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座談会「『知の技法』をめぐって」〈第2回〉

『知の技法』刊行直後の『UP』第23巻第4号(1994年4月号)には、座談会「『知の技法』をめぐって」が掲載されています。メンバーは編者のお二人と、当時、文学部助教授(社会学)でいらっしゃった上野千鶴子先生。その中から、本書のなりたち(第1回)に続いて、今回は大学における教育の意味について語られている部分を抜粋、一部を割愛してお届けします。本書の耐用年数は5年というお話が出てきますが、実に30年ものロングセラーとなった理由の一つには、引用部分の最終項でふれられている「不同意の創造性」を育むことの難しさがあるのかもしれません。20世紀末だった当時よりも深い混迷の時代、希望となるオリジナリティ、創造性を身につけるために、〈知の三部作〉は大きなヒントになるでしょう。

※文中、「駒場」と「本郷」が頻出しますが、東大では1・2年生全員が駒場(教養学部)で学び、その後、専門に分かれ、教養学部・理学部数学科以外の3・4年生は本郷で過ごします。


○国際競争力のないカリキュラム


上野 私は学問というのは、簡単に言うと伝達可能な知の共有財だと思ってるんです。世の中には伝達不可能な知と伝達可能な知があって、伝達可能な知にはそれを生産するための技術があって、それは共有可能なんですよね。もう一つ学問をやる人びとは最低限このくらいの技法は共有しててほしいという要求は、もしかしたらもう一つ潜在的なニーズ、国際化圧力から来てませんか。

小林 それも十分視野に入ってましたね。これはだれに差し出してるのかというと、とりあえず駒場にいる文系の学生であるわけですが、文系の学生のすべてが研究者になるわけではない。多くの場合、社会に出ていく人間なわけです。だからこれはほんとうは論文を書くための技術でも、研究発表するための技術でもない。要するに、自分の認識と表現とをどのようにコントロールするかという作法を学んでほしいということなんですよ。それを国際化圧力に翻訳するにはちょっと抵抗がありますけど、これからは従来のような悪い意味での無意識 ●●●の表現に頼ることはできない。なんとなく一般の論理に従って動いてる。自分がどういう認識をしてるかをきちんと言えない。フェアネスの感覚がない。大学を出てこういう振舞いをしちゃ困る。そのことは心理学を学んだり、文化人類学を学んだり、個別科学を学んでも必ずしも身につかないものなんですね。

上野 必ずしも研究者を目指すとは限らない人びとに、それこそ知のザ・ベーシックスを伝達したいというのはよくわかりますが、いずれにしても学問もその上に積み重なるものですね。(……)

船曳 その伝達の技術を教えるというのを大学でしたらどうなるかというと、大学の教師はそれぞれの学問の専門家なんだから、学問というクラシックな枠組みのなかでやっていくことになるわけですよね。昔でしたら学者としては大学の人がやってて、旧制高校の先生方は何か不思議な存在で、彼らも学者だったかもしれないけど、全人教育をしてた。

上野 教養人ですね。

船曳 そう。教養人として全人教育してたんだけれども、いまは全員「大学人」で、それぞれがある種の専門家になりたがってるわけで、全人的な教育は消えつつあるわけでしょ。そして技術だけを教えるのでは、学生から何でこんなことを勉強しなきゃいけないんですかという質問が出てくるので、少なくともレポートなり論文なりが書けるようになるため、と言う必要がある。どういうレポートや論文を書きたいと思うようになるかはまた別の問題で、もちろん彼らが書きたいようなことを書けばいいんだけど、目標は与えなきゃいけない。それがないために、一般教育の試験の答案があのように悲惨なものになるんだと思う。(……)

上野 日本語のていをなしてないということですか。

船曳 日本語のていをなしてない。それから大学の答案だからちょっとしゃれたこととか、手がこんだことを書かなきゃいけないと勝手に思い込む。だから僕は試験のとき、こんこんと言うの。みんな芸がないんだから、芸を披露しようとしちゃいけない、何かについて僕はこういうふうに考えていて、こういう前提があって結論はこうだとごく素直に書いてくれ、それでいいんだ、と言うんだけれども、大学はそうじゃないんだろうと思ってる。(……)僕は授業で学生に最後にレポート書かすんじゃなくて、途中でレポート書かせて、授業の前に先週のレポートをディスクジョッキーのごとく必ず読んでるんです。テクニカルなことだけど、今までの講義にはそういうフィードバックがなかったというのもあるんですよね。だから、自分が書いた答案がどこがよくて優になったのか、どこが悪くて可になったのかもわからないまま出ていく。

