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森に分け入っていく ─東京大学南原繁記念出版賞受賞から10年 / 鶴見太郎


このままでは大学院入試に通らず路頭に迷うと思って必死に書いた卒業論文は、200頁を超えていた。4年生の夏まで、乱読ばかりしていてテーマを定めて研究をしてこなかったためか、夏の別の大学の入試には落ちてしまっていた。第二外国語もろくに勉強していなかったので、自分の大学含め、受けられる大学院の選択肢は少なく、残るは駒場の相関社会科学だけだった。だが当時は今以上に倍率が高く、どれだけ高いレベルを要求されるのかがわからなかったので、これでもかと書き続けたのだった。結果的に卒論としてはある程度手ごたえのあるものになり、入試は突破できた。もっとも、今になって思えば、卒論で200頁以上も書くのは、よほどの必然性がない限りは審査員の時間を無駄に奪うので褒められたことではない(内容がよければ数十頁でも十分合格できる)。

進学後、その卒論をある専門家の先生に読んでいただいた。「議論がきれいすぎる」という感想だった。もちろん褒めて言われたわけではないことは理解した。分厚い割に図式が単純にすぎる、ということだったのだろう(傷つきたくなかったので当時はそこまで深くは考えなかった)。

その卒論のテーゼは、「賤民」として蔑まれていたユダヤ人が、二度と差別されることがないよう、「ネーション」という立派な集団としての地位を得るためにパレスチナでの民族的拠点の樹立を目指したのがシオニズムである、というものだった。著名なシオニストの諸議論を一様にその図式で整理したのである。彼らの最も有名な著作(の一節)については英訳があるので、卒論レベルでもそれが可能だった。

前記の先生の感想を一応気にしたのか、修士課程では、ロシア帝国という場に限定をかけることで、分析のレベルを一段階細かくした。その結果、パレスチナの拠点をユダヤ人がまともな集団であることを示すアリバイとすることで、再編の途上にあったロシア帝国という場でユダヤ人が集団として生き残るという目的と、ユダヤ的なものを西欧社会と折り合いをつけやすい形で解釈していた西欧ユダヤ人への対抗という、二つの意味がロシアのシオニズムには込められていたというテーゼを導き出した。それでも、修士課程のうちは、指導教員に、当時はもっとせめぎあいとかあったんじゃないの? ということを指摘されていた。やはりまだ図式が単純なきらいがあったが、修士論文の分量はさほど増えず、頁数は280ぐらいだった。

博士論文では、分析のレベルはさらに細かくなった。まず、少し歴史的になった。すなわち、1881年から1917年のあいだの変化にも触れ、また、「ネーション」が制度化されていなかったロシア帝国において、シオニスト自身が未来を予測しつつその単位にこだわっていった様子を追った。シオニストはやはりユダヤ人がロシアに残り続けることを見越しており、彼らが掲げるロシア帝国の将来秩序構想にも触れ、その発想がパレスチナに持ち越されていく様子も描いた。もう一つ、「ユダヤ・ネーション」というものを強調するシオニストが、その中身をどのようなものとして考えていたのかについても論を巡らせた。彼らは中身をあえて想定していなかったのだが、なぜそのようなことになっていたのかを、当時の状況のなかで説明した。

こうして、シオニズムという、自意識としては普遍的なもの――「他の民族のようにユダヤ人も自分の国を持つ」という――を希求する動きを、ロシア帝国に固有の具体的な文脈に位置づけていった。博論の頁数は修論と同じぐらいだった。卒論から博論まで、分量は似たようなものだったので、その分中身は濃くなっていったことになる。森の奥深くに着々と入り込んでいったような感覚である。

幸いにしてこの博士論文が南原賞を授与され、晴れて『ロシア・シオニズムの想像力――ユダヤ人・帝国・パレスチナ』として出版されることになった。もっとも、指導教員からは、まだ粗削りであるという評価だった。私も、森にさらに深く入っていくべきだと思った。その後の研究成果として昨年出版された『イスラエルの起源――ロシア・ユダヤ人が作った国』(講談社、2020年)では、個人を「側面」に分けるという、さらに細かい分析モデルを採用することになった。ちなみに分量は前著の半分くらいである。単純に半分の内容になったわけではないと信じたい。

