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『映画論の冒険者たち』関連ブックガイド(1) / 堀潤之・木原圭翔

このたびの『映画論の冒険者たち』の刊行に際しまして、編者のお二人の先生に関連ブックガイドを作成していただきました。本書とともに映画論を学ぶための最良のテキストが紹介されています。ぜひご一読ください。

このブックガイドは、『映画論の冒険者たち』(堀潤之・木原圭翔編、東京大学出版会、2021年)に関連の深い映画論・映画理論の重要書籍を約70冊取り上げ、編者の2人による短いコメントを付したものである。
同書は5部構成で21人の映画論者を取り上げているので、このブックガイドも5部構成にした。各部で誰が論じられているのかについては、同書の目次を参照してほしい。
なお、『映画論の冒険者たち』では、各章の末尾に設けた「文献案内」で、それぞれの執筆者がコメント付きで4、5冊の関連書籍を紹介しているので、ぜひそちらも併せてご覧いただきたい。(堀)

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『映画論の冒険者たち』書誌詳細ページ

第1部 古典的映画論のアクチュアリティ

岩本憲児、波多野哲朗編『映画理論集成』フィルムアート社、1982年(版元品切)

ミュンスターバーグやアルンハイムの古典的映画論から、メッツ、バルトらの映画記号学まで、18本の重要な論考を集めた日本初の画期的な映画理論アンソロジー。美術史家パノフスキーの有名な映画論や、ジルベール・コアン゠セアの映画学(フィルモロジー)、エティエンヌ・スーリオやジャン・ミトリといった記号学以前の成果など、歴史的価値のある翻訳が収められている。映画作家パゾリーニの「ポエジーとしての映画」が含まれているのも嬉しい。(堀)

ルドルフ・アルンハイム『芸術としての映画』志賀信夫訳、みすず書房、1960年(版元品切)

『映画論の冒険者たち』では紙幅の関係で扱わなかったアルンハイムが1932年に書いたこの古典的な映画論は、映画は現実の機械的再現を乗り越えてこそ芸術たりうると宣言する点で、後のバザンらのリアリズム的傾向と鋭く対立する。著者がその後に展開した「芸術心理学」の構想も視野に入れつつ、知覚の心理学の観点から再読しても面白いだろう。(堀)

ベラ・バラージュ『視覚的人間──映画のドラマツルギー』佐々木基一・高村宏訳、岩波文庫、1986年(版元品切)

1920年代の映画理論の雰囲気をつかむには、本書がよい入り口となる。言葉という概念的なものの支配から、映画が可能にする「視覚的なもの」の支配へと文化が根底的に転換したというテーゼを踏まえつつ、俳優の相貌の重要性や、クロースアップという技法の詩的な力が熱っぽく論じられている。(堀)

Siegfried Kracauer, Theory of Film: The Redemption of Physical Reality, Princeton: Princeton University Press, 1997 [1960].

『カリガリからヒトラーへ』とともにクラカウアーの映画論として名高く、映画というメディウムをあらゆる角度から考察した「映画の百科事典」(ベンヤミン)である本書は、とりわけ映画とリアリズムの問題を考えるうえでは今でも最重要文献の一つである。邦訳が待望されていたこの古典的名著は、『映画論の冒険者たち』でクラカウアーの章を執筆した竹峰義和氏の手によって、東京大学出版会からついに全訳が出版される予定だ。(木原)

マックス・ホルクハイマー、テオドール・W・アドルノ『啓蒙の弁証法──哲学的断想』徳永恂訳、岩波文庫、2007年

「ワーナーもMGMもたいして代り映えしないのは同じである」。悪名高い「文化産業」論に見られるこの発言は、映画に対する無知の表明だとされてきた。本当にそうだろうか。アドルノは各会社の映画が全く異なるのは周知の事実であることを十分認識したうえで、あえて挑発しているのである。批判者の発言は時に賛同者のそれよりも遥かに鋭い。同論を挑発するテクストとして読解した論考を含む竹峰義和氏の『〈救済〉のメーディウム』(東京大学出版会、2016年)も必読。(木原)

