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呪いみたいだ

私がしてきた経験から身を守るため、それでも生きていくため、そのために身につけた術や思考を可哀想と言われたのがとても悲しかった。

でも「可哀想」と言った本人には私が可哀想に見えたのは事実なんだ。

私の好きな人たちを否定されると思った。
私の好きな人たちのことも可哀想と呼ぶんじゃないかと思った。

哀れみは驕りだ。
私は可哀想なんかじゃない。
そう思いたいだけなのかもしれないけど。
皮肉で言っていることもわかっている。

私がしてきた選択や、これからする選択も、自分の好きだと思うことも、大切にしたいと思うことも、全て間違っているような気がしてきた。
それが怖かった。

自分の中途半端な成長意欲が自分の首を絞めた。急に身動きが取れなくなった。

今の自分が中途半端だから、中途半端な悩みを持って、信頼していた「はず」の人に中途半端な相談をして、中途半端な言葉に傷ついている気がする。

どうしていつも、自分を大切にしてくれる人を大切にする。この基本を疎かにしまうんだろう。

大切にしてくれるわけじゃない人の声に耳を傾けた。その言葉にがんじがらめになった。重たい鎖が体に巻き付いているように感じた。

私は意識をすみずみにまで行き渡らせたいと思った。私は人と関わるのが苦手だし、気を抜けばだらしないし、無意識にできることなんて思い当たらなかった。
昔から頭の回転は速い気がするけれど、それは思考をやめていないから、ただそれだけな気がする。思考量が莫大だからこそある程度の答えは自分の頭の中にあるだけで、頭がいいわけでもなかった。

息をつく場面でだって何かを考えている。日本語を読んだり聞いたりする時以外は同時に思考が働いている。数字にも、英語にも、向かいながら別のことを考えている。それが苦しかった。なのにどうしてもやめられなかった。

でもそれと共に生きる覚悟をした。そうやって積み上げてきた生きる術を「可哀想」だと言われたのが悲しかった。

本気の哀れみではなく、皮肉めいた「可哀想」だった。相手のことをどうでもいいと思っているときに口に出るような「可哀想」だった。


私が無意識に上手に生きられないこの生活を、この人生を可哀想だと言われた気がした。実際にそう言われているんだとも思う。

意識を通わせることや意思を持つことを驕りだと言われた。私の選択を偉そうだと言われた。
私の白黒思考を指摘しているんだろうとは思う。指摘され初めてやっぱりまだ白黒思考は濃く残っているんだと気づいた。

仲の良かった人が「相容れない」相手になっていく距離をずんずんと感じた。
なにを言っても無駄だろうと感じる相手に尽くす言葉は無いだろう。

しばらくはそのことしか考えられなかった。

だけどきっと自分の信頼する人はどうしてそう考えるのか聞いてくるだろうと思った。そして面白がってくれるんだろうと思った。その人には話せばいい。きちんと肯定されればいい。

肯定されることは嬉しいのに、肯定され続けることは甘えだと思ってしまう。なんだか居心地が悪くなって、気持ち悪くなってしまう。

どうしてそう思ってしまうのか自分ではわからない。

一旦顔を上げると、自分の好きな人たちがいつも通り変わらない様子でほっとした。

午後三時の日差しにしか照らせない水面に安堵した。

悲しいのに泣けなかった。
泣くほどではなかった。
大切だったはずのものを失うときの音はいつもうるさい。

やっぱり今も文字が滑る。音が滑る。記憶が滑る。
つるんつるんと滑っていく。
ここに乗せて悲しさも滑らせてしまおう。

もしも私のこの思考が歪みでも、誰かには可哀想に見えても、ちゃんと認めてくれる人を大切にしよう。

心臓が痛いなあ。

痛みは皮膚が裂けるような音がする。

人間なんて水でできているのにビリビリ服を破るみたいに裂ける。

でも私は記憶力が弱くなっちゃったから。
悲しいのもきっと今だけ。大丈夫。

大切な人をより大切に。
言葉をより丁寧に。
勢いに任せてナイフを投げちゃわないように。

中途半端な今の自分と向き合ったら、また新しい世界が見えるかもしれない。その世界で私はまた強く、優しくなれるのかもしれない。

そう思いながら眠る。
明日はきっと大丈夫。
痛みも、涙も、ここに残しておくから大丈夫。
いつか読む私の記録はいつかの私の糧になる。

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