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猫とプラチナとプログラミング /千葉 滋

勤務先の大学で学生をプログラミングに雇うと、これからは何千円かの時給を払えるようになるらしい。これまではどんなに優秀な学生であってもプログラミングの時給は1000円ちょっとだった。

すごく高度なプログラムを書いたとしても居酒屋のアルバイトと同じ時給しかもらえないのは少し悲しい。もちろん職業に貴賎はないのだけれど、大したことない学生プログラマだって大学の外で働けばもう少し稼げるのだからちょっとひどい。

時給が1000円でなくなったのは、とくに大学院生を経済的に支援することが大学の方針になったからだ。ちょっと専門的な仕事を大学の中でときどきすれば、そこそこの生活費を得られるように、というわけだ。

学生プログラマの時給が1000円なんて、と以前文句をいったら、学生は資格もないし半人前だし、それで何が問題なのか、と知人の先生に真顔で返された。そう言われてみるとプログラミングを特別なすごい何かと思い込んでいるだけだという気がしてきてちょっと反省する。反省するけれど、でもやっぱり時給1000円はおかしいと思うのだ。

僕が学生だったころ、世の中は今ではバブルと呼ばれている時代で居酒屋のアルバイトも今よりもう少し時給がよかったように思う。大人たちがじゃんじゃんお金を使ってくれたので学生たちもそれなりに潤っていたのだ。でもプログラマは今ほど注目されていなかったし、そんなに稼げる職業だとは思われていなかった。(あ、今ではプログラマじゃなくてソフトウェア・エンジニアだね。僕には同じものに思えるけど。)

学生になった僕は塾の講師に家庭教師、というお決まりのコースをたどったけれど、気がついたら新宿の片隅のマンションの一室でプログラマをやっていた。サークルの先輩に上手いこと言われて引きずり込まれたのだ。

今ならスタートアップ企業で有給インターンしてます、って威張ってみせるのだろうけど、当時は零細企業のバイトプログラマです、以上おわり、という感じだった。社員は中年男性の社長がいて、役員が二人いて、事務をやる中年女性がいて、後はバイト学生だった。僕を引きずり込んだ先輩はもう足を洗おうとしていて僕が入ると入れ替わりに某大企業に就職してしまった。その先輩はマツダのRX─7というスポーツカーに乗っていたのを覚えている。いわゆるFCというモデルだ。

その頃はそういう会社が普通だったと思うのだけど、バイト先の会社は時給制にはなっていなかった。だから会社が開発室と称して借りていたマンションの一室にはバイト仲間の先輩が一人住み着いていた。彼が別に家を持っていたのかどうかは今となってはわからない。

時給制ではなかったので仕事はだいたい一行100円だった。千行書いたら10万円だ。プログラムの何を一行に数えるの、とか、何言語でプログラムを書いても同じなの、とか、今から思うとツッコミどころが多いけれども、当時は万事がおおざっぱだったのだ。

何ヶ月かしてひと仕事終わると強面の社長に呼び出されて差しで面談するのが日常だった。「おいっ、今回はだいたいいくらだ?」「8千行だから100万円くらいですかね」「高いな、30万にしておけ」「えっ、せめて80万円」「わかった、50万だな」こんな感じでいつももらえるお金が決まっていった。20歳そこそこのひ弱な優等生にはなかなか大変な世界だったけれども、おかげで世の中は強気が大事なんだととても勉強になったのは本当だ。

社長は元は技術者だったみたいだけれど当時は営業担当だったので、技術面は役員のOさんが差配していた。Oさんは博士課程満期退学組で、途中で論文を書くのが嫌になってバイトのプログラミングが本職になったタイプの人だった。

Oさんはあちこちの会社を掛け持ちしていて羽振りが良さそうだったけれど、独り身で愛猫と一緒に暮らしていた。いつも鈍い銀色の重そうなブレスレットをしていて、「これプラチナなんだよね~でも誰もこれがプラチナだなんて思わないよね。だからほら、ここに(定食屋のテーブルに)ぽんと置いておいても誰も盗ったりしないよね~」なんて言っていた。「これがロレックスだったらすぐ盗られちゃうじゃん。ロレックス買うなんてバカだよね~」ということらしい。ある日、Oさんの猫が家の外で交通事故にあってしまい戻ってきてそのまま亡くなってしまった。柄にもなくOさんはとても悲しそうだった。

