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スター・ウォーズ短評

スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望(1977)

この映画を観たときの、エピソードのナンバリングも、サブタイトルもない、まっさらな「スター・ウォーズ」だった時のことを思い返してみると、引用に塗れているのにどうしてオリジナリティや風格があるのか、と不思議になったことを思い出す。
これ一作しかないにも関わらず、SWはその設定の複雑さゆえに既に大作の雰囲気を纏っていた。それまでの歴史映画や戦争映画と比較したくなるような。
オズの魔法使いのようなパーティ編成。ドッグファイト。カーレース。アーサー王伝説。時代劇。西部劇。善と悪の魔法使い。ワーグナー。ホラー。それぞれの素材がポンポン消費されていくだけの構成ではある。
だけど、ここには何かが詰まっている。予感と期待に満ちた第一作。

スター・ウォーズ エピソード5/帝国の逆襲(1980年)

シリーズで初めて観た作品。主人公のルークは出てくるなりクリーチャーに襲われて、吹雪の中を遭難し、スノースピーダーはあっけなく撃墜され、ダゴバでの修行では未熟さを指摘され、父親に手を切り落とされ、換気ダクトから放り出されて泣きべそをかき、つい数日前に熱いキスをしてくれたレイアが既に他の男のものになっていることも知らずに肩を抱き寄せて終幕。とかなりキツかった。クリフハンガーというものも知らなかったので本当に呆然とした。主人公が活躍しない映画。初見時は興奮よりもモヤモヤが勝っていた。
だけど全てのシーンが生き生きと描かれ、記憶に刻まれる。帝国とヴェイダーの恐ろしさをひたすら映していく、タイトルに違わない物語。ルークから目を移してみれば全員が懸命に生きようとしている。やはり、中でもハン・ソロから目を離すことができない。
映画という文化を初めて体験できた一作。

スター・ウォーズ エピソード6/ジェダイの帰還(1983年)

イウォークを好きになれたかどうか?初見時11歳、ぜんぜん可愛かった。
3作目にして、やっとルークが堂々とジェダイとして活躍してくれる。これまで力いっぱい応援してきたルークはここでは頼り甲斐のある大人のようだ。その代わり、前作であれだけセクシーだったハン・ソロはもうコメディリリーフに徹している。レイア姫は相変わらず百発百中のすご腕ガンマンで久しぶりに3人が揃ったシーンはどれも楽しい。
ラストの同時中継バトルも素晴らしく、以降のエピソードでも度々フォーマットとして用いられるがそれぞれに作用し合うような説得力があるのは今作のみ。
日本ではジェダイの復讐として永く親しまれてきたので、Return of the Jediがヴェイダーを指しているという実感は薄かった。ヴェイダー周りはルーカス自身しっくり来ないのかリマスターの度に何度も作り直されているが、結局オリジナルのままでいいのではと思ってしまう。
メインのパーティに加え、ランド、ウェッジ、アクバー、ヴェイダー、皇帝にイウォークと前作以上にキャラクター描写に注力されている分、映画的な快楽はやや後退している。

スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス(1999年)

ジェダイの騎士は滅私奉公。どうもそのような厳しい掟がたくさんあるらしいことがクワイ=ガンとオビ=ワンのやり取りから見て取れる。だが、常に懊悩や葛藤に直面しながら厳しい選択を迫られている…という彼らの心情はノベライズを読んで初めて理解できた。SW以外でルーカスが監督業から足を洗っていたのも納得ができるほど、人物描写は描き足りていない。
その代わり、CG技術を駆使した銀河共和国の描写はどれも瑞々しい。本筋と関係なく熱狂的に興奮させるポッドレースは四半世紀を経てリメイクされた「アメリカン・グラフィティ」のようだ。
ルークとヴェイダーの対決に想いを馳せながら観るラストのライトセーバー戦。最盛期のジェダイ文化とはこれほどのものかと唸らせるような描き方はリアルで、クラシック音楽でいうところの古楽のようなものか。
再びトリロジーに着手し、6作の幕開けだけをひたすら語った作品。嫌な予感を撒き散らすジェイク・ロイドは本当に可愛かった。

スター・ウォーズ エピソード2/クローンの攻撃(2002年)

ジョージ・ルーカスの写真を思い起こすと70年代からずっと同じファッションのような気がする。ネルシャツ、デニムにスニーカー。そんな当時50代後半のおじさんの演出するラブシーン、何度も見返せるものではない。
アナキンとパドメの悲恋はこのエピソードに不可欠なのだが、「この先アレを描くためにこれをやらなくてはいけない」というプリクエルから始まったSW独特の制約ごとというのは映画として観たときにどうしても興を削がれてしまう。
オビ=ワンとジャンゴの一連のバトルシーン、空を飛ぶR2D2、アナキンの二刀流、フルCGのヨーダによる竜巻のようなライトセーバーなど印象深いシーンは枚挙にいとまがない。特にラスト、クローン兵団が投入されてからのジオノーシスの戦いの熾烈さは全編ハイライトと言える。本当に唐突かつ広範に始まる「戦争」。情報を処理できないまま戦況が変わっていくというリアルさによって、この日からクローン戦争が始まった事実を突きつけた。

スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐(2005年)

