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いま「暴力」を考えるために/『「暴力」から読み解く現代世界』序章

6月新刊『「暴力」から読み解く現代世界』は、世界各地、さまざまな規模で噴出する暴力を、各地域の専門家が分析し、その複雑な力学と争点を解きほぐす意欲作です。編者による序章の一部を以下で公開します。

暴力を考えるうえでの近年の最大の変化として挙げられるのは、暴力の可視性の急激な拡大である。2019年4月の逃亡犯条例改正をきっかけに始まった香港の民主化デモでは、103万人が参加した6月のデモ以降、幾度となくデモ隊と警官隊との衝突が発生した。2020年5月には、アメリカでジョージ・フロイド氏が警察官に拘束された状態で死亡する事件が起こり、BLM運動が再燃する契機となる。ミャンマーでは2021年2月のクーデター以降、国軍のデモ隊への制圧によって多数の死者が発生している。いずれの場合にも、スマートフォンで録画された現場の映像がSNSを通じて拡散されることで、暴力の視覚的・聴覚的なイメージの力は従来とは比較できないほど増大している。フロイド氏の事件の現場をスマートフォンで撮影した一般女性がピュリツァー賞の特別表彰を受けるなど、個人が撮影した映像の社会的な重要性や影響力も大きくなっている。他方で、性暴力や子どもへの暴力など、これまで闇に葬られてきた暴力が、#MeToo 運動に代表される被害者の告発により、場合によっては数十年単位の時間を経て明るみに出るケースもある。警官などの公権力による暴力もこうした技術によって露見することで国内外の非難を生む一方で、2021年5月に施行されたフランスの「自由を保護するグローバル・セキュリティ法案」のように、公権力に属する個人を特定する別種の暴力と、そこから派生しうる直接的な暴力を法的に防ごうとする動きも見られる。

こうした暴力の可視性の拡大は、どのような帰結をもたらしているのだろうか。第一に、暴力の可視性の爆発的増大によって、暴力のうちに凝縮された諸関係の複雑性が、身体に振るわれる物理的暴力という理解しやすいイメージに還元されかねないということがある。暴力の顕著な可視化とともに逆に見えづらくなるのは、しばしば個々の身体的暴力を生み出す背景となっている、各地域や社会の歴史や文化に根ざした差別や排除の構造、対立関係であり、言い換えれば不可視の暴力である。現代社会の暴力の特徴を考えるためには、制度やシステムを通じて後景で機能している構造的暴力をも念頭に置かなければならない。第二に、市民を鎮圧する警察や治安部隊の姿は、正当であるはずの公権力による暴力の使用への疑義や反発を生じさせる契機となっている。第1節で述べた暴力の相対的定義に従えば、公権力による武力の行使は、公的秩序や市民の安全を守るという建前のもとで、社会の基準や規範の側に属している。しかし、近年の出来事で私たちが頻繁に目にしているのは、暴力に見えるが暴力とはみなされない行為である。2021年6月25日、ミネソタ州ヘネピン郡地裁は、フロイド氏を殺害した警官に22年6カ月の実刑判決を下した。職務の遂行のうえで許容された範囲を逸脱した点で、警官の行為は暴力と認定されたわけだが、ここでの問題は明らかに、行為の評価が事後的になされることそれ自体にある。フロイド氏が亡くなり、黒人に対する警察の暴力を糾弾する運動が各地で再燃することがなければ、警官による拘束は通常の業務の範囲内にあったと判断された─ 問題にさえならなかった─ 可能性が高いからである。

この意味で、公権力による暴力は、先の相対的定義の特殊事例を構成している。外科医による執刀の方法や程度は、医学的な正当性や合理性によってあらかじめ規定されており、意図的な逸脱は許されない。それに対して、公権力による力の行使の様態は状況に大きく依存しており、行為を規制する基準そのものの境界線が不明瞭である。ドミニク・モンジャルデは、力と法のアポリアに内在する原理的な危険を指摘している。法が力を自分の代理として立てるとき、力はまさに法の体現者となり、力を縛るものがなくなってしまうのである(Monjardet〔1996〕, p. 25)。実際、警察が活動する現場では、事態の切迫性に応じて、各警官ないしグループがその場で意思決定をおこなわなければならないケースがある。そして、警官による力の行使が適切な範囲からの逸脱を疑われた際に、当該の行為に問題はなかったと事後的に判定されるケースがきわめて多いことも言うまでもない。

以下では、フランスを中心としたいくつかの事例をもとに、特に警察に代表される公権力の暴力と構造的暴力に着目しながら、今日の暴力を考えるための視点を提示してみたい。

2018年11月17日に燃料税の増税への反発を契機として始まったフランス政府への大規模抗議行動「黄色いベスト」運動では、毎週土曜日に展開されるデモ活動のなかで、抗議者と警察との衝突が繰り返し生じた。運動が長期化と過激化の様相を呈していた2019年3月7日、エマニュエル・マクロン大統領はグレウー= レ= バンで開かれた討論会で、市民の前で次のように発言した。「警察の鎮圧や暴力という言葉は使わないでください。これらの言葉は法治国家では容認されません」。さらに2020年7月28日には、ジェラルド・ダルマナン内務大臣が国民議会でこう述べている。「個人的には、『警察の暴力』という言葉を聞くと息が詰まります。警察はたしかに暴力を行使しますが、それは正当な暴力です。これはマックス・ヴェーバーと同じくらい古いことです(C’est vieux comme Max Weber)」。大統領が暗黙裡に前提とし、内務大臣が直接に言及しているのは、ヴェーバーが一九一九年の講演「職業としての政治」でおこなっている近代国家の社会学的な定義だろう。「国家とは、ある一定の領域の内部で─ この『領域』という点が特徴なのだが─ 正当な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間共同体である〔…〕」(ヴェーバー(2020)、9頁)。