中村秀之『瓦礫の天使たち──ベンヤミンから“映画”の見果てぬ夢へ』せりか書房、2010年

ベンヤミンの「複製技術時代の芸術作品」は映画を重要な参照点に据えているが、その具体的な内実を最も詳細に明らかにしているのが本書第1章に収録された論考である。これ以外にもベンヤミンの思考に触発されながら、無声映画という固有の形態が持つ数多の可能性が、緻密な資料調査、鋭い理論的考察、そして映画テクストの斬新な分析を通して徹底的に掘り下げられていく。(木原)

岩本憲児編『エイゼンシュテイン解読 論文と作品の一巻全集』フィルムアート社、1986年(版元品切)

「アトラクションのモンタージュ」や「映画形式」をはじめとするエイゼンシュテインの最重要論文が解題を付して丁寧に紹介されるだけでなく、監督作の解説も充実している。9巻におよぶ『エイゼンシュテイン全集』(キネマ旬報社、1973–93年)も重要だが、映画作家・理論家としてのエイゼンシュテインに接近するためにまず読むべき一冊。(堀)

大石雅彦『エイゼンシテイン・メソッド』平凡社、2015年

冷戦終結後、ロシアで新たなエイゼンシュテインの著作刊行が相次いだ。本書はリニアな展開をしないそれらの迷宮的なテクストを精緻に読み解くことで、「モンタージュ」「クロースアップ」「線」「原形質性」等々のキーワードを再活性化し、映画論を超えたその射程を明らかにしている。本書を紐解けば、知の巨人ともいうべきエイゼンシュテインの思考の根源に迫ることができるはずだ。(堀)

アーロン・ジェロー、岩本憲児、マーク・ノーネス監修『日本戦前映画論集──映画理論の再発見』ゆまに書房、2018年

「これまでの映画理論の歴史本や理論集は圧倒的に西洋中心である」という冒頭に掲げられた編者の指摘は、『映画論の冒険者たち』に対しても当然当てはまるだろう。『冒険者たち』では扱えなかった日本の豊かな映画理論言説の拡がりを本書は伝えてくれている。戦前のテクストは時代背景などを踏まえないと時に難解にも感じられるが、いずれの論考にも付された簡潔な解説がありがたい。(木原)

エリー・フォール『エリー・フォール映画論集 1920–1937』須藤健太郎訳、ソリレス書店、2018年

1920年代に、ジャン・エプシュタインやルイ・デリュックの「フォトジェニー」とも呼応しつつ、うねるようなエクリチュールで独自の映画論を展開していたエリー・フォールの精髄が詰まった一冊。フォールの映画論を「形象的なもの」の概念など、それ以降の理論史の展開に照らして読解する充実した「訳者後記」は、ぜひとも『映画論の冒険者たち』と併せて読んでほしい。(堀)

エドガール・モラン『映画 あるいは想像上の人間──人類学的試論』渡辺淳訳、法政大学出版局、1983年(版元品切)

『映画論の冒険者たち』で武田潔氏が指摘するように、映画を現代の魔術と捉える本書はジャン・エプシュタインの特異な映画論を引き継いだ真に独創的な映画論である。本書はクリスチャン・メッツをはじめ、後の映画論者にも多大な影響を与えているが、同じく魔術としての映画という論点を提起するスタンリー・カヴェルの映画論などと比較してみるのも面白いだろう。(木原)



第2部 映画批評の実践

山田宏一『トリュフォー、ある映画的人生』平凡社ライブラリー、2002年(版元品切)

ヌーヴェル・ヴァーグを代表する映画作家の一人であるフランソワ・トリュフォーの評伝であると同時に、彼の人生の背景をなすフランス映画批評史についても、勘所が手際よく紹介されている。同じ著者による『友よ映画よ、わがヌーヴェル・ヴァーグ誌』(平凡社ライブラリー、2002年)と併読すれば、ヌーヴェル・ヴァーグ期の映画批評の営みが一挙に身近なものになるだろう。(堀)

フランソワ・トリュフォー『わが人生わが映画』『映画の夢夢の批評』山田宏一・蓮實重彥訳、たざわ書房、1979年(版元品切)

ヌーヴェル・ヴァーグの映画作家たちが、批評活動からそのキャリアを出発させたことはよく知られている。『映画論の冒険者たち』ではロメールしか取り上げなかったが、ゴダールもトリュフォーもリヴェットも、より意気軒昂な冒険者たちだった。トリュフォーのこの2冊の批評集は、「若きトルコ人」たちと呼ばれた一派の批評への導入として最適。トリュフォーの最も有名な批評として知られる「フランス映画のある種の傾向」は、『ユリイカ』1989年12月臨時増刊号に訳出されている。(堀)