オビ=ワンとアナキンがスターファイターでコルサントの戦いに駆けつけるところから物語は始まる。2機が戦火に突っ込んでいくオープニングは音楽の使い方と相まって一気に意識を持っていかれる。
髪を切ったオビ=ワン、髪を伸ばしたアナキンはどちらもかっこよく、友人のような軽口の叩き合いをずっと続けているのも嬉しくなる。正義を信じて戦うオビ=ワン、自分を信じて闇堕ちするアナキンと、ふたりの主人公が肩を並べるからこそ、最後の対決に心揺さぶられる。
ルークとレイアが、ヴェイダーが、皇帝が、帝国が生まれた。ジェダイたちとパドメは舞台を降りる。オビ=ワンは寂しげに立ち去り、オーウェンとベルーがルークを抱きながらタトゥイーンの二重太陽を見つめながらの終幕。これ以上ない大団円、スター・ウォーズがここで完結したんだという感動は何ものにも変え難かった。その後10年間は。

スター・ウォーズ/フォースの覚醒(2015年)

J.J.エイブラムスによって新しくスター・ウォーズが始まった。
地表スレスレでTIEファイターとドッグファイトを展開するミレニアム・ファルコン!思えばトレイラーを初めて観た時が興奮の最高潮だったかもしれない。
そうはいっても本作は何度も劇場に足を運んだ。2D、IMAX、4D、吹替とこの10年間で楽しみ方の選択肢はかなり増えていた。それだけではなく、やはり本作はよく出来ている。ルーカスが携わってなくても、歴史の変遷が表現できていたからだ。新しいメインキャストたちもそれぞれ現在を生き抜いており、彼らの目を通した新しい戦いというのがリアルに感じられたからだ。そして、ハリソン・フォードがそこに説得力を加える。ようこそ、ここがスター・ウォーズだと。
キャンバスをどれだけ広げても、どのように色を重ねても良いという特権を与えられていることは最初から皆気づいていた。
だけど、皆信用していたのだ。スター・ウォーズを。

ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー(2016年)

スピンオフが映画のフォーマットで描かれた初めての作品ということで、本作もまた新たな時代のスター・ウォーズを感じさせた。
フォースを持たざる者たちのスター・ウォーズ、それはつまり帝国と反乱軍の血生臭い戦争映画を描くことになる。血脈と伝統という語り口を取り払って繰り広げられる物語は同じ世界観の中でもかなり肌触りが異なり、新鮮な体験をさせてくれた。
エピソード4時期の宇宙戦を現代のテクノロジーで表現するスカリフの戦いは、シークエルのどのバトルシーンよりも迫力があったし、兵士の目線で相対した時のヴェイダーの絶望的な恐怖感も凄まじかった。
エピソード7、ローグ・ワンと続いた先のエピソード8。ルークがどのような活躍を見せてくれるのか楽しみで仕方がなかった。

スター・ウォーズ/最後のジェダイ(2017年)

ルークの最期。夕暮れと共に力尽きるシーンは落涙せざるを得なかったし、すごいものを観たという鑑賞後の感覚は今でも思い出すことができる。何かを始めるために何かを終わらそう…日本のバンドがよく歌いそうなことで、そういう感覚は否定しないが、スター・ウォーズという映画にそんな決断を迫られるとは思わなかった。
そして、2023年2月現在、結局この映画からは何も始まっていない。この映画はスター・ウォーズの重要な文化を幾つか破壊した。だが何も再生しなかったのだ。
スノークがああいう退場をしたせいで、カイロ・レンのヴィランとしての伸び代も止まってしまった。続くレイとの荒ぶる共闘シーンは9つのエピソードの中でも屈指のアクションを魅せるが、アクションとストーリー運びが断絶しているせいで感情が通ってないようにさえ見える。
観客に驚きを与えようとすることが目的なのかと思うほど、スター・ウォーズを観たいという願いの裏をかき続けた凄い一作。
前作のハン・ソロに続き、今作ではルークが死んでしまった。

ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー(2018年)

印象に残るシーンも幾つかあるし、オールデン・エアエンライク、エミリア・クラーク、ドナルド・グローヴァーのメイン3人の若さ、未熟さ、残酷さ溢れるキャラクターは人間味を感じさせるほろ苦さがあった。
ただし、ドラマとして何を描きたかったのかが分からない不思議な映画で、いっそのことスター・ウォーズではない架空のSF西部劇と言ってくれたほうがまだ作品としての落とし所が見つかるかもしれない。
それまでの40年間、映画、コミック、小説、アニメと世界を拡張してきたスター・ウォーズ。中でもハン・ソロに関しては登場した時点で既にキャラクターとして完成されていたこともあり、その出自に思いを馳せるのはファンの愉しみでもあった。
本作はそれらを丁寧に場面を設定しつつ描いていく。はっきりとファンに向けて作られていることが分かる脚本となっている。
ただし、それをありがた迷惑だと受け取ったファンは多かったのではないか。わざわざ公式の映画にする必要があったのかと(それほどまでにスター・ウォーズを映画として描くことは簡単なことではないと考えている)。あちこちに隠されたイースターエッグ。卵を探す映画、という域を超えてはいない。

スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け(2019年)

エピソード7ではハン・ソロが、エピソード8ではルークが、そして本作ではレイアが死んだ。シークウェルとはどんなシリーズなのかと言えば、つまりそういうものだったと結論づけられても仕方がない。
THE DEAD SPEAKS!
1977年からスター・ウォーズを引っ張ってきたのは銀河皇帝だった(実は)というオチは何とも言えない落ち着きのなさを感じさせる。
しかも口を開く死者はパルパティーンだけではない。ハン・ソロも、ルークも、本当に格好良く登場する。ベンを、レイを、暖かく導いていく。ならば殺される必要はあったか?シークウェルを制作する理由はあったのか?もう、取り返しはつかない。
エピソード7を観たときにこんな結末は予想していなかった。本当だろうか?何だか嫌な予感がする。そう思わせたという意味においてはこれもまたスター・ウォーズだったのだろうか。

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