【70年を読む】内田 貴 『民法』(1994年)を読む/解題:内田 貴
1994年に『民法Ⅰ』の初版を出したとき、「はしがき」に「わが国には民法の『教科書』がない」と書いた。そこでいう「教科書」とは、教育の受け手に対する教育効果を考えて書かれた初学者用のテキストのことであり、私はP・サミュエルソンの経済学の教科書を例に挙げた。同書の成立経緯をみれば、優れた教科書はたとえ超一流の学者であっても(サミュエルソンはノーベル賞受賞者である)片手間に書けるものではないことが分かる。当時、日本の法学にはそのような意味での教科書がない、と感じていた。そして、私自身、かつて、そのことで苦しんだ学生の一人だった。
大学2年生のとき法学部の専門科目である憲法、民法、刑法の講義が始まった。憲法は小林直樹先生が、髪を指で掻きあげつつ、野党の政治家の演説を極限まで知的に洗練させたような話をされた。憲法というのは政治なのだと思った。都立高校で「万国の高校生団結せよ!」などと壁新聞に書いていた私には、中身の理解はともかく、さほど違和感なく入ってくる話だった。刑法は団藤重光先生の停年直前の講義で、その悠揚迫らぬ姿にはアカデミックな後光が射しているように見えた。哲学的な講義内容が理解できたとはいえないが、例にあがる判決の事案を調べると、被害者にも加害者にも同情を禁じ得ない犯罪事件があり、刑法学が何をめざしているのかが朧げに感じられた。これに対して、まるで分からなかったのが民法だった。四宮和夫先生の発する言葉を、訳も分からず音だけ写し取ったノートを見ると、今なら何を措いても受講したくなるような、先生の学識が凝縮された講義だったのだが、当時の私には豚に真珠だった。何より分からなかったのが、なぜ民法学という学問があるのかだった。「この問題はこのように解すべきだ」などと結論が述べられるのだが、あなたに何の資格があってそんな結論を述べることができるのか、条文とは別になぜ「解釈論」という理論が展開されるのか、そもそも、民法学というのは何をする学問なのか、が分からなかった。取引社会の規範を探求するなら実証的な社会学がある。実証科学ではない民法学が、条文にも書かれていないことを「こう解すべきだ」と主張するのを何によって正当化するのか。単に教師が自分の思いつきを述べているのとどう違うのか。そもそも実社会の経済活動の経験すらない学究にそんなことを言う資格があるのか。
「入門」と付いた本を片っ端から見てみたが、疑問に答えるようなことは書かれていなかった。分かるようになりたい気持ちが高じて、その分野を専攻する研究者になった。途方に暮れていた学生時代、「もし自分が民法学者だったなら、絶対に、今の自分の疑問に答えるような教科書を書くのだが」などと思っていたが、それを試みてみようと考えたのが『民法Ⅰ』である。もっとも、疑問に対する「正解」が分かったわけではない。ただ、たとえ探求途上であれ、その姿を見せることが教育なのだろうと、いま振り返って考えている。
内田貴
民法シリーズ最新刊『民法Ⅲ第4版』書誌情報、ご購入方法はこちら
『民法 Ⅲ 第4版 債権総論・担保物権』
内田 貴 著
ISBN978-4-13-032353-6
発売日:2020年04月20日 判型:A5 ページ数:720頁
内容紹介
民法の基本書として好評を博した内田民法シリーズ,待望の改訂.債権総論と担保物権をセットにし,よりわかりやすく解説する.最新判例,重要論点を網羅.2020年4月に施行される改正民法に完全対応した決定版.学生,実務家必携の実践的テキスト.
主要目次
第1部 総説
第1章 序説
第2章 債権入門
第2部 債権の効力
第3章 弁済による債権の実現
第4章 債務不履行
第5章 第三者による債権侵害
第3部 金融取引法――金銭債権の履行確保
第6章 金銭債権の履行確保に関する諸制度
第7章 代物弁済
第8章 債権譲渡
第9章 債務引受・契約上の地位の移転
第10章 相殺
第11章 責任財産の保全
第12章 保証――人的担保
第13章 多数当事者の債権債務関係
第14章 抵当権
第15章 質権
第16章 非典型担保
第17章 法定担保物権
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