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【2019駒場祭特集】ジンブンアトラス編②-北風と太陽

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出典:https://hollar.library.utoronto.ca/islandora/object/hollar%3AHollar_k_0462

 みなさんご機嫌いかがでしょうか。
 ついにジンブンアトラスという名の大陸へと辿り着いたあなたは、まずは北風の、その次は太陽のもたらす、理不尽とも言える困難に見舞われることになります。この有名な寓話に付随する挿絵を、わたしたちがいかに理解しようと迫ったのか、今回はイメージの向こう側へと潜り込んでみましょう。

作者とその時代 -伊澤(表象文化論)

 この版画はヴェンツェスラウス・ホラーという当時を代表する版画家の作品です。彼はボヘミア王国の都プラハで1607年に生まれたのち、フランクフルトやケルンといったドイツ語圏で版画家となりました。その後イングランドの使節としてウィーンに向かっていたアルンデル伯爵に見出され、彼につき従って周遊したのちロンドンへと赴きます。残りの人生のほとんどをそこで過ごしたホラーは、3000を超える版画やドローイングを残し、1677年に生涯を終えました。
 彼の人生を特徴づけることといえば、その移動の多さでしょうか。背景にあるのは、17世紀ヨーロッパにおける宗教と政治の大変動に他なりません。ホラーが幼少期を過ごしたボヘミアでは、ハプスブルク家によるプロテスタント迫害が激しさを増していました。彼がプラハを発ったのも、のちにパトロンとなるアルンデル伯爵が大陸へと派遣されたのも、この宗教対立が遠因なのです。その後伯爵に従って1637年にロンドンへと移ったホラーですが、1644年にはイギリス内外を巻き込んだ清教徒革命のさなか、粛清を逃れてネーデルラントはアントウェルペン(現ベルギー)へと移住を余儀なくされます。1652年の恩赦によりロンドンに帰還したホラーは、ようやく終の住処へと落ち着いたのでした。
 ちなみに彼の名はチェコ語ではヴァーツラフ・ホラル、ドイツ語ではヴェンツェル・ホラーと呼ばれていたようです。ところかわれば名も変わる、政治や宗教の荒波にもまれ続けたホラーは、いまふうにいえば「移民」に違いない。それでも彼がイギリスで遺した肖像画には、窓の向こうに故郷プラハの大聖堂が描きこまれています。ヨーロッパを股にかけた生涯の道行きで、ホラルは遠き故郷を想い続けていたのかもしれません。

ホラー自画像

版画という技法 -伊澤(表象文化論)

 この絵は、版画、それもエッチングという手法で描かれています。このことから作品のどのような性格を読み取ることができるでしょうか。

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