フランソワ・トリュフォー、アルフレッド・ヒッチコック『定本 映画術』山田宏一・蓮實重彥訳、晶文社、1990年

2015年には著名な映画監督たちが本書の魅力を語るドキュメンタリーも製作されたように(ケント・ジョーンズ監督『ヒッチコック/トリュフォー』)、おそらく世界で最も有名かつ影響力を持った映画本の一つだろう。近年では、インタビュー音源との比較を通してトリュフォーによる改変の過程を跡付ける学術論文まで存在するが(Janet Bergstrom, “Lost in Translation? Listening to the Hitchcock-Truffaut Interview”)、作り手ならではの具体的な議論の数々は映画研究の入門書として今なお最適である。(木原)

ミシェル・マリ『ヌーヴェル・ヴァーグの全体像』矢橋透訳、水声社、2014年

小著ながら、ヌーヴェル・ヴァーグの発端からその遺産までを手際よくまとめた一冊。『映画論の冒険者たち』との関連では、第2章「批評的コンセプト」が、アレクサンドル・アストリュックの「カメラ万年筆」論(拙訳で『アンドレ・バザン研究』第1号に掲載)からトリュフォーの攻撃文書を経て「作家政策」の展開まで、主要な流れを簡潔にまとめていて特に有益。(堀)

武田潔『明るい鏡──ルネ・クレールの逆説』早稲田大学出版部、2006年(版元品切)

「自己反省」を軸にクレール作品に分け入り、特に同時代の批評を丹念に読解した本書は、ある一つのプリズムを通して1920年代からヌーヴェル・ヴァーグ期までのフランス映画批評史をたどる試みでもある。バザンなどの特権的な固有名詞だけでは物足りない向きには、よい導きの糸を提供してくれるだろう。(堀)

アンドレ・バザン『映画とは何か(上・下)』野崎歓・大原宣久・谷本道昭訳、岩波文庫、2015年

バザンの主要なテクスト27篇を精度の高い翻訳で鮮やかに蘇らせた本書は、映画に知的な関心をもつすべての人に有益である。「写真映像の存在論」のリアリズム論、「不純な映画のために」の脚色論、そして種々のネオレアリズモ論は、擁護するにせよ批判するにせよ、今なお汲めども尽きせぬ着想を読者に与えてくれるはずだ。なお、『映画とは何か』は元々65篇を収録した4巻本であり、その邦訳も刊行されている(小海永二訳、美術出版社、1967–76年)。バザンの2800篇近い記事をすべて収録した全集も2018年にフランスで刊行された(Écrits complets, Macula, 2018)。(堀)

アンドレ・バザン『オーソン・ウェルズ』堀潤之訳、インスクリプト、2015年

本書はバザンが1950年に上梓した初の単行本の翻訳に加えて、サルトル、サドゥール、レーナルトらの同時代の『市民ケーン』論を「資料」として収録し、同作をめぐって当時なされた論争のコンテクストを再構成したものである。本書を読めば、長回しや奥行きの深い画面を活用した演出を擁護する批評家バザンの誕生に立ち会えるだろう。バザンによるモノグラフとしては、『ジャン・ルノワール』(奥村昭夫訳、フィルムアート社、1980年、版元品切)も充実している。(堀)

野崎歓『アンドレ・バザン──映画を信じた男』春風社、2015年

『市民ケーン』をめぐるサルトルとの論争に始まり、バザンのリアリズム論、ロッセリーニ論、脚色論を当時のコンテクストに即して丁寧に読解した最初の4章は、20年以上前に書かれたものでありながら、現在でもバザンの映画論への最良の手引きであり続けている。残りの2章は、バザンと現代台湾映画/宮崎駿のアニメーションというやや思いがけない組み合わせによって、バザンの思索のアクチュアリティを吟味する刺戟的な論考である。(堀)

エリック・ロメール『美の味わい』梅本洋一・武田潔訳、勁草書房、1988年

ロメールの理論的文章と批評を精選した一巻。初期に書かれた理論的傾向の強い文章(「映画──空間の芸術」「美の味わい」「アンドレ・バザンの「集大成」」など)に加えて、ロッセリーニ、ホークス、ヒッチコック、そしてとりわけルノワールの作品論を収録する。「恩寵」がキーワードになるなど、ロメールのリアリズム論にはバザン以上に宗教的倍音が響いていて、その点が面白くも晦渋なところではある。邦訳の刊行は『緑の光線』の封切りの頃だが、品切になっていないのも嬉しい。(堀)