しかし、フランスの政治家、とりわけダルマナンによるヴェーバーの援用には、「息が詰まります」という明らかに不適切な言葉の選択のほかにも(警察に拘束されたフロイド氏は繰り返し「息ができない」と訴えていたと報じられた)、いくつかの点で問題がある。第一に、ここでヴェーバーが述べているのは国家についてであって、警察についてではない。警察はあくまで国家の一機関であり、国家の定義とは別の定義を必要とする。第二に、ヴェーバーは、国家は正当な物理的暴力行使の独占を「要求する」と述べているのであり、国家が行使する暴力がそれ自体で正当だと述べているわけではない。だからこそヴェーバーは先の定義に続いて、国家という、暴力の行使に支えられた人間による人間の支配がいかなる正当性をもちうるかという根拠の問いを立てているのである(伝統的支配、カリスマ的支配、合法性による支配)。第三に、こうした誤解が、誤解であるにもかかわらず、ヴェーバーと「同じくらい古い」という言い回しのもとで、揺るぎない真理であるかのように断言されていることも看過できない。このフランス語表現は、しばしば「世界と同じくらい古い(C’est vieux comme le monde)」という形で使われ、「とても古い・大昔からある」という意味を表す。だが、ヴェーバーがこの講演をおこなったのは、いまからわずか100年前、第一次世界大戦の敗戦によるドイツの混乱のなかで、スパルタクス団の蜂起が失敗に終わった直後の時期である。その後に成立したヴァイマール共和国の不安定な政治状況を経て、ナチスの台頭と第二次世界大戦へと至る歴史の経過を考えたとき、ヴェーバーのうちに現代世界から隔絶した古さを見ることは、端的な時代錯誤か、さもなければ歴史に対する感覚の欠如ではないだろうか。

これらの問題は、ヴェーバーと同時期に著された重要な暴力論であるヴァルター・ベンヤミンの「暴力批判論」(1921年)を参照することでより明確になる。この論文でベンヤミンは、「法措定的暴力」と「法維持的暴力」という有名な区別を提示している。法措定的暴力とは、終戦後に締結される講和のように、他の一切の法的関係とは無関係に是認される新しい法秩序を樹立する暴力である。国家が、それ以外の個人や団体に物理的暴力を行使する権利を認めないのは、その暴力が法措定的なものになるのを恐れるからである。たとえば労働者集団のストライキは(ストライキには、労働行為の不履行は特定の条件下で取り消されるという恐喝の要素が含まれる点で、ベンヤミンはストライキ権を暴力を用いる権利と捉えている)、単に雇用者に特定の要求を認めさせるための手段にとどまらず、新たな法的関係を打ち立てたり、既存の関係を修正したりすることができる暴力である。それに対して、法維持的暴力は、法的目的(法的な是認を獲得している目的)に従属させるために用いられる暴力であり、兵役義務が例として挙げられる。

ベンヤミンはこの二種類の暴力が「亡霊めいた混合物」として警察のなかに現れているとする。「警察暴力(Polizeigewalt)」は、法的効力があることを要求しながら命令を発する点で法措定的暴力であると同時に、法的目的に奉仕する点で法維持的暴力でもある。しかし、法措定的暴力が既存の法関係から独立した新しい秩序を目指す暴力であり、法維持的暴力が既存の法関係の枠内で用いられる暴力だとすれば、二種類の暴力は本来は同居できないはずである。それゆえベンヤミンは、警察において両者の区別が撤廃されて結合している様態を「亡霊めいた」と形容し、警察暴力のつかみどころのない無定形の性格を強調するのである。警察は無数のケースで「安全のために」介入をおこなうが、そこでは警察が「粗暴な厄介者」として市民につきまとったり市民を監視したりすることがなければ、いかなる明確な法的状況も存在していない。安全を守ると自称して干渉する警察は、法的目的とは関係なく行動しており、そこでは警察の存在それ自体が、こう言ってよければ法的な曖昧ななにかを表現しているにすぎない。ベンヤミンは絶対君主制と民主制の警察を比較し、前者においては、立法と執行の絶対権を統合した君主の暴力を警察が代表しているのに対し、後者においては、警察の存在はそのような関係によって高められていないとする。民主制における警察暴力は、「暴力というものの考えうる限り最も退廃した形態の証し」であるという(ここまでの引用はベンヤミン(1999)、247─249頁による)。

こうしたベンヤミンの議論は、現代の公権力による暴力を考えるうえで示唆的であるだけでなく、必要不可欠でさえある。警察の装備や技術が格段に高度化している今日では、警察に内在する法と力のアポリアはベンヤミンの時代以上に深刻な帰結をもたらすからである。ベンヤミン自身が躊躇せずにこの言葉を用いているように、「警察暴力」はベンヤミンと同じくらい古い、と言わなければならない。

文・藤岡俊博(フランス現代思想)


参考文献
Dominique Monjardet (1996), Ce que fait la police : Sociologie de la force publique, Paris, La Découverte.
マックス・ヴェーバー(2020) 『職業としての政治』 脇圭平 訳、岩波書店
ヴァルター・ベンヤミン(1999) 『ドイツ悲劇の根源 (下)』 浅井健二郎 訳、筑摩書房


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