卒論から『ロシア・シオニズムの想像力』までは、基本的には個人や集団の帝国での戦略としてシオニズムを描いていた。しかし、前著の中心人物の一人だったダニエル・パスマニクというロシア・ユダヤ人についてさらに調べを進める過程で、彼の多面的な側面に惹かれていった。前著までに登場したシオニストは基本的に「ロシア・ユダヤ人」と分類される人々だったが、ことパスマニクに関しては、便宜上ロシア人を演じていたという以上に本気でロシア人であるとしか言いようがない局面に出くわすことになった。

では、彼のなかで、ユダヤ人である側面とロシア人である側面はどのように関係していたのか。そのようなことを考えるなかで、心理学の自己複雑性理論に出会った。自己が諸側面の複合体であるとするパトリシア・リンヴィルらによるモデルである。リンヴィルの仮説では、自己が複雑である(=側面の数が多い)ほうが、一つの側面に対するダメージが自己の一部にとどまることで鬱になりにくい。もっとも、複雑な自己は管理が難しくなり、その分かえって鬱になりやすいとする説も他の研究者から出されており、諸側面間の関係性とその自己への影響は、心理学においてもまだ解明途上である。

だが、社会科学はそもそも個人の諸側面間の関係性のダイナミズムはあまり想定せず、諸側面の束として諸個人をタイプ分けするモデルを主軸としてきた。例えば、女性であり、大卒であり、首都圏中間層の出身である人、あるいは、男性であり、高卒であり、農村の農家の出身である人、というように、最終的には「〇〇である人」というところに集約してしまう。もちろん、そのモデルで取ったデータにも十分に意味はある。だが、例えば女性であることと大卒であることは、特定の状況において、どのように関係しあうのか。他の人々の女性という側面とはどのように関係していくのか。こうした問いに対しては、社会学で部分的に探求されるにとどまっている。

側面を主軸に据えて議論する自己複雑性モデルは、より実態に即した歴史や社会を見るうえで大きな可能性を持つように思った。もっとも、検証可能なレベルで、既存の議論とどれほど違った議論ができるのか、まだ十分な確信は持てていない。様々な研究者の知見を拝借しながら、さらに練っていくのが現在の課題である。

しかし以上のような経緯からすると、今後さらに分析レベルが細かくなっていくのだろうか。そうすると、細胞レベルの議論となり、もはや生物学になってしまうから、このあたりで打ち止めとすべきか。

もっとも、これまでひたすら細かさばかりを求めてきたわけではない。むしろ、過去6~7年ほど、世界の研究者との連携により、研究の幅を広げるように努めてきた。森を奥へと進んでいくうちに、近隣を俯瞰する高台にたどり着いてもいたのである。そしてそのきっかけとなったのは、ほかならぬ南原賞だった。

ここからは南原賞の宣伝を兼ねて、「受賞して研究者人生バラ色」という感じで書いていきたい。

南原賞のおかげで憧れの出版社から本を出すことができ、自信をつけた私は、日本社会学会の奨励賞に応募してみることにした。南原賞で箔がついたからかどうかはわからないが、ありがたいことに受賞させていただくことができた。そしてそれは二つの幸運につながっていった。

まず、同時期、前任校の「社会学」の公募ポストに応募していた。同大学に知り合いは一人もおらず、公募に記されていた専門も「社会学」のみで、かなり漠然としていた。そうしたなか、ちょうど選考過程で社会学会の受賞が公表されたことで、選考委員の先生の目に留まったのである。もともと社会学なのかどうか怪しい私の研究テーマや内容からこのポストは不利だと思っていたが、ここで一発逆転できた感があった。