エリック・ロメール、クロード・シャブロル『ヒッチコック』木村建哉・小河原あや訳、インスクリプト、2015年

1950年代に『カイエ・デュ・シネマ』誌を主戦場に展開されていた「作家主義」的な批評の金字塔と言ってよい本書は、大衆娯楽作家ヒッチコックにおける形式的な独創や、キリスト教的なモチーフの組織的な使用といった種々の論点をいささか衒学的に論じる。いまや一大産業となっているヒッチコック研究の原点として、今なお刺戟に充ちたテクストである。(堀)

セルジュ・ダネー『不屈の精神』梅本洋一訳、フィルムアート社、1996年(版元品切)

『脚光(フットライト)』や、ドゥルーズが序文を寄せた『映画゠日誌』(いずれも未邦訳)で知られる映画批評家ダネーの死後出版された著作で、唯一邦訳がある。絶筆となった長篇論考「『カポ』のトラヴェリング」は、映像のエチカを考えるにあたって必読(考察の出発点になっているリヴェットの「卑劣さについて」も巻末に訳出されている)。続くセルジュ・トゥビアナとの対話も、ダネーの批評と人生の軌跡をたどるのに有用である。ダネーはバザンに勝るとも劣らない厖大な量の記事を書いていて、さらなる紹介が待たれる。(堀)

蓮實重彥『映画論講義』東京大学出版会、2008年(版元品切)

「映画史のカノン化」という問題について論じた本書冒頭の論考で蓮實は、「権威ある書物にも必ず含まれている記述の間違いを見抜く力がなければいけない」と述べ、その例として『キャット・ピープル』の製作費について映画史研究の権威ダグラス・ゴメリーが『ハリウッド・スタジオ・システム』に記した数字の間違いを鋭く指摘する。しかし、ゴメリーの書籍を実際に読んでみてもそのような記述はどうも見当たらない……。私の発言も鵜呑みしてはならない、ということなのだろうか。蓮實を読む面白さの一つは、こうした目眩を起こさせるようなパフォーマティブな記述の力を吟味することである。(木原)

蓮實重彥『増補新版 ゴダール マネ フーコー──思考と感性とをめぐる断片的な考察』青土社、2019年

元々2008年にNTT出版から刊行された本書を読んだとき、ゴダールの『映画史』(1988–98)の3A「絶対の貨幣」でマネが出てくるシークェンスを「無声映画」として読み解く鮮やかな手つきに目から鱗が落ちたものだ。マネからフーコーへ、バタイユへ、マラルメへ、ストローブとユイレへと焦点を移行させながら展開していく強靱にして柔軟な思考は、決して概念の抽象性に陥ることなく、映画/思考の唯物性に寄り添っている。(堀)

David Bordwell, The Rhapsodes: How 1940s Critics Changed American Film Culture, Chicago: University of Chicago Press, 2016.

自国以外で展開されている映画批評の豊かな拡がりを詳しく知るというのはなかなか難しい。日本においてはアメリカの映画批評もまた例外ではない(唯一ポーリン・ケイルの著作が日本語で複数読めるのはありがたい)。映画研究者のボードウェルが敬愛する4人の著名な批評家(オーティス・ファーガソン、ジェイムズ・エイジー、マニー・ファーバー、パーカー・タイラー)の特徴を簡潔に論じた本書は、日本ではあまり知られていない彼らの批評の意義を理解するうえで大変有益である。(木原)

赤坂太輔『フレームの外へ──現代映画のメディア批判』森話社、2019年

主としてロッセリーニとブレッソンをはじめとする「現代映画」の多数の作品を取り上げ(ただし、そこには小津、ルノワール、シュトロハイム等々の、時代的には古典映画に属する映画作家も含まれる)、そのフィルム上の肌理に徹底して唯物論的に拘りながら、「フレームの外」というキーワードを軸に、「メディア批判」に向けた揺るがぬ意志を細部に読み取っていく本書は、アカデミックな研究には不足しがちな批評的強度に充ちた一冊である。(堀)

→『映画論の冒険者たち』関連ブックガイド(2)へ

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