもより一層宮殿らしく、壮麗かつ豪奢に描き出された。スターリン時代のモスクワの地下鉄駅は、このようなメディア上のイメージや言説を通じて、最も神話化された建築空間のひとつだった。
しかし問題なのは、建築の標準化とプレファブ化を推し進めたフルシチョフ時代である。コストパフォーマンスを旨とするフルシチョフ時代になると、地下鉄駅のデザインは画一化され、互いにほとんど見分けがつかなくなる。ここにきて駅の同定の難易度は爆上がりするのだ。しかも、観光地化されているモスクワ中心部のスターリン時代の駅はならともかく、何の面白みも変哲もない郊外のフルシチョフ様式の駅で、iPad片手に映画を再生しながら「あれ、この照明50年前とデザイン違くない?」などとつぶやきつつプラットフォームを徘徊していると、周囲の人びとからの視線の痛いこと……。ただそのような苦労も、「雪解け」の時代を代表するゲオルギー・ダネリヤの映画『僕はモスクワを歩く』(1963年)を見ていると、報われた気持ちになる。同作では、地下鉄駅はもはや宮殿ではなく、ただの地下鉄駅として描かれるのだ。何を当たり前のことを、と思われるかもしれない。だがソ連映画の地下鉄表象を追っていると、慨嘆しないではいられない。この一見当たり前に思われる描写にたどり着くまでに、どれほど長い時間が必要だったことか……。
このような現地調査をしているうちに、早稲田大学高等研究所の助教のポストが決まり、早稲田での2年間ののち、現職の岡山大学へとたどり着くことになった。その間なぜか人間二人・猫四匹の大家族になり、建築映画論の方も徐々に形になっていった。そしてどうやら今年度中には、ようやく一冊の本として出版の運びになりそうだ。ソ連・ロシア映画における建築表象論、しかもタルコフスキーもソクーロフも出てこない(エイゼンシテインは登場する)ニッチな本となるが、興味をもっていただけたら幸いである。
(ほんだ・あきこ ソ連・ロシア建築史、表象文化論)
初出:『UP』583号 (2021/5)
天体建築論 レオニドフとソ連邦の紙上建築時代
本田 晃子 著
ISBN978-4-13-066854-5
発売日:2014年03月24日
A判 360頁
【内容紹介】
理想の共同体の建設がまだ熱い夢だった初期のソ連邦、数々のコンペにおいて、大胆に空を切り取る質量のない透明なマッス、鮮やかな色彩をもつ「未完の建築」を建て続けた異能の建築家の、建築思想とその発想の根源、後半生のスターリン時代を、従来の研究史を圧倒する密度で描き出す、気鋭の研究者の第一作。
【第3回東京大学南原繁記念出版賞受賞作】
【第36回サントリー学芸賞(思想・歴史部門)受賞作】
【目次】
序
第1章 重力圏からの離脱――レーニン(図書館学)研究所設計案
第2章 建築と演劇の零度――構成主義運動における労働者クラブ建築
第3章 無重力都市――社会主義都市論争とマグニトゴルスク・プロジェクト
第4章 レーニン建築プロジェクト――社会主義リアリズムの誕生
第5章 幾何学とファクトゥーラの庭園――クリミア半島南岸開発計画
第6章 二つの太陽の都
終 章 紙上建築の時代の終焉