小林 そのわからなさは恐ろしいと思うね。大学で何を学ぶかわからないし、何で悪い点がついたのかわからないし、どうして不可なのかわからない。全然理解しない。それはほんとに驚くべきことで、われわれは上野さんがやってるように最低限修得すべきことは絶対教えなくちゃいけない。彼らは技術的なことは予備校の延長で考えてる。予備校がなぜエキサイティングかというと、目標がはっきりしてて、それに対する技術が明確に見えるからなんですよね。技術的なものは、自分いいか、悪いか、どこにいるか、ということがわかるからエキサイティングですよね。人間は少しでも進歩したいから。ところが技術的なものは予備校の段階で終わりで、彼らは大学で学ぶことは何もないと思っちゃうんですよ。ちょっと知識を入れればいいと。

船曳 理系の学生はそこはちょっと違う。

小林 理系はかろうじてさまざまな技術的な体系があるから……。文系は途端に何もないという状態に置かれてしまう。

船曳 理系の授業もひどいのがあるらしいけどね。文系の授業でも語学はある技術というのがまだあって、つまりゲーテなり何なりが読めるようになる。

小林 1年でフランス語が読めるようになるとかね。

上野 語学の場合は達成目標がはっきりしてますからね。

(……)


○学問のフェアネス


小林 僕らが教えるべき語学というのは技術であると同時に、それに対するモチベーションの開かれ方だね。先ほど文人主義を批判しましたけど、実は全面的には批判しない。教師が最終的に学生と出会う場は、一対一の人間としてぶつかるところにしかない。

船曳 そのときの目標は、ああいうりっぱな先生になりたい、ということなんだよ。

小林 なりたいじゃないと思う。すてきだとか、そのくらいでしょう(笑)。

上野 それって、教師聖職説ですよ。

小林 いや、聖職じゃないよ。教師はあるところにおいて、学生よりは開放されてる姿を見せなくちゃならないんですよ。つまり技術を単にテクニカルに教えるだけじゃなくて、同時にいかに開かれてるか、開かれて係わるというのはどういうことかを教えるのではなく、見せる。

上野 私はそのように思わないですね。教師が人格的にどうであれ、少なくとも高校のように目標がはっきりした教育と違って、人文科学的な知だったら解答や着地点のないところに乗り出すわけでしょ。そこには目的地のない発見の喜びがその都度発生する。そのことに教師が学生の目の前で嬉々としている。それを見せることが教育だと思います。

小林 まさにそのことを言ってるんですよ。

上野 何かよくわかんないけど、あの人があんなにおもしろがってるんだから、きっとおもしろいんだろうな、ということね。そういう意味では、私は社会学業界の“セールスレディ”として、大変な貢献をしてるんですよ。社会学ってこんなにおもしろいんだよって。

小林 それはよくわかります。僕が「開かれた」と言ったのはそういうことです。このテキストの冒頭の、別になくてもいい原理論の最後に、とりあえずフェアネスと創造性をうたうことにした理由はそれです。技術と言いながら、しかし単に技術だけでいいというわけではなくて、技術でないもの、あるいは技術が技術でないものとどう結びつくのか、ということを実践しないとだめなのですと。だから、僕らは単なる技術的なユーザーズマニュアルを与えようとは一度も発想しなかったんですよ。技術はある。だけど技術と自分のトピックとか関心とか感受性がぶつからなければ意味がなくて、ぶつかったらどういうことが起こるか、ということをちらっと見せたかった。

上野 例えば、松浦寿輝さん〔表象文化論〕なんかは、この技術でこういう応用問題を解いてみたらこんなにおもしろいよ、と見事な実演をやってますね。松浦さんを含めて、この本の寄稿者の平均年齢は若いですね。

小林 わざとそうしたんです。編集ポリシーです。(……)現場で学生とぶつかって、そのエネルギーが素直に反映されるのがいい。出来はどうであれ、それはよくても悪くても駒場の実力だからしようがないと。つまり、100点のものをつくる気は全然ないんですよ。われわれの実力を反映したものであればいい。(……)

船曳 そうなの。だから、どうしてつくったかという現状認識をずっと話してきて、目的・方法を話して、その後どういうのをつくろうかと小林さんと話したとき最初にぱっぱっと出てきた原則が幾つかあって、一つはいままで話してきたように、認識には技術の方法があるということを教えようと。もう一つは、学問の一番先端のおもしろいところを論文という形じゃなくて、抜粋でもいいんだけど、途中でもいいの。それこそ、ある種のチラリズムね。

上野 さわり。顔見せ興行だよね。

船曳 そう。だから、それは5年たったら先端じゃなくなるくらい、いま先端のもの。5年たったら次の人が書きかえる。5年たったら廃盤にするつもり。

上野 最初から耐用年数を設定しておくのはすごくいいことですね。

小林 ふつう教科書をつくる人たちはそうじゃないですよ。スタンダードで永久なものをつくろうとする。それだけは絶対やめようと思った。

上野 こんなに知のパラダイム変革の激しいときには、教科書だって耐用年数5年ももてば御の字ですよ。私なんかは5年か10年ごとに自分のやってきたことを全部棚卸しして、ごめんなさい、これまで言ってきたことは間違ってました、もう信じないでください、って言いたいくらい。