このポストは科学技術振興機構と連携したテニュアトラック・ポストで、5年間成果を出したら、テニュア(任期なし)に登用されるというものだった。理系と同じ枠組みで、大きな予算がついて研究にかなり専念させてもらえるという(教育は一学期に2~3コマで現在と大差はないが、学内業務はほとんどなし)、夢のようなポストだった。当時も、たぶん相当恵まれているのだろうと思ってはいたが、現在の職場に移り、そのことを正確に理解した。

しかし今振り返ってやはり大きかったのは、ポストに期待された役割と予算の大きさだった。採用の段階から、国際的にネットワークを作り、研究を率いていくことが大いに期待されていると伺い、そのつもりで国際会議を準備していくことになった。結果、10名をアメリカやイスラエルから呼び、さらに7名の日本の研究者を加えた2日間の国際会議と、1名の海外組を含め10数名をお呼びして2日間で行ったワークショップをそれぞれ一年目の年度終わりに東京で開催することができた。前者については、大学の規定上宿泊費が抑えられ、税金の関係などもあり謝礼も出さなかったのがちょっと申し訳なく、外国からのゲストを京都旅行に連れて行った(旅行代金は実費をいただいた)。コロナ禍の現在から見ると、何重にも贅沢な経験だったとしみじみ思う。

後者のワークショップは当日の議論を楽しむブレインストーミングを狙ったものだったので特に形ある成果は出ていないが、前者のほうは、翌年にアメリカで第2弾の国際会議を行い、それぞれを合わせた成果として、東京に呼んだ2名の研究者とともに編んだ英語の論集が、ペンシルベニア大学出版会からFrom Europe’s East to the Middle East: Israel’s Russian and Polish Lineagesと題して今年の秋に出版される。一般にアメリカの大学出版会から出すのは年々ハードルが高くなっているが、こと論集に対しては編集者が乗り気でないことが多い。それだけになかなか苦労したが、やはりアメリカの研究者が共編者だったことはとても大きかった。

その後、現在の職場に移ってからも国際会議はこれまでに二度主催した。上記のような実績ゆえに、科研費も取りやすくなったのだと思う。

もう一つ、日本社会学会の奨励賞が縁で、日本学術振興会賞に社会学会から推薦していただくことができた。運よくこちらも受賞にこぎつけ、さらに日本学士院学術奨励賞までいただくことができた(なお、混同されがちだが、いずれも日本学術会議とは無関係である)。

現在の職場(東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻)も公募だったが、やはり南原賞から始まる様々な「箔」が後押ししてくれたはずだ。前任校も十分快適で、上記のように五年間は夢のような条件だったわけで、それをあえて中座したことは申し訳なく思うが、個人的には後悔していない。自分の専門をフルに発揮できるポストは日本では現在のポスト以外に見当たらないし、もともと駒場の雰囲気が好きで、かつ自分のスタイルに合っているという判断があった。実際に赴任して5年が経とうとしているが、その判断は正しかったと感じる。研究は停滞することが多くなったが、子どもが生まれたことや新しい科目を担当する準備が必要だったこと(最近では学務へのコロナ禍の直撃)などによるところが大きい。学内の業務は様々なものがあり、いずれも刺激的で視野が広がった。ちょっと広がりすぎたのではないかと思わないでもないが、その一環で、『駒場の七〇年』という記録集を編纂する仕事で再び出版会と一緒にお仕事させていただくことになったのは、上記の経緯から考えると、南原賞の縁といって間違いないだろう。

そういうわけで、南原賞以降の10年は、大きく研究者人生が動いた時期だった。いただいた機運をうまく生かし切れたのか反省しだすとキリがないが、ここはバラ色で終えなければならないので、さらに10年後の自分に期待しつつ、筆を擱きたい。そういえば、紙の書物というのは印刷したら書き換えができないから、タイムカプセルのようなものである。10年前に本誌に書いた「受賞のことば」を読み返してみると、受賞が大きな原動力になるであろうことと、自らが置かれた社会的文脈に対する感謝が記されていた。今も変わらないこの想いを10年後も更新できるよう、森にさらに分け入っていきたい。
(つるみ・たろう 歴史社会学)
初出:『UP』2021年3月号

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