僕がこの会社で学んだ第一は世の中は強気が大切ということなんだけど、もう一つ学んだのはプログラミングの研究は儲かるということだった。今の若い人もそうだろうけど、普通の人はプログラムが一通り書けるようになると満足してしまう。それ以上プログラミングを深く追求する人は少ないように思う。興味を失ってしまうのだ。でもそれはもったいない。

社長はいつも同じようなソフトウェアの開発を取引先から請け負ってきたので、僕はいつも同じようなプログラムを書いていた。そう書くと悪口みたいだが、やり手の社長は同じ会社から次々と仕事を受注していたのだと思う。だから仕事の内容が似ていたのだ。

似たような処理をするプログラムは似たような中身になるので、以前書いたプログラムの断片をなるべく次のプログラムに再利用するのが良い。つまりそのままコピーする。さらに進めて良く使うプログラムの断片をあらかじめ書きためて断片集(専門的な言葉でいえばライブラリだね)にしておけば新しいプログラムもすぐに書ける。なんと言っても僕は一行100円で働いていたから前に書いたプログラムをコピーできればとても効率よくお金を稼げる。

しかし世の中そうは問屋が卸さない。そのままコピーできるプログラムの断片は実はあまり多くない。だいたい同じなのだけど少しだけ違うという場合がほとんどだ。だからプログラムの断片集を作っても実際にはあまり使えなかったりする。

当時僕が書いていたプログラムもご多分にもれず、あまり断片をコピーできなかった。だから毎日せっせと何行分かのプログラムを書き連ねては社長から一行100円でお金をもらっていたわけだ。

しかしその頃はちょうどオブジェクト指向という技術が普及し始めたときだった。今では当たり前の技術なんだけど、その頃はちょっとした最新技術だった。なんでもそれを使うと上手い具合に断片をコピーできるらしい。

僕は大学ではソフトウェアの研究室にいたので、そういう最新技術はお手のものだ。普通の人はアメリカで作られたオブジェクト指向の断片集をありがたがって使うのだけど、僕は自分で自分の断片集を作り始めた。アメリカ製の断片集はすごいのだけど、自分たちが書いているプログラムに使おうとするとなかなかかゆいところに手が届かない。Oさん始め皆はネットニュース(今で言うSNSだ)で情報交換しながら悪戦苦闘して使っていたのを覚えている。

技術担当のOさんは本当はすごくよくわかっている人だったけれど、基本的にはいい加減な人のふりをして僕のプログラミングには口を挟まなかった。だから僕は社長に言われたプログラムを書きながら、黙々と自分の断片集を書きためた。

断片集を書きためるとコピーできる断片がだんだん増える。コピーできる断片が増えれば新しいプログラムを書くのが楽になる。最初は半年かかった仕事が次は三ヶ月で終わるようになる。新しいプログラムを書くといってもその大半は断片集からのコピーだからだ。

僕は一行100円のプログラマだったので、コピーの分も一行につき100円もらっていた。Oさんはもちろん社長も僕が何をしているかわかっていたようだけど、あまり値切らず払ってくれた。働く時間はだんだん短くなっていくのに同じお金をもらえるのだからオブジェクト指向は素晴らしい。若かった僕も世の中の仕組みがちょっと分かった気がしたものだ。

通り一遍のプログラミングを覚えて満足しているだけでは、こうはいかない。プログラムというのは同じことをするにも何通りも書き方がある。上手な書き方を見つけられれば、あの頃の僕のようにちょっと良い目に合うことだってできるのだ。プログラミングを追求すればそんな書き方だって見つけられるようになる。

結局僕はある夏を最後にその会社を辞めてしまった。最後の仕事は三日ぐらいだったと思う。それまでだったら半年ぐらいの仕事が三日で終わったのだから大したものだ。

会社を辞めて研究室でのプログラミングの研究に打ち込むことになった。そのまま今に至っている。悲しいことにOさんはその後10年ほどして突然亡くなってしまった。ちょうどその頃、僕はOさんが通っていた大学で働いていたのでゆかりの人達と一緒にお別れの会をやった。今でも僕にとってのOさんは猫とプラチナだ。

千葉 滋
初出:『UP』2021年9月号

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