小林 私たちとしては、それでいいということを教えたいわけですよね。

上野 たとえばさっき船曳さんが言ったディスクジョッキー方式とか、私がやってる添削とかは、はっきり言って教師の負担がふえますよね。大学教師というのは教師のアイデンティティよりも研究者のアイデンティティのほうが強いですね。そっちのほうはどうやってクリアするんですか。

小林 (……)制度的になるべくエコノミックな仕方でそのことをやることができないかというのが「基礎演習」の発想ですから、これがうまく結実してくれれば少し重荷がとれるというふうに思いたいわけですよ。(……)たとえば、学生は論文の書き方がわからない。卒論を書くのに注のつけ方もわからないのがいる。引用の仕方もわからない。そのとき「あの本を見ろ」と一言いえばいいような状態にしたいわけですよ。(……)それを個別的にやらないで、最低限これくらいはやっておいてもらわないと困るというのをやっちゃいましょう、ということなんです。

上野 確かに省エネになります。画期的な省エネです。

小林 ですから、本郷にもすごく貢献してるんですよ(笑)。

(……)


○同意の技術、不同意の創造性


上野 私は今度の船曳さんの「古今の思想」、それと「同意の技術を18年間積み重ねてきた」という文章を読んで、あー学生をよく知ってるな、それに随分苦労させられてきてるんだな、というのがよくよくわかりました。私がレポートの講評で同じことを指摘すると、「異議を唱えてよかったんですか」、つまり「同意しなくてもよかったんですか」、という反論が返ってくるんですよね。だから、彼らにとって同意の技術はほとんど完璧に身についてますね。(……)不同意の連中が出てくる蓋然性は私のバラエティのある教壇経験からいうと、東大は率直に言って低いです。

小林 それはそうだろうね。多分、同意の技術に一番たけてるタイプが東大により入りやすいだろうから。

上野 じゃ、もしかしたら素材として一番扱いにくい素材を扱ってらっしゃることになるかもしれない。

船曳 そうなんです。一面、非常に技術が高いだけに……。

小林 だから、まさに不同意の創造性をいかに教えるか、という難題をわれわれは抱えてるわけですね。

船曳 そのときは技術だけじゃなくて、目標も与えなきゃいけない。

小林 東京大学が生み出した日本の官僚を見れば、同意の技術でしか動いてないことがわかります。

船曳 でも、それも最近特に強いのかもしれないよ。

上野 目標に対する高いアジャスタビリティ、適応力を感じるんですね。たとえば教師がフェミニストならフェミニズム、教師がマルキストならマルキシズム、官僚制に入れば官僚主義に、あっと言う間にアジャストする。ハイアジャスタビリティですよ。ショート・ターム・ゴールに簡単にアジャストする能力ですよ。

小林 でも、われわれの関係のあるところでいえば、論文を指導するときの一番の敵は船曳さんの言う「古今の思想」ですよね。つまり、言葉は気持ちから出てくる。要するに、国語の受験技術の最たるもの、いかに相手の気持ちを考えるか、「作者の気持ちは何でしょう」、というのが主要な質問ですから……。つまり、ある場のムードに対して自分をいかにアジャストさせるか、ということが問われてるわけでしょう。これが変わらない限りは社会の全体は変わりようがないんだけど、少なくとも大学はその原理によってはつくられてない、ということをはっきり言う必要があるんですよね。

船曳 社会はその原理でつくられてるかもしれないのに……。

小林 そうなんです。日本の社会はひょっとしたらそれでつくられてるかもしれないけど、大学にいる以上はそうじゃないもう一つの原理がある。日本の社会と大学の原理はずれていると。

上野 でも、日本の社会はその原理でつくられてるかもしれませんが、世界はその原理ではつくられておりませんよ。

船曳 そう。だから三重の入れ子構造になってるんです。

小林 そのことを考えたときに、少なくとも将来外の世界とつき合う可能性が高い人たちにはそうじゃない仕方、つまり“古今主義”じゃない表現の仕方をきちんと学んでもらわないと困る。その弊害はそこらじゅうにある。だから、まさに官僚になったり法曹界に入ったり企業に入ったりする文系の人たちに、たとえ部分的な限定つきであっても、大学の原理があるということは知ってもらわないと困る。学問って最終的には一種の態度でしょう。態度だということの重要性がわかんないから、たとえちょっとましなレポートを書く学生も、むしろ自分の思いだけでいっぱいになって、それがいいと思ってる。

上野 そのことだけど、船曳さんが“不同意の技術”と名づけたものを、私は“オリジナリティ”と呼んでるんです。

小林 僕は“創造性”と呼んでますけどね。

上野 教育というのは必ず統制と創造の両面がありますよね。社会化と個性の開発というか、両面がありますけれども、高校までの教育がディスプリネーションという意味で統制の技術だとしたら、大学でそれをやると人文社会科学は死にますよね。そういう意味で日本の教育が成功したか、失敗したかは難しい問題です。(……)不同意の技術に基づく差異化こそが価値の生産ですから。

(後略)

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